18 音
マンフレートが二階についたのと同じころ、アメリアも地下階に下りた。きちんと工事をしたのか、壁もあって土の匂いもしない。しかしわずかに空気が冷えている。廊下は一本で、途中に扉はない。進んだ先に角があるが、おそらく広間があるのだろう。わかりやすいとでも言わんばかりにアメリアはまっすぐ歩いていく。
曲がってすぐのところに両開きの扉が待ち構えていた。いかにも組織内での権力の象徴然としている。こういうのの何が面白いのかね、と苦笑しながらアメリアは扉に手をかけた。手前に引くとそのまま開いた。鍵はかけていなかったらしい。
「邪魔するぜ」
「こんな夜中に客を呼んだ覚えはねえんだが」
「客だァ? 身体のせいで頭は育たなかったか。ぎゃはは、残念、侵略者だよ!」
アメリアは手甲を自分の前でぶつける。甲高い金属音が響く。
その動作を見てマリウス・リンデマンは気付いたように目を開く。
「お前、ここ最近街に来たとかいうやつだろ。ずいぶん暴れ回ったらしいな」
「さあ? 人違いじゃねえの。暴れた記憶はねえな。羽虫を払ったくらいでよ」
アメリアは悪びれもせずに受け流す。彼女が自身の行動をどう捉えているかなど誰にもわからない。本当に暴れていないと思っているのかもしれない。しかしどうでもいいことだとは考えていそうだった。楽しい一過性のイベントをどう見るかは、それこそ人によって違うのだ。
「どうしてお前みてえのがここに来る?」
「お駄賃のためだな。別に恨みも何にもねえけどよ、おやすみなさい、だ」
言い終わると同時にアメリアはすさまじい速度で距離を詰める。わずかに遅れてマリウスは右足を引いて構え、様子を見る体勢に入った。アメリアは走りながら左右に進路を変えるブラフを張りながら接近していく。もしそれに引っかかって攻撃をしてしまうと大きな隙を晒すことになる。瞬間的とはいえ堪える選択肢を採れたマリウスは優秀だった。アメリアが跳ぶ。
勢いと体重を乗せた重い一撃をマリウスは左腕で受け止めた。衝撃でわずかに後退するも大きな問題はなさそうに見える。
「おいおい、マジで図体だけは自慢ですってか! すげえ感触だぜ!」
殴った反動で弾かれ、ふわっと浮いたアメリアが楽しそうにはしゃぐ。着地と同時にまた駆け出す。今度は動きが複雑になった。進路を変え、フェイントを混ぜ、右に跳んで左にステップする。肘までを包む手甲を装備していることを考えると驚異的な運動能力だ。足元に余計な力を込める段階がない。見惚れるほどの制御。どれに攻撃の意思を持たせているのかの判断を続けなければならず、マリウスの反応がだんだんと間に合わなくなっていく。本人もそれを自覚している。どこかで強引にテンポを戻さなければ完全に見失う。それは戦闘において、まして先ほどの一撃を放った相手だと考えると致命傷になりかねない。アメリアの高速移動を、これは攻撃ではない、と判断する時間を一度だけ放棄して素直に動きだけを追う必要があった。
マリウスの体がわずかに宙に浮いたのは当然だった。彼の無理やりテンポを戻すという選択は正しかったが、それだけにアメリアには読まれていた。マリウスが決断したタイミングもぴたりと当てて、その意識の隙間に入り込む。意外だったのはこめかみを打ち抜いたつもりが太い腕に阻まれていたことだ。その反応にアメリアも舌を巻いた。
それが隙になった。ダウンを意図して放った打撃が防がれた。身長に差があるせいで、アメリアがマリウスの頭部を狙うとなると跳ぶ必要があった。空中で行き先を変えることは誰にもできない。先に地面に足をつけたマリウスの剛腕がまっすぐアメリアに着弾した。
両の手甲で受け止めはしたものの、体重の軽いアメリアはその威力で吹き飛んでいく。扉のほうを向いた打撃の勢いはすさまじく、アメリアは床を経由せずに廊下の壁まで到達した。
「だッ、いってえッ、もうクスリ切れてんのかよ!」
