20 黒が映える
マンフレートはこの部屋では常に背筋が伸びた。それが敬意から来るものなのか、あるいは主の威厳に対してものなのかは本人すら知らない。彼はそんなことを考えたこともないからだ。最終的に結果だけがそこにある。姿勢は保たれている。
「さすがに表情に疲れが見えますね」
「は。申し訳ありません」
「拘束から報告書の作成まで徹夜で終わらせたのですから仕方ないでしょう。報告を受ける身としては助かっていますが、無理はほどほどに」
気遣いの見える窘めと報告書の目通しは同時に行われている。ひとつの頭でふたつの事柄を処理する仕組みがマンフレートにはうまく理解できない。しかしエーディトを見ているとそれが自然なことのように思われる。報告書の重要と思われるところにチェックも入れているのだから、内容もしっかり頭に入っているのだ。
若くして宰相の地位にあることの説得材料としては幼稚だが、能力としては文句のつけようがない。話を聞きながら並行して別の事案を考えなければならないことなどいくらでもあるのだろう。この能力はマンフレートの持つ器用さとは意味を異にしている。彼自身がそう感じている。
「それにしてもグラウ・ハルプヘルツィヒ卿、ですか」
「意外なところでも?」
「ええ。以前あなたが関わっている可能性のある貴族を報告してくれましたが、そのなかでは最も考えていなかった人物です」
マンフレートはエーディトが順位付けをしていたことをこそ意外に思った。マンフレートは報告書において貴族たちの名前を平等に扱っていた。地理的な条件において可能性の軽重はつけられたかもしれないが、貴族という階級を考えればそれにはあまり意味がない。たとえば原材料を運ぶのに距離が遠ければ不利かもしれないが、その不利は人件費や馬車に関する金銭面の部分が大きい。貴族はそれをほとんど無視できるのだ。
エーディトは報告書に視線を向け続けている。
「なぜ考えにくいのでしょうか」
「……すこし大枠から話しましょうか」
エーディトは顔をあげてひと呼吸を置いた。
「そもそも今回の麻薬騒ぎですが、こういったものは多かれ少なかれ国力を削いでいくという面があります。国民が国民としての機能を失っていくわけですから。初動が遅れれば解決に人員を割く必要があることも影響してきます」
大枠、という言葉が国家という最大規模にまっすぐ結びついてマンフレートは内心で驚いた。宰相の言葉は論理の筋が通っており、また理解の及ばないところは言葉の上では存在しないのだが、抵抗なく受け入れるのは難しかった。国という言葉を実感のあるものとして手元に置くのには、まだマンフレートは個人であり過ぎる。
そんなことは知らぬげに、エーディトは話を続ける。
「この長期的な視点に立つとき、敵は力を持つものだろうと私は考えます。この国を打倒し、さらに君臨を視野に入れるのならばあらゆる力が必要とされますから」
「国盗り、ですか」
「いたずらや資金調達にしては大掛かりかつ国を相手取るリスクを無視しすぎていますし、国力を削ぐことを理解しているのならその先を見ない理由がありません。属している国にただ打撃を与えてどうする、という話になってしまいます」
「……なるほど」
国家の中枢という位置が思考の種類をこれほどまでに変えるのだということをマンフレートは痛感した。これは彼には持ち得ないものだ。日常的に大きなもののやり取りをしていないと生まれない発想。言外のその意味を込めているのかはわからないが、マンフレートは自覚を促されているような気分になった。
「まあ、これ以上は本人に尋ねるしかありませんね。それと、マンフレート、他にも確認しておきたいことがいくつかあります。構いませんか?」
「は」
とくに崩れていなかった姿勢を、マンフレートはあらためて整えた。
「マリウス・リンデマンが使用したとされる新しい薬物についてですが、あなたはこれをどう見ますか」
「現場の視点では非常に厄介な代物だと見ます。その人間の限界を超えた力を発揮するわけですが、これは強力な個に投与するものではないと考えます。使い捨ての雑兵に投与することでこそ真価を見せるでしょう」
「なかなか非人道的ですね。はっとさせられます。さて、これについての私の懸念点なのですが」
医者殺しだけでも厄介なことには変わりないのに、どこからどう見ても問題だらけのこの新薬について何が聞かれるのか、マンフレートには見当がつかなかった。
「これ、誰が作ったのでしょうか」
耳にした時点では何を聞かれているのか理解できなかった。医者殺しは、おそらくではあるが、ハルプヘルツィヒ卿配下の者が持ち込んだものと推察される。ならばその発展形である新薬もその人物が製造したのだろうとマンフレートは考えていた。この考えは安易だったかとマンフレートは振り返ってみるが、どうにも自然な流れに見える。
「報告書にあった痩せぎすの男では不自然でしょうか」
「それだと違和感が残ります。順序としてその男がハウス・リンデマンに医者殺しを持ち込んだ。そのあとで新薬が生まれているはずです。報告書にあるマリウスの言動からもそのことが読み取れます」
「はい」
「ですが、痩せぎすの男がハウス・リンデマンに来てから初めて新薬を完成させる理由がありません。目的は医者殺しの流通のはずです。身体強化薬の開発に努めるほどマリウスに惚れ込んだとも考えにくいですし、まず薬の開発自体が非常に難しい」
