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黎繞(クロマト)グラフィー ―愛と殺意の同一性―  作者: 柊ソラ


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第16話:白の陥入




 宝蔵院映見から投げ渡された『茅野』という名前は、蒼葉陸兎の内側に、ゆっくりと食い込む棘となっていた。

 それは決して鋭利ではない。

 だが、まるで薔薇の細刺さいしように抜けない。


 思考を巡らせるたび、わずかに痛む――そんな種類の違和感だった。


 あの日以来、陸兎は半ば自失したように新聞社のアーカイブ室に籠もっていた。

 蛍光灯の白い光。

 紙とインクの混じった匂い。

 端末の冷たいキーボード。

 夕方になれば編集フロアから喧騒が流れ込んでくるが、ここだけは時間が止まっている。


「……茅野、斗亞」

 呟きは、何度目かわからなかった。


 まず最初に被害者の近辺から洗い直した時、茅野という苗字はすぐその網に引っかかった。


 ――茅野斗亞。

 国立研究機関所属の若手研究員。

 副業として、とある大学の非常勤講師を勤めている

 論文数、受賞歴、推薦者。


(研究員と非常勤講師……)

 あまりにその男は、陸兎が引っかかり続けた二つの事件と近い位置にいた。

 そして何より、国立研究機関の川西斉とは同僚で、駐車場で殺害された橘優恵

とは講師と生徒という関係。


 偶然というにはあまりに揃いすぎてる。

 だが、断定できるまでの証拠が見つかっていない。

 現段階で一番の要注意人物なのは間違いない。


 その男の経歴は一筋の隙さえ与えないほどに、完璧だった。

 それは、下卑た報道記者ほど旨味を感じないタイプの人間だ。


 陸兎は目を閉じ、指でこめかみを押さえた。


 長年、取材を続けてきた身として分かる。

 人間の経歴は、どこかで必ず歪み、つまずき、汚れる。


 だが、茅野斗亞の履歴にはそれがない。

 まるで、最初から『こうあるべき人物』として設計されたかのようだった。


 冷めきった缶コーヒーを口に含み、顔をしかめる。

 眠気を吹き飛ばすように、いつもより苦味のあるもの選んだのだが、結果として眠気は引かなかった。


 それでも惰眠を貪る余裕はなく、気合いを入れ直して資料の山に向き直る、


 検索条件を変え、茅野という名字だけに絞って洗い始める。

 地方企業の社員、既に亡くなっている人間、一見無関係と思われる学生。

 茅野という人間は数件ヒットするものの、あまりに茅野斗亞という存在がデカすぎる。


「……くそっ」

 小さく吐き捨て、椅子の背に体を預ける。


 映見の顔が脳裏をかすめた。

 あの女は、確信のない情報を投げる人間ではない。

 だが、確証があるとも限らない。


「茅野、斗亞……」

 何度目かの、つぶやきだ。


 仮説にすぎない。証拠にはならない。

 だが、記者の勘が静かに警鐘けいしょうを鳴らしていた。


「んん〜、ちょっくら頑張るか」

 大きく伸びをして、気合いを入れ直した。


 陸兎は一人で動くことを選んだ。

 映見に共有する気はないし、助けを借りる気もない。

 情報を集めたければ常に足を動かせと、新入りの頃に言われた言葉だ。


 腕時計を見て、時間を確認する。

 よし、まだ全然間に合うな――。


 警察が『嘱託殺人』として処理を急ぐなか、切り捨てられたひずみを拾い集めるために、蒼葉陸兎は橘優恵が通っていた大学へ向かう。




  *****




 大学構内は、午後の光に満ちていた。


 学生たちの笑い声。

 掲示板に貼られたサークル勧誘の紙。

 事件の匂いは、どこにもない。


 陸兎は、まず事務局を訪れた。

 身分を明かし、形式的な取材を申し込む。


「茅野斗亞先生について、少し――」


 職員の対応は丁寧だった。

 だが、その丁寧さは会話を前へ進ませないためのものでもあった。


「非常勤の先生ですね。研究がご本業でして」

「学生アンケートの評価も安定しています」

「個人的なことについては、お答えできません」


 資料として渡されたのは、講義概要と経歴を要約した一枚の紙。

 そこに書かれているのは、陸兎がすでに何十回も目にした情報だけだった。


(ここでも、か)


 大学という場においても、茅野斗亞は『制度』だった。

 語られるのは業績だけで、存在そのものはどこか遠い。


 構内で学生に声をかけても、反応は似通っていた。


「もちろん知ってはいますが、それだけです」

「授業は淡々としてました」

「質問すれば答えてくれますけど……雑談は、ないっすね」


 誰も、悪くは言わない。

 だが誰も、何も覚えていない。


「印象、ですか?」

 一人の学生が首を傾げて、そう言った。


「……印象に残らない、っていうのが印象です」

 その言葉が、妙に胸に残った。


 存在しているのに、引っかからない。

 関わっているのに、痕跡がない。


 橘優恵という一人の人間が、確かにここで生きていた。

 けどその死と、茅野斗亞がどうしても同じ線上に並ばない。


(安全な距離に、置かれている……)


 大学を出た頃には、日が傾いていた。

 成果は、何もない。


 だが、陸兎の中では、『何も出ない』ことそのものが、異様に重く沈んでいた。


(会うしかないか)

 足で稼いだ結果として、次の目標を決める。




 新聞社に戻った陸兎は、すぐさま取材申請の文面を打ち込む。

 表向きは、新薬開発に関するインタビュー。


 誰もいないデスクで、彼は手帳を閉じた。


「……明日だ」


 完璧に調律された静寂の中、陸兎は静かに決意を固めた。






ご覧いただきありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら、ブックマークや評価をいただけると執筆の励みになります。

よろしくお願いします。


※本作は毎週水曜日・土曜日の20:20頃に更新予定です。



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