第10話:インクの渇き
「これも違う……もう、ハズレばっかり」
雑居ビルの地下にひっそりと佇む、年代がかったガレージ。
主を失ったそこは、彼女の手で改造され、本来とは別の目的で息を吹き返していた。
断熱材が剥き出しの壁や、手入れの届かない重いシャッター――ここは、機能性だけを求めて他を切り捨てた、時代にそぐわない彼女の城だ。
宝蔵院映見は、灰皿に押し付けた煙草の煙を、細く長く吐き出した。
天井から吊り下げられた琥珀色のワークライトに照らされたのは、二つの事案――国立研究機関の死亡事故と、女子大生の変死。
厚手のスチールデスクの上に、それらの資料が秩序なく散らばっている。
彼女にとって、正義や真実などという言葉は腹の足しにもならない。
彼女が求めているのは、完璧に整えられたパズルの絵に混じった『異物』であり、調和を乱す致命的なバグだ。
「川西斉……事故。アルゴンガスによる窒息。不自然なほど綺麗なアクセスログと、誰にも看取られなかった最期。そして橘優恵。前頸部圧迫による窒息……明らかな他殺」
彼女は、指先で優恵の写真を無造作に弾いた。
「警察は“変死”として慎重に洗ってるみたいだけど、進展はゼロ。抵抗した痕跡もなければ、目撃証言もない。おまけに、タイミングよく不自然な裏垢まで浮上して……まるで、誰かが彼女に“悲劇のヒロイン”という幕引きを、丁寧にお膳立てしてあげたみたいじゃない」
映見は、血を流し合うような芸能記者時代に学んだことがある。
『本当に追い詰められた人間は、あんなに器用に自分の足跡を消すことはできない』
ということだ。
誰かが消した。
それも、驚くほど冷徹で、感情を排した『掃除屋』の手によって。
彼女は、橘優恵が最期に目撃された現場――あの半地下の駐輪場に、何度も足を運んでいた。
「あの夜、あの場所に停まっていた、持ち主不明のワインレッドのセダン……」
防犯カメラの死角を巧みに突き、最短ルートで現れ、そして霧のように消えた影。
映見は、その『影』の輪郭が、研究所の事故で見え隠れする『完璧すぎる空白』と同じ手触りであることを、天性の嗅覚で感じ取っていた。
彼女が真に目をつけたのは、実は事件そのものではなかった。
犠牲者たちの接点を執拗に洗う中で、馴染みの名簿屋から流れてきた、断片的な情報のアーカイブ。
それは十数年前、ある住宅街で囁かれていた『通報までは至らなかった、家庭の不穏な噂』と、それの行く末の記録だった。
『日常的に、怒鳴り声と衝撃音が鳴っている。だが、ある日を境にぴたりと止む』
『突然の事故により、天涯孤独となる一人息子』
『親族に歓迎されてないようで、各家を転々とする』
それらの情報だけで、当時の『彼』の状況や心境は想像に難くない。
「……茅野、斗亞」
彼女は、最新の研究所職員名簿にある彼の名前と、その古いメモを交互に見つめた。
現在の彼は、あまりにも『白』すぎる。不自然なほど清潔で、無菌状態のキャリア。
「この資料を見るだけでも、悲惨な生い立ちをしていることがわかる。そんな人が、こんなにも真っ直ぐ育つかしら」
偏見のような言葉だが、彼女が言うまっすぐとはまさしく平坦で凡庸という意味を持つ。
「……たまに自分の体験を反面教師に、立ち上がる人はいるけど。彼はそれもなくあくまで平坦……“私みたい”に、壊れている様子もない」
彼女はまだ、彼を犯人だと断定してはいない。
だが、優恵が死んだ夜、その周辺を徘徊していた一人の『男』の後ろ姿を、彼女のカメラのレンズは確かに捉えていた。
「ねえ、茅野くん。その綺麗な白衣の下に、一体どんな真っ黒な“特ダネ”を隠してるのかしら」
彼女は冷めきったコーヒーを一気に飲み干し、重たいカメラバッグを肩にかけた。
警察のように『法』で裁くつもりなど毛頭ない。
ただ、彼が心血を注いで積み上げた完璧な壁に、針一本分の風穴を開けて、そこから漏れ出す『本音』を世界で一番最初に文字にしたいだけだ。
それが、宝蔵院映見という女にとっての、唯一の呼吸法だった。
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