悪態をついてからアメリアは苦しそうにむせた。背中から壁に思い切りぶつかってこの態度は大した跳ねっ返りだが、確実にダメージは入っていた。意識を前に向けると猛然と突っ込んでくるマリウスの姿が見えた。もう拳を叩きつけるために振りかぶっている。このままだと壁から床に落ちて、ぴったり大きな拳が降ってくる。
壁に貼りついたままのアメリアは舌打ちしながら右足に無理に力を入れて、ほんのわずかに体の位置をずらす。ただしそこから落ちることは決定事項だ。アメリアは体の位置をずらすことで生まれたちいさな勢いを使って両足をそろえて伸ばし、両腕を胴体の前に持ってきた。そして床につくと同時に転がってどうにかマリウスの拳を回避する。床を叩いた拳は轟音を立てる。すこし床にめり込むほどの強烈さ。あれをもらえば無事というのは難しいだろう。
素早く身を起こしたアメリアは口の端は上げたままで、振り下ろされた拳をじっと見つめている。眼光は鋭いが、それは敵意の表れというよりは観察のためだった。
「お前それちょっと不思議だな、おい。ふつうの人間じゃ出ねえ威力だぜ」
「はは、俺らがどんなクスリ作ってたか知ってんだろ。言われたとおりにただ中毒者増やして儲けるってだけじゃもったいねえじゃねえか」
「野心的でよろしい。でもこっちはクスリの中身まではよく知らないんでね」
力を誇示するようにマリウスは思い切り足踏みをした。またおそろしい威力だ。
「脳だよ、信号をいじるんだぜ? 医者殺しとは別の部分をいじるんだよ、筋肉のリミッターとかな!」
言い切ると同時にまた突っ込んできたマリウスの速度はたしかに異常だった。この大きな体のことを考えると、すくなくとも一歩で出ていい速度ではない。この立派な出力は限界を超えてこそのものであるらしい。
(なんか前に聞いた気がすんな、人間がリミッターかける理由)
風切り音すら聞こえる大振りの攻撃を躱す。アメリアはそのバックステップの途中で体を反転させて階段のほうへと走る。いったん距離を取って頭を働かせる時間を確保するためだ。今度は壁に突き刺さった拳がやっと引き抜かれる。ぱらぱらと破片が落ちる。図体のせいで窮屈なのだろう。廊下なんてものはせいぜい人がふたり並んで通れればじゅうぶんなのだ。暴れることを想定しているわけがない。戦闘で気が立っているのか、それとも不自由さに苛立っているのか、マリウスは興奮状態にあるようだった。
アメリアはそんなマリウスの様子を眺めながら記憶の棚を漁っていた。人間の脳はかなり優秀で、その無意識下の制御には理由がある。なぜ厳密な意味での全力を出すことができないのか。そのデメリット。目の前の戦闘に役立ちそうだとはアメリア自身も思っていないが、どうしてか気にかかる。
常識から踏み外した威力と速度で襲い掛かるマリウスを、後ろ向きに階段を上がりながらアメリアはいなして避けて捌いていく。懐に潜り込むことで当てられない位置を確保し、手甲で拳の軌道を弾き、額を蹴ってのけぞらせる。不意の一撃をもらわない程度の集中を保ちながら、それでも過去に聞いた覚えのあるリミッターのことを考え続ける。顔面を狙ったパンチをアメリアはほんの小さな動きで避ける。
ぷつっ、と耳のそばで音がした。
あまりこの場にそぐわない音だ。とにかく何かと何かがぶつかる音ではない。ここにあるのはそういう音ばかりのはずだ。しかし、いわば弾けるような音。その正体をアメリアは探る。思い切り跳んで地上階まで脱出する。
「……あ。なんだよそういうことかよ、やっぱ頭足りてねえんじゃん」
「負け惜しみか? もう防戦一方みたいだぜ」
「ぎゃはは、お前その新しいクスリ使うの初めてだろ? もう救えねえよ」
