第9話:無菌室の静寂《しじま》
研究所の朝は、驚くほど平穏だった。
数日前、ここで一人の人間が二酸化炭素よりも冷徹なガスに巻かれて絶命したことなど、高性能な換気システムがすべて吸い去ってしまったかのようだった。
循環する空気はどこまでも無機質で、死の残香すら残していない。
「おはようございます」
茅野斗亞は、いつものように守衛の蒔田に会釈をした。
「……あ、ああ。おはよう、茅野くん」
第一発見者となった蒔田の顔は土気色で、数日で十歳は老け込んだように見える。
彼にとってあの夜は一生消えないトラウマだが、斗亞にとっては『完璧に処理されたタスク』の一つに過ぎない。
白衣に袖を通し、IDカードをゲートにかざす。
ピッ、という電子音が、日常という名の安息地への帰還を告げる。
質量分析室へと向かう廊下。
川西が倒れていた場所には、もう規制線はない。
ただ、念入りにワックスがけされたばかりの床が、そこだけ不自然に光を強く反射している。
斗亞はわざとその中心を踏み抜いて歩いた。
――……黎、お前も大概だな。死体の上を平然と歩く気分はどうだ?――
脳内の繞が、退屈そうに問いかける。
(黙れ。ここは僕の職場だ。ゴミ一つ落ちていないのが、この場所の正常な姿だ)
研究室に入ると、同僚たちが声を潜めて談笑していた。
川西という絶対的な重圧がいなくなったことで、室内の空気からは澱みが消え、奇妙なほど風通しが良くなっている。
表面上の騒ぎは沈静化したはずなのに、廊下ですれ違う職員たちの視線には、被害者への純粋な哀悼ではなく、得体の知れない『不純物』に対する警戒が混じり始めている。
「……結局、過労死に近い扱いになるらしいよ」
「自業自得だよね。あの人、無理なスケジュールで部下を使い潰してたし」
「いつも、機材の扱いには口うるさくいっていたくせに、結局は過信だよ」
斗亞は彼らの会話をBGM代わりに聞き流しながら、淡々と遠心分離機のスイッチを入れた。
他人の死を『自業自得』というラベルで処理し、忘却の彼方へ追いやろうとする凡俗な心理。
その身勝手な合理化こそが、斗亞の隠蔽をより強固なものにする。
「茅野さん」
後ろから突然、声を投げかけたのは同じプロジェクトチームの研究員、佐伯だ。
斗亞の後輩である佐伯は普段は物腰が柔らかく、誰に対しても低姿勢なのだが、意にそぐわないことであれば年上だろうが上司だろうが反抗できる気骨を持つ。
周りからの信頼も厚く、将来を有望視されている青年、というのが斗亞の中での総評だ。
「……佐伯くん、どうしたんだ」
「川西さんが最後にアクセスしてたログ、見ました? 亡くなる直前まで、茅野さんが担当してる細胞データの照合をやってたみたいなんですけど。熱心ですよね、茅野さんのことに関しては」
斗亞の指先が、一瞬だけ止まる。
「……そうかな。だとしたら光栄だな」
「でも、変なんですよ。川西さん、あの時間帯は別の論文の校正をしてるって言ってたはずなんだけど。わざわざ茅野さんのデータを弄る必要なんてなかったはずなのに」
佐伯の言葉は、悪意のない純粋な『疑問』だ。
だが、その小さなさざ波が、斗亞の構築した完璧な論理の堤防を確実に穿とうとする。
「……きっと、僕の仕事が不安だったんだろう。あの方は稀に見る完璧主義者だったからな」
「あはは、それもそうですね」
佐伯は斗亞の言葉に変に疑問を持つことなく、納得したように去っていった。
「…………」
斗亞は無表情のまま、遠心分離機の中で高速回転する検体を見つめた。
工作は完璧だったはずだ。
だが、人間という不確定要素は、時として論理の外側の、名状しがたい『違和感』を拾い上げる。
「……茅野くん、ちょっといいかな」
午後のデータの整理中、事務局の職員が声をかけてきた。
「はい、何でしょうか」
「実は昨日から、君宛てに妙な電話が何度かかかってきていてね。学術雑誌の記者だとか、古い友人だとか名乗っているんだが……心当たりはあるかい?」
神妙な面持ちの職員に対し、斗亞の思考が、コンマ数秒で幾層ものシミュレーションを巡る。
「……いえ。僕は外部との付き合いはほとんどありません。何かの間違いでは?」
「そうか。あまりにしつこいから断っておいたよ。川西さんの件以来、広報もピリピリしていてね。変な奴らに餌を与えるなと言われているんだ」
職員が立ち去った後、斗亞は白衣のポケットの中で静かに拳を固めた。
――……黎、嗅ぎ回られてるぜ。警察じゃねぇ、もっと“下衆な奴”にな――
脳内の繞が、不快そうに舌打ちする。
工作は完璧だった。
デジタルログも、物理的な証拠も、一切の隙はない。
だが、記者のような連中が探すのは『証拠』ではない。
彼らが嗅ぎ当てるのは『違和感』という名の、言葉にできない澱んだ匂いだ。
その日の昼休み、斗亞は研究所の裏門から少し離れた自販機コーナーへ向かった。
そこは建物の死角が多く、職員たちが人目を盗んで煙草を吸うために立ち寄る場所だ。
そこで彼は、捨てられた週刊誌の束が、不自然に並び替えられているのを目にした。
誰かがここで、職員たちの取り留めのない立ち話を『盗み聞き』していたような形跡。
斗亞は、自分の日常の境界線が、見えない何かに少しずつ侵食されているのを感じていた。
無菌室だったはずの自分の世界に、一滴の汚染物質が混入したかのような、生理的な嫌悪感が背筋を走る。
ご覧いただきありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたなら、ブックマークや評価をいただけると執筆の励みになります。
よろしくお願いします。
※本作は毎週水曜日・土曜日の20:20頃に更新予定です。




