第12話:空白の脚本
捜査一課の会議室。
「……結局、何も出ないってことか?」
刑事の榎木は、目の前に積まれた橘優恵の周辺捜査資料を投げ出すように放り出し、椅子の背もたれに深く体を預けた。
「いえ、厳密には“出すぎている”んです。いくらなんでも多すぎて、焦点が絞れなくなっているのが現状です」
そう答えたのは、若手刑事の浜名だ。
彼はホワイトボードに貼られた複雑な関係図を苦々しく指し示した。
「被害者の首には、指の形がはっきりと残っています。絞殺なのは間違いありません。ですが、現場となった駐輪場には争った形跡が一切ない。遺留品も、犯人のものと思われる毛髪一本すら落ちていない……あと、これは報道されてないのですが、彼女の唇から検出された“向精神薬”。榎木さんは。これをどう見ます?」
「……完全に服用していないところを見ると、無理やり飲まされそうになり抵抗していたか……だが、そうなるとますます争った形跡がないのがおかしい。どちらにせよ、あんなに綺麗な死体、俺も初めて見た。鑑識の連中も、まるで“誰かに身を委ねたような姿勢だ”って気味悪がってたぜ」
榎木は煙草を咥えようとしたが、浜名のわざとらしい咳払いで、ここが禁煙であることに気づき、苦々しく舌を打った。
「それに、あの“裏アカウント”だ。あれを信じるなら、彼女は絶望のどん底にいたことになる。だが、大学での彼女を知る人間は口を揃えて、“あんなに明るい子が、あんな陰湿な文章を書くはずがない”と言う」
「デジタル・フォレンジックの結果では、投稿場所は特定できませんでした。ただ、一つだけ気になる証言が出てきました……」
浜名が続けようとしたが、それを遮るように榎木が重苦しく言葉を吐き出した。
「いいか。これは“不審死”、あるいは限りなく自殺に近い“嘱託殺人”だ。その線で報告書をまとめろ。それが上からの命令だ」
ホワイトボードに貼られた橘優恵の写真は、淡い蛍光灯の下でどこか遠くを見つめている。
「榎木さん、本気ですか。首にあれだけはっきりした圧迫痕があるんですよ。他殺であることは疑いようがない」
浜名が食い下がるが、榎木は力なく首を振った。
「抵抗痕がない。現場の遺留品もない。おまけに、あの絶望に満ちた裏アカウントの投稿と、まるで唇に塗りたくったかのような薬物の残滓……いいか、上層部はこれを“精神的に病んだ女子大生が、誰かに自分を殺してくれるよう依頼した結果”だと見たがっている。犯人を特定できないまま迷宮入りを恐れるより、このまま被害者側の事情として処理した方が、世間体もいいってわけだ」
「そんな……。あまりに安易すぎます。彼女を殺した人間が、野放しになるんですよ」
「証拠がないんだよ、証拠が! 誰かが殺したって証拠じゃねぇぞ、その誰かを特定する為の証拠だ! 足跡一つ、防犯カメラの映像一つ残ってないんだ。このまま捜査を続けても、税金の無駄遣いだと叩かれるだけだ……」
榎木が椅子を蹴るようにして立ち上がり、廊下へ出たその時――。
まるでその重苦しい空気を切り裂くように、異質で芳醇な香水の香りが漂ってきた。
「あらあら。正義の味方が白旗を上げる準備かしら?」
廊下の壁に背を預け、退屈そうに爪を眺めていたのは宝蔵院映見だった。
抜けるように白い肌に、手入れの行き届いた黒髪。
すべてを見透かすような切れ長の瞳を縁取る、鮮やかな紅いリップ。
一見すれば社交界の華のような美貌だが、その瞳の奥には凍てつくような冷笑が宿っている。
「……宝蔵院さん。ここは関係者以外立ち入り禁止だ。取材なら広報を通してください」
「広報? ああ、あの壊れたレコードみたいな連中のことね……嘱託殺人、ですって? 笑わせないで。あんなに綺麗に設えられた舞台、被害者の絶望だけで完成するはずがないわ」
映見はハイヒールの音を鋭く響かせながら、榎木の至近距離まで歩み寄った。
彼女の圧倒的な存在感と威圧感に、榎木は思わず気圧される。
「榎木さん。あなたたちは被害者の“裏側”を追っているつもりでしょうけど、実際には犯人が用意した“脚本”をなぞっているだけよ……あの現場に、不自然なほどの空白を感じない? 犯人は彼女を殺したんじゃない。彼女を、完璧な形でこの世から消したのよ」
「……お前に何がわかる?」
「わかるわよ。私、死体と嘘には詳しいの……ねえ、榎木さん。今のままじゃ、あなたたちは一生、パズルのピースすら手にできないわ。白すぎる人間、一点の曇りもない経歴を持った誰かが、その空白の中に隠れているというのに」
映見は、長い指先で榎木の胸元を軽く突いた。
その紅い唇が、残酷なほど美しく歪む。
「……でも、いいわ。あなたたちが無能であればあるほど、私の“特ダネ”の価値は上がるもの。せいぜい、橘優恵の絶望を捏造したまま、幕を引く準備でもしてなさい」
映見はそれだけ言い残すと、二人の言葉を待たずに背を向けて歩き出した。
警察が組織の保身のために捜査を打ち切ろうとしている。
それは茅野斗亞にとっての『勝利』を意味するはずだった。
だが、宝蔵院映見という『毒』は、その勝利がどれほど脆弱なものであるかを、榎木たちの中に刻みつけていった。
「……榎木さん。あの女が言った“白すぎる人間”って、どういう意味でしょうか?」
浜名の問いに、榎木は答えなかった。
廊下には、強烈な香水の残香と、組織の論理に押し潰された沈黙だけがいつまでも重く残っていた。
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