06 本物のクソシスター
条件反射に近い。
聞こえて秒を待たずにマンフレートの足が動き出していたのをアメリアは見た。
エーディトをもってして、善悪を別にして特筆に値する、とまで言わしめた彼の観念あるいは信仰は、あまりに身体化されていた。そこにタイムラグはなく、アメリアが駆けてゆく彼の姿をわずかなあいだ何もせずに見送ってしまったのも無理はない。
悲鳴が珍しくないこの街で、その咄嗟の判断はアメリアには馴染みのないものだった。そんなものは日に二回聞くことだってある。そう理解しているのに、アメリアも気付けば走っていた。知らずに動いた体の反応を、彼女は自身で理解できなかった。言ってしまえばマンフレートにつられたということになるのだが、アメリアはまだそれを即座に認めるほど成熟してはいなかった。
無理にスピードを上げて追いついたアメリアが、走り続けるマンフレートに声をかける。
「ハア、おい、くそ、むやみに走んじゃねえ。迷うに決まってんだろ」
「来た道は覚えている。戻っているだけだ」
「マジかよ、大した商人様だなおい」
投げた皮肉は触れられることもなく、ついてきてみればアメリアは路地に入る前に再会した通りに戻ってきていた。マンフレートは言うとおりに迷わず案内した道を逆にたどってみせたのだ。路地の複雑さを思うとすこし信じがたい部分があるが、しかし実際に戻ってきている。だからアメリアは余計なことを考えないことにした。この男はそういうものなのだ。
そのマンフレートは路地から出るなり方向も確認せずにまた走り出した。どこから悲鳴が聞こえてきたかわかっているようだった。
常識外れの速度で走るふたりの先に、また別の走るふたりの姿が見えた。遠目にはスラム街によくいるタチの悪い男と、修道女らしい。
「なんですか、もう、ちょっ、顔っ、血、ほら、痛いんじゃないんですか!?」
動きにくそうな修道服で懸命に逃げながら、ときおり後ろを確認してはそのたびに頑張って速度を上げている。後ろの男が止まることなく追い続けているのだ。一般の女性がああも追われれば怖くもあろう。必死さがうかがえる。
「おい、あれ」
「医者殺しだろうな」
「お前がどうにかしろよ、動き出したのはそっちだからな」
返事をするよりも先に、マンフレートは姿勢を低くしてさらに速度を上げた。ぎりぎりのところだ。男の手が修道女に届きかけている。マンフレートが駆ける。足の接地の時間が短い。音が軽い。逆に速度を落としたアメリアも感心する。これならばマンフレートの体が割り込むほうが早い。
男の手を止めて、即座に突き飛ばす。そして修道女に声をかけて一歩退かせる。ずいぶんとそつがない。なんというか、感情に任せた部分がない。アメリアの知るケンカとは違った分野のものらしい。
自分に依頼をしてきた男がどうするのか。アメリアはそこに興味を持った。痛みで怯まないことは知っている。脚を折るのだろうか。
構えをとったマンフレートは、緩慢に動いているようにも見える男のあごを右の拳で打ち抜いた。
ぐらりと体が揺れて白目を剥き、くずおれるようにして男は地面に伏した。
正確な一撃だった。あれなら痛みすら残らないだろうとアメリアも見る。気絶から目覚めたときには吐き気のちらつく気分の悪さがあるだろうが、と思って途中で考え直した。それすら医者殺しの効能で無視するのかもしれない。
「ふう、大丈夫ですか」
「え、あ、はい。ありがとうございます」
修道女は動転していた。男に追われていたと思ったら、急に知らない別の男が現れて、助けてくれたのだ。うまく呑み込むのには時間がかかる。彼女の口にしたお礼は、まだ相槌に近い意味しか持っていなかった。
「おい、ぎゃはは、すげえじゃねえか。そんなの知ってんのかよ」
「……偶然だ」
脱力した右手を振って痛みを散らせながらマンフレートは答えを返した。
「まだ正体隠せてるつもりかよ、いっそ面白いだろ、それ」