探していた答えを見つけたせいか、アメリアはなんだかすっきりした表情に変わっている。余裕すら漂わせている。マリウスの言う、防戦一方に押しやられている表情ではない。不穏な一言すら付け加えている。下がらせている自覚のあるマリウスはその余裕が気に入らない。何かを見抜かれているようで気持ちが悪い。それも彼自身すら気がついていないことに。
黙らせるには叩きのめす。それが最善で最速の結論だった。マリウスはアメリアを追って階段を駆け上がる。飛び出すのと同時に右腕を振るう。あっさりと躱される。しっかり当てたのは廊下までぶっ飛ばしたあの一撃だけだ。とはいえあれも手甲で防がれてはいる。もっといい一撃ならすぐに勝負が決まる。マリウスは確信を抱いたまま攻撃を重ねる。
「ほら、もっと頑張れ! まず当てねえと話になんねえもんなあ!」
大きな手甲を思わせない身軽な動きでアメリアはすべての攻撃を避け続ける。右へステップ、姿勢を変える。左へ一歩、拳の下へ潜り込んで次の瞬間には安全圏へ。まるでからかうように回避し続ける。
たっぷり二分はそんな時間が続く。マリウスはたったの一度も攻撃を当てられない。焦りが募る。手ごたえのない攻撃を続ける二分というのはまるで気の遠くなるような長さだった。比喩でもなんでもなく手を伸ばせば届く相手に触れることすらできない。腹立たしいのと同時に疑問が浮かぶ。どうやっているのだろう。
集中しているせいで時間の感覚が引き延ばされているのか、マリウスは自分の腕がイメージよりも遅く動いているような気がした。
「そろそろ満足したか?」
そう語りかけるとアメリアは拳の暴風圏から明確に下がって、そしてわかりやすく一撃を打ち込むために踏ん張った。もちろんマリウスも止まらない。準備しているアメリアに次の攻撃を繰り出す。
衝撃は両者の拳がぶつかったことで生まれたものだった。しかし結果は平等ではない。アメリアは拳を通し切ってフォロースルーまで到達している。一方でマリウスは姿勢が後ろに傾いていた。吹き飛んだのだ。
マリウスは自身の状況に理解が追いついていなかった。単純に体重差を考えても、強化された腕力のことを考えても負ける要素はひとつもない。常識が裏返ったのかとマリウスは世界を疑った。もしそういうことでもないなら、このアメリアという少女はあってはならない存在だ。個人で世界のルールを捻じ曲げていることになる。強い力がそれより弱い力に負けるわけがないのだから。
「なあおい、なんで脳みそがふつうにしてたら外せねえリミッターなんてもんをつけてると思う?」
「何の話だ?」
「馬鹿の頭のなかに入っちまってかわいそうだぜ、体を守ろうとしてんのによ」
「何が言いたい」
「ぎゃははは! 医者殺しだよな、痛みが消えちまうんだよな、それ! だから大事なことに気付かねえ! 筋肉が千切れちまってんのによ!」
マリウスは震える右腕を上げてじっと眺めた。震えている? なぜだろう、と彼は考えた。うまい理由が思いつけない。知らないあいだに筋肉が千切れてしまったというものよりも説得力がある理由が。
腕の動きを遅く感じたのは集中力のせいではないということに思い当たって、マリウスの戦意は崩れた。だんだんと彼の優位性が失われていったのは特別なことではない。ただ彼自身が弱体化し続けただけのことだったのだ。もう目の前の少女の腕力にも届かないのだと理解して、マリウスは膝を折った。
「……くそ、くそ。あの女、そうだ、あの女が悪いんだ。こんな変な話さえ持ってこなけりゃこんなことには」
「なっさけねえな。どの女だか知らねえがお前が首を縦に振ったんだろうが。クズはクズでも笑うところのねえタイプだな。ここまで来て他人のせいかよ」
アメリアは一瞬で興味を失くしたように表情を消して、迷わず鋭い蹴りでマリウスのこめかみを打ち抜いた。本人の丈夫さだとか我慢だとかは関係なく、原理としてハウス・リンデマンの頭目は気絶した。
二階から気配を感じて振り向くと、ちょうどマンフレートが顔を覗かせたところだった。
「よう。ぴったりじゃねえか」




