03 両極
歩き慣れないスラム街でもっとも強烈に意識させられるのが臭いだった。見た目が違うじゃないか、と土が露出した地面や木造りの家屋のことに触れる者もいるかもしれない。しかしそれはなんというか、実感をともなっていない。遠巻きに見ているだけだと自分から暗に言っているのと差はない。踏み込んではじめてわかることがある。はっきり違う空間に来たのだと教えてくれるのは、むっとする臭いなのだ。
そこから抜け出したマンフレートは近くにあった公園の欄干に肘をかけて大きく息を吸った。気分を良くするためには晴れているのがベストだったが、残念ながら空は雲で覆われていた。
普段くらいの余裕を取り戻したマンフレートは、今度は中心街の街並みを見渡してみた。さまざまな方向に、それなりに人通りがある。その中で修道服に身を包んだ女性に肩を貸されて、ようやく歩いている中年の姿が目についた。ちょっと前から見かけるようになった光景だ。彼らはああやって神父や修道女に支えられて、中毒症状を抜くのを手伝ってもらう。マンフレートはうまい感情の置き所がわからなかった。哀れむこともできない。もちろん馬鹿にもできない。医者殺し。マンフレートは無意識につぶやいていた。どう見ても殺されていくのは医者ではなかった。
マンフレートは更衣室で城内を歩ける制服に着替え、報告書をまとめるために一般執務室へと足を向けた。個人執務室を持たない城の勤め人はすべてここで書類仕事を行う。そのため集中するのに適した環境とは言えないが、そんなわがままを言える立場でもない。マンフレートはさっさと作業に取り掛かり始めた。
二度三度と通して読み直し、手落ちのないことを確認したマンフレートは執務室を後にすることにした。報告書の提出には二階に上がる必要がある。部屋を出て体の向きを変えたところで予想外の人物と出くわした。
「おや、あなたは。そう、マンフレート殿でしたね」
「大司教様。まさか自分のことなどをご存じとは」
「ほほ、いやなに、宰相閣下がみずからお選びになった方だ。印象に残りますよ」
マンフレートは略式の敬礼をしたあとで頭を下げる。
「いえ、若輩者に過ぎません。兵士試験に落ちたのを掬っていただいたのです」
「そうですか、そうですか」
大司教は温和に笑って頷いた。人好きのする笑顔だ。このように気安く声をかけてくれることから城内でもよく慕われている。通りがかりに会釈をしていく人々にも簡単にとはいえ手で応えている。
「彼女もまだまだお若い。よく支えておあげなさい」
「誠心誠意、努めます」
かなりの大物との突然の対面にもそれなりの応対ができた自分に驚きながらも、とにかくマンフレートは宰相の部屋に向かうことを最優先事項に置き直した。
城内の評価を剛毅と優美に分けるなら、優美に寄った造りになっている。窓、絨毯から燭台の配置に至るまでにひとつの意思が感じられる。時間帯によって変わる採光がその時々の印象を一変させる。その言わば移り変わる異世界をマンフレートは歩いていく。
扉を拳の背でノックする。
「はい」
「マンフレートであります。報告書の提出に参りました」
「入りなさい。鍵は開いています」
扉を開けると、デスクで山と積まれた書類を捌き続ける美しい女性の姿があった。彼女の手は高速で動いていると見てわかるのに、不思議なことにそこに忙しさを感じない。背すじが伸びたきれいな姿勢だからかもしれない。もっと細かい所作の部分の話かもしれない。マンフレートはその結論をいつも出せなかった。
マンフレートは扉を閉めて、その脇に控えた。あの作業に割り込むのはさすがにはばかられる。自然、報告書を抱えたままで彼女に視線を送ることになる。
「……ああ、立ちっぱなしも疲れますね。そこにかけていてください」
彼女が一瞬だけ目をやった先にはソファが置いてある。革張りの、素材の名前もわからないような逸品だ。
「はっ、失礼します」
「それほどかかりませんから気楽に。くつろいでください」
手に比して口調はのんびりしてさえいる。まるで首の上と下で別の生き物なのではないかと疑いたくなる。
ソファはマンフレートの知らない感触だった。わずかに沈んでからかたちが安定する。なるほどこれはくつろぐための家具だ。高級であることは何も値段が高いことだけを意味しない。それだけの価値があることを証明する指標なのだ。普段は考えないようなことにまで意識を回すのは、マンフレートが緊張している証拠だった。
やがて忙しかった手がぴたりと止まった。
「お待たせしました。報告書を」
「こちらになります、エーディト宰相閣下」
ソファから立ち上がったマンフレートから書類を受け取ると、部屋の主の表情がつまらなさそうに曇った。
「また余計なものがついていますね。外しましょうか」
「は。では、エーディト様」
「まあ、いいでしょう。重々しい肩書で呼ばれるのは腹の探り合いを要求される場所だけでじゅうぶんです」
そう口にしながらエーディトの目は報告書に落とされていた。ときおり羽ペンが下線を引くのを見るに、マンフレートからでは信じられないような速度で報告書の文字は消費されているらしかった。なにかそれは時計のような、機構を持って動作するもののように見えた。
待つほどのこともなく報告書は検められた。
「よくまとまっています。それにしても、なるほど、よく考えましたね」
「ありがとうございます」
「スラムの人間を使うという発想が非常にいい。応用もできそうです」
たしかにアメリアは大きな力になりそうな予感はあったものの、そこまで評価されるものだとマンフレートは思っていなかった。彼女自身で言っていたとおり、多少は名が通っていてもそれは悪名だ。それはややもすればエーディトにまで届き得る悪評になりかねない。マンフレートからすれば苦肉の策だったのだ。
「どうですか、この子は。有用ですか。あなたの所感で構いません」
「有用であると見ています。戦闘能力は言うに及ばず、なかなかどうして着眼点がいい。報告書にもあるとおり、私が兵であることがほぼ看破されています」
「あなたと会話できているところを見ても馬鹿ではなさそうですね」
エーディトは手の甲でごく浅く頬杖をついた。視線はデスクの何もない一点に向けられている。何を言ったわけでもないのにマンフレートは口を開くことを禁じられたような気分になった。
たっぷり二分は沈黙のあいだに時間が過ぎ、エーディトは姿勢をさきほどまでのきれいなものに戻した。
「さて、他に報告はありませんか? 些細なものでも構いません」
「大司教様にお会いしました」
「そうですか。彼はなにか?」
「は。エーディト様をよくお支えするように、と」
「ありがたい話です。よろしくお願いしますね」
エーディトは眉一つも動かさなかった。宰相という立場もあって社交辞令はうんざりするほど聞いてきているのだろう。まして大司教のこの言葉はどちらかといえばマンフレートに向けた応援だ。そのことがわかっているからマンフレートも頷くだけで返答としている。
「それでは引き続き、ハウス・リンデマンの対処をお願いします。目的は医者殺しの出所が記載された出納帳や契約書。根っこですからね」
それを受けたマンフレートは礼を失さないことを意識しながらきびきびと退室していった。エーディトはその様子をただ眺めている。彼がそういうミスとは無縁のところにいるのを知っているのだ。扉が閉じてしまうとすっかり音が止んだ。
ひとりとはいえ人の行き来があると、エーディトであっても無意識のうちに手を止めざるを得なくなるのだった。隙間を埋めるように思索にふける。彼女の表情は変わらない。頭の中を何が占めているのか、誰にもわからなかった。