すこし気を取り直しはじめた修道女が彼らのほうに一歩踏み出した。その表情には緊迫したものが含まれている。
「あ、あの、さっきの、医者殺しですよね」
「だろうよ。いまぶっ倒れるよりも前にさんざケガしてたみてえだし」
修道女はアメリアのほうに顔を近づけた。
「あれ、いったいなんなんですか?」
「そういうクスリさ。なんにも痛くありませーん、これだけ」
「それだけで、あんなに……?」
思いつめるようにこぼすと、今度はマンフレートのほうに視線を送る。
「正直、中毒症状がどんなものかは私にはわかりません。医者ではありませんから」
「つーかよ、お前、どうしてあんなのにカラむかね。見た感じダメそうだろ」
「ダメそうだからですよ! 医療機関じゃ足りないから、私たちもどうにかするってことになってて! それで!」
「……ま、教会からしたら面倒だわな」
半ば激情にかられつつあった修道女をアメリアは適当にいなした。それに付き合う義理もない。マンフレートの軽い戦闘が見られたという意味では一定の価値のある一件だったが、それ以上のものではない。ここで終わり。それでよかった。
さっさと立ち去ろうとしたところで、修道女がつぶやいた一言がアメリアの足を止めた。同時にマンフレートも何かに気付いた表情をしている。
「あんなの、いったいどこで買うってのよ」
これは糸口だとアメリアもマンフレートも察していた。ただまだ言語化に成功していない。うまく、ここをどうにかすれば一気に事が進む。そんな気がする。どちらも理解しているのだ。現時点ではハウス・リンデマンのクスリ事業を潰すのには足りていないことが。そのために必要なピースを最初からひとつずつ拾っていく。
マンフレートがいち早く顔を上げた。
「アメリア、場所だ。俺たちにはこの人の協力が必要かもしれない」
中心街のカフェはひとつひとつのテーブルが余裕を持った距離を保っている。かつてこれは流行程度のものだったが、いつしか当然のものとして定着した。店内を歩いたところで、座っている他の客にぶつかることはない。
三人が座るテーブルには三つのカップ。うち二つにはケーキセットがついていた。
「紅茶。しばらく飲んだ記憶ねえな」
「あら意外ね、飲んだことあったの、あんた」
「うるせえぞ。さっき余裕なくしてキレてたやつはどこ行ったんだよ」
スラム街にいるべきではないと判断したことと、シスターに落ち着きを取り戻させることを兼ねて彼らは中心街のカフェを目指した。しばらく歩くことで彼女は軽い混乱状態から普段へと立ち直った。そしてその姿は、物怖じしない話好きという表現がもっとも近かった。
「あれだけ怖けりゃ余裕もなくすでしょ。あんたはそういうのなさそうだけど」
「こいつうぜえって。おいマンフレート、このクソシスターやめて別のにしようぜ」
「スコラスティカ。人の名前は覚えるべきね。それよりも」
そう言ってスコラスティカは視線をマンフレートに向ける。ちょうどカップを口に運んでいる途中だった。香りを楽しむ所作が堂に入っている。声をかけられたことに気付いてマンフレートは目を開けた。
「マンフレート様、この集まりはどういうことなんですか。そこのチビの言ってるのを聞くにシスターが大事みたいですけど」
おい、とアメリアが文句を言おうとするのをスコラスティカが手で制する。大事なことは真意を知ること。いくらなんでも医者殺しに関係しているということくらいは察することができる。ならばなぜ自分に、というのは自然な発想だった。
マンフレートは品のある所作でカップを小皿に載せた。その仕草のあいだ、空白の時間が生まれる。
「……ハウス・リンデマンと医者殺しの関係をご存じですか?」
「え、ええまあ。噂程度ですけど」
「俺たちはその流通を止めたい。最大の目的はそれです」
スコラスティカはおずおずと頷いた。
「ですが、組織を叩こうにも居所が知れないんです。手当たり次第もよくない」
