16 本拠地へ
「地下室だってのは笑えるな、いいね、立場ってもんをわかってる」
「どのみち大手を振って歩ける身分じゃないだろう。よその組織にアジトが割れたら戦争だって起きるって言ってたのはお前じゃなかったか?」
まだ高い月の下をふたりは歩く。殴り込みをかけるのに時間は関係ない。焦りなんてものも必要ない。もしあの痩せぎすの男が嘘をついていたら往復するのが面倒だがそれだけだ。もちろんその可能性は低い。アジトをバラすときのあの深刻さ、顔の蒼白ぶり。あれが演技なのだとしたら拍手ものだ。マンフレートでさえ信じてもいいと素直に思ったほどだ。
青い夜は邪魔なものを用意しなかった。ふたりの行く手を遮るものは何もない。空気だって澄んでいる。これから起こると予想されることにはまるでそぐわない。奥のほうに暴力の匂いが立ち上っていることに目をつぶれば、だが。
ここが麻薬を捌いている組織のアジトだ、と言われても首をかしげたくなるような立地と外観だった。多少は大きいかもしれないが、区画がぐちゃぐちゃなスラムでは際立って珍しいものではない。それにいつかの広場のような奥まった行き止まりということもない。そのぶん上手く隠れることができているとも言えるが、そんなものは言い方ひとつでどうとでもなることだ。
マンフレートとアメリアはドアの前で耳を澄ませてみるが何も聞こえない。夜中に騒いでいるわけではないらしい。全員がベッドに入っていれば好都合だが、さすがにそうはいかないだろう。
「で、ここは魔術がねえと思っていいんだよな?」
「あれはかなり特殊な技術だ。見た限り知識を備えたやつが相当の準備をする必要がありそうだった。ないと考えていいだろう」
「ああよかった。話は早えほうがいい。殴って終わりならいちばんラクだ」
もう確認が取れたことになったのか、次の瞬間にはアメリアの姿勢は大振りのパンチのフォロースルーになっており、ドアは砕けていた。心配事がないのなら鍵だなんだは足止めにもならない。ドアはただの木の板で、木の板は防壁としては頼りない。砕かれたドアの穴はもちろん不均一で、そのささくれだったところには気を付けながらふたりは穴をまたいだ。
踏み入れてみると空気が冷えている。気温の意味ではなく、たとえば森の奥深くでしか経験のできない、息を殺して何かを待つようなあの深刻さ。それに近い種類のものが充満している。家屋に漂う雰囲気ではない。
「修業が足んねえな、悟られたら終いだろ、こんなの」
「俺たちからすれば助かる。奇襲ほど厄介なものはない」
「まあいいけどよ。お前そっちな、アタシこっちやるから」
そう簡単に指示だけ出すと一瞬の躊躇もなくアメリアは右手側の部屋のドアノブをひねった。その先の光景はアメリアの想定をひとつも超えなかった。あからさまにガラの悪そうな男どもが睨むようにアメリアのほうへ視線を向けている。わかりやすく武器まで持っている者もいる。自己紹介をしてもらう必要はなさそうだった。
部屋にテーブルはなく、椅子やソファだけがそれぞれの壁際に置かれている。テーブルがないことで部屋は広く感じられる。快適だ。暴れるのにも。
アメリアは手甲同士をぶつけて、かちんと音を鳴らした。
「はじめまして、下っ端ども。可哀そうにな、痛い思いだけするんだからよ」
構えすらせずにアメリアは笑った。油断とも余裕とも見える。そのふたつを分けるものは何なのか。この部屋で待ち構えていた男たちにはまだわからない。奥のソファに座っていた男が腕を振る。ナイフを投げたのだ。刃先から真正面に見るとナイフは驚くほど視認しにくい。しかしアメリアはなんでもないようにそれを左手で払う。金属製の手甲が高い音とともにナイフを弾く。
「はあ。本当に甘いのな。投げもの使ったんだったらすくなくともこっちの体勢が変わるんだからよ、お前らの誰かは合わせて飛び込まねえとダメだろ」
アメリアはつまらなさそうに戦略の指摘をして、不満の発露として床を蹴った。それも隙だと言えるものだったが、部屋にいるひとりとして動かない。警戒しているのか、あるいはもう彼我の実力差を察してしまったか。
(左からこん棒、素手、こん棒。右っかわに隠れたやつは長物か?)