言われてみると奇妙な話だった。疲労のせいで鈍っていたマンフレートの脳の回路がこの疑問をきっかけに働き始める。エーディトの話はすべて納得のいくところだ。
ほとんど無意識的にマンフレートの口からある言葉が零れ落ちた。
「……仮面の、女」
「あなたたちの目的を想定できていた点、客分という発言、マリウスの発言。すべて推測になりますが、私もその可能性が高いと考えています。現場にいながらあまりに事件に関わっていなさすぎる」
「まさか、ハルプヘルツィヒ卿とは別の陣営ということですか?」
導いたはずの答えは、まだ問題の形式を保ったままだった。国盗りなどという重い言葉が出てきたかと思えば、それはまだ誰の描いた絵かもわからない。この重大事態が本当に計画されていたのかも確定と断言するには早すぎる。しかし動き始めたマンフレートの脳は勝手に思考の枝を伸ばしてしまう。
「そのあたりは聞いてみないとわかりませんね。厄介なことです」
「今回の騒ぎは計画の、国盗りの一部……?」
これまでのエーディトとの話を総合すると、もちろん推測も含めて方向性が合っていればという条件はあるにせよ、この結論が導かれた。マンフレートは混乱しそうになる。その規模と、現実感を欠いた野望。理解ができない。
「そのあたりで収めておきましょう。当人から事情を聞いてから考えたほうがより正確です」
「は」
すでに仮定を前提とした会話をエーディトは打ち切った。これ以上進むと、言い方は悪いが根拠のない噂話と近い領域に入ってしまう。可能性として頭に入れておくべきものと、もしもを基調とした詮無い可能性は切り分けなければならない。
エーディトの関心はもう次に移っていた。
「そうですね……、マンフレート、あなた馬車の心得はありますね?」
「本式には及びませんが」
「構いません。では三時間後に馬車の準備をさせておきますから、そのときに。それまでは仮眠しておいてください」
「了解しました」
手早い指示はもはや流れのように、マンフレートの返答をさえ含めてあらかじめ完成されていた。あいだには何もない。差しはさむことは許されていない。
これだけですべては完了していた。エーディトが報告を受ける時間が終わったことも、マンフレートが退室に同意したことも。人によってはもうひとつあいさつを必要とするかもしれないが、今回の彼らはそうではなかった。急いでいることを互いに共通認識として持っていた。
指定通りの時間に馬車は用意されていた。城の正門ではなく、そばに馬繋場のある通用門だ。あたりに人の姿はなく、二頭の馬だけが足踏みをし、息をしている。普段であれば馬車の用意がなくとも衛兵がいたとマンフレートは記憶しているのだが、どうも違う。宰相閣下のお顔を知らない、というアルブレヒトの話をつい思い出す。事実そうなのかもしれないが、徹底するにしてもここまでだろうか。マンフレートは不思議に思いながらも馬とコミュニケーションを図るために馬車へと近づく。
二頭の馬体は鹿毛がきれいに映えている。撫でるとどちらも状態のよいことがすぐにわかった。
そこで馬車の中から声が届いた。
「時間になりました。ハルプヘルツィヒ卿のもとへと向かいましょう」
速やかに返事をしてマンフレートは御者台へと上がった。言われるままに馬を歩かせ始めると、ひとつの疑問が浮かんだ。なぜ宰相たる存在がいま馬車に乗っているのだろう。なんというか、実働とは縁遠くあるべきなのではないか。すくなくともマンフレートはそう考えていた。
レーゲンスブルクの門を出てすこし経ち、そこでマンフレートはやっと疑問を口にした。もちろん細心の注意を払うことは忘れない。
「おそれながらエーディト様、質問よろしいでしょうか」
「なんでしょうか」
「なぜエーディト様が直にハルプヘルツィヒ卿のもとへお向かいに?」
「時間を置きたくないことが一点。それと聞きたい話に機密が多いことが一点、というところですか」
機密。マンフレートは即座に察さなければならなかった。これは城内では明かされていない情報なのだと。もしかしたら医者殺しへの問題解決に動いたことそのものがそういった扱いを受けている可能性もある。だとすれば納得はいく。何も知らない者がうまく質問をできるはずもない。
同時に事態の重大さをマンフレートは理解する。一国の宰相が席を空けて行動することなどそうそうない。それも外交のようなものではなく、一個の事件に対して。
「承知しました」
「ええ。それとですが、ハルプヘルツィヒ卿の屋敷のすこし離れたところに兵を配備してあります。この馬車は通すよう指示してありますから驚かないように」
抜かりがない。マンフレートもその意図はすぐに理解することができた。相手が悪かったのだとマンフレートは同情しそうになる。彼が生き残る術はあまり多くはないだろう。しかし街に混乱をもたらしたことが許されることはない。
やがて馬車はハルプヘルツィヒ卿の屋敷にたどり着いた。他の有力貴族のものと比べると大きいとは言えないが、その階級であることを納得させるのにじゅうぶんなほど庭園は華やかだ。マンフレートが見たことのない色鮮やかな蝶も彩りを添えている。
馬車を降りた黒ずくめのエーディトがその庭園を進む。帽子のつばの先から濃いレースが下がって顔を隠している。葬式に参列していても違和感はない。整えられた自然の中の一点の黒は異様なほど浮いて映る。不思議と庭園が静まったような気がした。草花が頭を垂れているのだ。
エーディトが扉の呼び鈴を鳴らした。