「え、アメリア、あんたそういうの知ってるんじゃないの?」
「あのな、ああいう連中は拠点をいくつか持ってるし隠すもんなんだよ。わかるか、スラムには組織がいくつもある。拠点が割れるだけで抗争の火種になりかねない」
アメリアはフォークを口へと運んでいる最中だった。視線の先を見るに興味の対象はどちらかというとケーキらしい。スコラスティカは当たり前のように出てきた抗争という耳慣れない言葉に身を震わせる。
「で、でもマンフレート様、それと私がどう関係するのでしょう」
「まだ調査がしっかりしているわけではありませんが、医者殺しが流通しているなら取引の場所があることは確実です。アメリアの言った事情も含めて考えればおそらく個人間の取引でしょう。店舗を構えるとは思えない」
今度はアメリアが口を挟んだ。
「ちょっと待て。その取引場所を突き止めてどうする。アタシもこいつが何かにつながるとは思ってるけどよ、まだ見えてこねえぞ」
「売るのが下っ端だからだ」
マンフレートがきっぱり言い放った言葉には、たしかに力が感じられる。しかしうまく浸透しない。
「説明しろ。アタシと、ついでにこいつにわかるように」
「まず流行り具合。これを踏まえるとけっこうな人数が動いている。つまり下っ端が出張っているということだ。ただ、仮に俺が組織の上の人間だとして、そいつらに信用は置かない。要は大量のクスリは持たせない。ちょっと持たせて、売らせる。それを繰り返させる。俺ならな」
「取りに帰る場所がある、って言いてえわけだ」
納得したのか、背もたれに腕をかけるように姿勢を変えてアメリアは不敵に笑んだ。何度か頭の中でいまのやり取りを振り返って文句がないことを確かめる。方針が決まるのは実に気分がいい。アメリアは態度を隠そうともしなかった。
手の届く距離で納得があったことにスコラスティカは驚いていた。危険な単語が飛び交っていて、それは遠いところの話であるはずだった。彼女が関係しているのは一連の流れの結末に近い部分だったからだ。中毒症状の患者の世話をすること。それがおそらく根源的な部分に関わろうとしている。まだスコラスティカは自分の立ち位置がつかめていなかった。
「ちょっと、あんた、いまのでわかったの? どういうこと?」
「あ? お前んとこ腐るほど中毒どもがいるんだろ? そいつらに聞くのさ。どこでそのクスリ買ったんですかー、ってな」
「それで?」
「スラムの下っ端なんてのはたいがい馬鹿だ。クスリ受け取ったら近場で売ろうとするやつがほとんどだろうよ」
アメリアのにやついた横顔は視線を遠くに投げていることを伝える。おそらく興味はここにないのだとスコラスティカは理解した。話についていけていなかった彼女にもわかることがある。この話はどう転んでも血なまぐさいものに近づいていく。それはスコラスティカにとっては恐怖でしかない。しかし、と踏みとどまらせるものもある。
「スコラスティカさん、ご助力お願いできませんか」
振り下ろされることが決まっていた言葉がついにスコラスティカに届く。決定打になる頼み。返す言葉は決まっている。しかしほんのわずかだけ躊躇が覗く。
「……怖いです。けど、協力します」
「お、なんだよ。もっとビビるもんかと思ってたが」
「うるさいわね、本当は、本当はもう嫌なのよ。あの中毒患者どもの相手するの」
スコラスティカはアメリアを睨んでみせる。まったく効果はないが、それはひとつの意思表明だった。彼女はシスターである前に血の通ったひとりの人間であり、嫌なものなど消えてしまえと思えるのだ。そしてそれを口にできることは、人間としての力強さを持っていることのひとつの証明だった。
「ぎゃはは、おい、マンフレート、こいつ本物のクソシスターだ、面白え」
「スコラスティカさん。ご協力、本当に感謝します」
「いえ、私のためでもありますから。それとアメリア、あんたも教会行くからね」
あまりにも予想外の衝撃に、アメリアが凍った。