あらためて目の前の未熟者たちを排除すべき相手と認識し直して、装備と位置取りを確認する。ついさっき飛んできたナイフを別にして、剣のようなきちんと刃渡りのある武器を持っていないのは評価できるポイントだ。技術の伴わないそれは本当に役に立たない。皮膚を裂いて肉に食い込むかもしれないが、そこまでだ。そのあたりを理解している荒くれ者は扱いやすい鈍器に手を伸ばす。腕力がそのまま価値として加算されていくからだ。つまり彼らは救いようのない馬鹿ではないか、経験は積んでいるかのどちらかだ。
アメリアが一歩を踏み出そうと左足を前に出す。臨戦態勢の男たちはその左足が床につけば始まるものだと理解して集中力を高める。弧を描く左足の軌道が前半を終えて後半、下っていくものになった。接地まであとわずか。男たちの目に力が入る。その左足が踏み込まれることで戦闘が始まるのだ。その合図が下りていく途中で忽然と消えた。同時にアメリアから左側に立っていた男が壁に向かってぶっ飛んでいく。彼女は左足を踏み出す最中に右足で跳んだのだ。本来なら不十分な姿勢での打撃の威力など程度が知れている。しかしアメリアの場合は違う。空中での姿勢制御、筋肉のバネ。そのふたつだけで驚異的と呼べる威力に到達する。誰が地面から離れている状態で完璧な殴打のフォロースルーにまでたどり着けるだろう。
即座に素手の男が振りかぶったのを見たアメリアは後ろへ跳んだ。回避も目的のひとつだったが、それは副次的なものでしかない。アメリアの跳躍はやはり後ろの壁にまで届く。壁で思い切り力を溜めてから解放されたアメリアは弾丸に近い。はっきりした視認は不可能で、それほどまでに高速で移動する存在がどんなアクションを起こそうとそれは防げない。間に合わないのだ。手甲が素手の男の顔面を真正面から押し潰し、そこでやっとアメリアの速度が緩む。宙に浮いたアメリアの目はすでに二人目のこん棒の男を捉えている。アメリアの位置は高く、彼女の膝がターゲットの顔のあたりにある。必然としてこん棒は下から上への軌道を描くことになる。ここで足を狙って平行に、あるいは打ち下ろしの打撃を選べるほど冷静な人間は少ない。よほどの経験を積んでいるか、あるいは戦闘への嗅覚じみたセンスが要求される。そんな高級なものを荒くれ者程度の戦闘員が持っているわけがなかった。
アメリアはタイミングを合わせてこん棒の軌道上に足を出して打撃そのものを踏み潰す。腕力よりも脚力のほうが強く、そしてその持ち主はアメリアだ。力の差は歴然だった。手元から弾かれたこん棒をつい目で追ってしまった男の額に手甲を思い切り打ち付ける。かつん、と硬いもの同士がぶつかったときの甲高い音が響いて、裂けた皮膚から血が流れた。そしてアメリアはやっと床に着地する。気絶。気絶。気絶。三人の意識はもう失われている。
着地というピンポイントを狙って、半身の姿勢にあるアメリアを目掛けて槍が突き出される。想定通りに事が運ぶのなら、きれいにわき腹を刺して貫くはずだった。しかしアメリアは焦りもせずに軽く前にステップし、そして後方宙返りをすることで躱す。槍の柄すれすれのところを彼女の背中が通る。回避だけにとどまらず、アメリアの腕が槍の柄に絡みつく。ぐっと力を入れると木でできた柄が砕けた。やっと彼女の宙返りが終わる。槍を折られた男はただ呆然としている。もうこの部屋に戦闘らしい戦闘は残っていない。戦意をなくした男は思い切り振りかぶったアメリアのパンチを食らって吹き飛び、当然のように気を失った。
「さて、あっちはどうかね」
アメリアに感慨は見られない。買い物や食事が終わったときの調子とほとんど変わりない。しかしそれも自然なことだろう。無傷どころか息も切れていないのだから。
マンフレートが担当している部屋を覗きにいくと、ちょうど終わったところらしかった。アメリアの部屋と違うのは血がまったく流れていないことだ。おそらくはスコラスティカと出会うきっかけになった中毒者との戦闘で見せた技術を使ったのだろうとアメリアは推測した。脳を揺らして気絶させる高度な技術。
「なんだよ、順調そうじゃねえか」
「ここで躓いているわけにもいかないからな」
部屋には四人が転がっているように見える。一般的には四人の荒くれ者を相手取ることは難しいことのはずだ。しかしこの男はさらっとそれをこなして、しかも当然のような態度を取っている。底はまだまだ見えないらしい。
すこし進むと二階への階段と、医者殺しを作っていた痩せぎすの男が主張していた地下への階段が並んでいた。頭目であるマリウスがいるのは地下だろうことで意見は一致した。とはいえ二階の存在は無視できない。もしそちらにも敵がいるのだとしたら警戒する必要がある。お互いの実力からじゅうぶんに対応できることは承知の上で、それでも挟み撃ちのかたちは好ましくない。事故の発生確率は下げておくに越したことはない。そしてふたりそろって二階に行くのもいい手とは言えなかった。そのあいだに地下の重要人物が逃げてしまう可能性がある。
視線のやり取りだけでどちらもそこまで了解する。
「じゃあ上がお前だろ」
「下のほうが重要な案件だが」
「武力の意味で雇ったんなら大物狩りはアタシだよな?」
「……殺すなよ。聞くことが山ほどある」
「頭には入れとくぜ」
マンフレートは言葉を重ねたくなったが、これ以上の返答は得られないとわかっていた。だから何も言わない。信頼とはまた違うが、命を奪うということは一般に言われるよりも手間だ。とくにアメリアは手甲を武器にしている。汎用性という意味では優秀だが、殺傷力という意味ではそれほど有利な部分を持たない。それを彼女特有の腕力がカバーするのかもしれないが、殺すのなら殺すための行動が要求されるはずだった。マンフレートの印象だと、アメリアはそこに価値を見出してはいない。とにかくマンフレートは地下の相手をまずはアメリアに任せることにした。
二手に分かれてそれぞれがひとりになると、自然と神経が研ぎ澄まされた。どう転んだところで待ち構えているのは敵だけ。マンフレートもアメリアも速やかに用事を済ませたとはいえ、すくなくとも一階での戦闘がまるで聞こえていないなんてことはありえないだろう。マンフレートは階段の板の三枚目を踏んだところで戦闘に臨むときの集中力を呼び起こした。
実際にそう感知しているのかはわからない。しかしマンフレートはそれに空気の波という名称を与えていた。何かが動作すれば空気はその影響を受けてたわむ。規模をずっとずっと大きくすればそれが風ということになるが、マンフレートはそれをたよりにしていた。まだ波は立たない。階段を上がりきる。二階についた。
人数はわからない。しかし意識はこちらに向いていることはわかる。視界にあるのはまたふたつの部屋。入ってきたときと同じように左右に廊下を挟んでいる。たとえば壁を突き破って両側から奇襲を受けたら厄介だ。その思考がマンフレートの次の行動を決定した。




