第13話:偽りの残響
大学の裏手、半地下の駐輪場。
規制線のイエローテープが剥がされ、警察の姿が消えた現場は何事もなかったかのように元の静寂を取り戻していた。
宝蔵院映見は、現場のコンクリートに残された微かな染みを見つめ、ライターの火を煙草に点した。
紫煙が湿った地下の重い空気に溶けていく。
「……相変わらず、煙草は止められないみたいだな。映見」
背後から届いた、低く、硬い声。
映見は振り返ると、口角をわずかに上げた。
男はその美貌に、どこか残酷な懐かしさをよぎらせる。
「あら、奇遇ね。報道のエース様が、警察すら匙を投げた変死現場に何の用? 蒼葉くん」
そこに立っていたのは、報道部の記者、蒼葉陸兎だった。
かつての熱血漢らしい面影は残っているが、その瞳には映見に向ける隠しきれない忌避感が宿っている。
二人はかつて、同じ大手新聞社の同期であり、恋人同士だった。
陸兎は純粋に彼女を愛していた。
だが、映見にとって『愛』や『情』は、何よりも優先されるべき『真実』や『スクープ』の前では、単なる交換条件、あるいは交渉材料に過ぎなかった。
数年前、とある大物政治家のスキャンダルを追っていた際、映見は陸兎が自分を信頼して預けた極秘資料を、自らの出世と他社への貸しを作るために独断で利用した。
結果、陸兎は報道の第一線から外され、映見は芸能部のトップ記者へと鮮やかに昇り詰めた。
陸兎にとって、それは最愛の人間への信頼と、記者としての誇りの両方を同時に引き裂かれた、拭い去れない過去だった。
「……あの時、君は言ったな。“報道は感情で動くものじゃない”と」
陸兎が一歩踏み出す。
彼の視線には、職務上の義務感を超えた、私怨に近い鋭い光がある。
「えぇ。今でもそう思っているわよ。事実を白日の下に晒すことに、誰の許可が必要なの?」
映見は肺いっぱいに吸い込んだ煙を吐き出し、挑発するように陸兎を見つめた。
「君が今回追っているのは、橘優恵の件か? 警察は嘱託殺人として処理する方向だ、これ以上首を突っ込むのは時間の無駄だろ。それとも、また誰かを踏み台にして、自分だけが“真実の眼”でいたいのか」
「ふふ、エース様も案外短絡的ね……無駄かどうかは、私が決めるわ」
映見は陸兎に近づき、彼のシャツの襟元を整えるふりをして、細い指先を滑らせた。
陸兎の体が、生理的な拒絶反応でわずかに強張る。
「蒼葉くん、あなたなら気づいているはずよ。あの日、現場周辺で目撃されたワインレッドのセダン。そして、橘優恵が最後に会っていたとされる“白衣の男”……」
映見はそこで言葉を切ると、陸兎の耳元へ顔を寄せた。
「その男……茅野という苗字なんだけど。知ってる? 彼の経歴、真っ白すぎて逆に“何も書かれていない”のよ。まるである日を境に、人生を新しく塗り替えたみたいに」
「……茅野? 誰だ、それは」
陸兎の声に、隠しきれない飢餓感が混じる。
映見はその微かな変化を逃さない。
「あら、知らなかったんだ……なら私が言えることはないかな、自分で調べたら? 正義感の強いあなたなら、この不自然な“白”の中に、何が隠されているのか放っておけないでしょ……私には、そのキャンバスが血で汚れているように見えるんだけど」
映見は、陸兎の耳元で愛を囁くような甘いトーンで、冷徹な『餌』を投げ与えた。
陸兎は彼女を突き放すように、大きく一歩下がった。
「……二度と、君の私利私欲に利用されるつもりはない。俺は俺のやり方で、この事件の裏に潜む真実を暴く」
「そう……期待しているわよ、正義の味方さん」
背を向けて去っていく陸兎の背中を見つめながら、映見は紅い唇を歪めた。
彼女は知っている。
陸兎がどれだけ自分を恨んでいようと、彼は根っからの優秀な記者だ。
そして『正義』の名のもとに深淵を覗き込まずにはいられない、悲しい習性を持っている。
彼が動けば、必ず『何か』が起こる。
彼女にとっては彼は未だに、パズルのピースの一つに過ぎなかった。
ご覧いただきありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたなら、ブックマークや評価をいただけると執筆の励みになります。
よろしくお願いします。
※本作は毎週水曜日・土曜日の20:20頃に更新予定です。




