15 キメキメ
一日空いて、みたび夜がやってきた。
またも月は煌々と明るい。光の当たる限りは青い空間を作り上げていく。しかしその一方で陰は暗い。屋根やカーテンの向こうも暗い。もう街を包むのは寝息ばかりであるはずだった。本当なら。
まるで幽霊に出くわしたかのように痩せぎすの男の目は見開かれ、体はぴしりと固まっている。ここにいるのは彼だけでなければならなかった。木造の、外見は周囲の建物と比べてまったく違いのない彼だけの城。だというのにこんな真夜中に二人も招かれざる客がいる。大問題だった。
乳鉢、ビーカー、秤に薬包紙。ほかにも機材が所狭しと複数のテーブルに並んでいる。部屋の隅には大甕。水はそこから持ってくるのだろう。そのテーブルをはさんで向こう側から痩せぎすの男が口を開いた。
「な、なんだお前ら、どうやってここに?」
「ドア開けて入ってきたに決まってんだろ。バカなこと聞くなよ」
くつくつと機嫌よさそうにアメリアが返す。
「違う! 誰も入れないようになってただろうが!」
「そう腹立てんなって。お前自身が入れてるんだからアタシらだって、なあ」
さも当然だとでも言わんばかりにアメリアは一歩前に出る。基本的な世界の論理で考えればアメリアの言っていることが正しい。しかしこの場はそうではない常識が敷かれているはずだったのだ。すくなくとももともとこの部屋にいた男にとっては。
アメリアが無造作に近くのテーブルの脚を蹴る。乗っている機材が揺れて嫌な音を立てる。どれも倒れていないのは奇跡だった。倒れれば割れるような材質のものも多い。
「やめろ!」
悲鳴に近い叫び声が飛んでくる。アメリアには見当すらつけられないが、とにかくかなり重要なものなのだろうことは推測がつけられる。もうすこしからかおうかと思ったところでマンフレートが止めに入った。
「資料になる。できるだけ壊すな」
「壊さねえって。余裕のねえやつだな、早死にするぜ」
「スラムのガラの悪いのよりは長生きできそうだと思っているが」
言われたとおりにアメリアはガラ悪くマンフレートをねめつける。マンフレートはどこ吹く風と微動だにせずに視線を前に固定している。もちろんこの場の最優先事項はあの男だ。あまりまともな生活を送っていないのだろうか、痩せているうえにそれほど身なりに気を遣っていないせいで頼りなく見える。姿勢は見事に後ずさり。どう高く見積もっても向かい合う選択肢は彼にはないだろう。
テーブルから回り込んでさっさと捕まえようとアメリアが一歩を踏み出したとき、怯えた男は猛然と後ろを振り向いて駆け出した。先にはドアがある。
「おいおいどこ行くっつーんだよ、勝手口なんてなかったろこの家」
「隠し扉があるのかもしれない。あるいは二階から飛び降りることもできる」
「前者はわかるが後者はノーだな、んな根性ねえだろ」
つまらなさそうにため息をつくとアメリアも追う姿勢に入った。そもそもの一歩が速いこともそうだが、二歩目三歩目とあとに続く動作が考慮されている。体を使うことを日常としていることがあらためてよくわかる。逃げた男が捕まるのは時間の問題でしかない。
アメリアの思考は何にも奪われていなかった。あの男を追って捕らえる。これ以外には何もない。要素すらない。もしもあの男がこの家に罠を張っていたらどうしようか、であるとか、いきなり振り返って殴りかかってきたら、であるとか。それらすべてはアメリアにとっては些末すぎて問題にすらなれなかった。アクションと結果は直に結びついていた。たしかに順番はある。力任せに閉められたドアを開けて、そして逃げた男の動きを何らかの手段で止める。それで捕まえて終わり。
しかしドアを開けた瞬間に火が自分をめがけてくるとなるとアメリアにとってもさすがに想定外だった。
「うおおおおおっ! なんだ、火かこれ、まっすぐ飛ぶもんなのか、おい!」
ドアの向こうにはまっすぐの廊下と右への廊下があったため、アメリアはとっさに右側へと飛んだ。転がってから起きると火柱が真横に立っているような、そんな奇妙な現象が見えた。一度アメリアは人差し指で自分のこめかみを叩く。火柱は上へと立つのが常だ。目に映るあれはおかしい。
そこまで考えてから、ついさっき見たものを思い出す。自身がドアを開けた先には手のひらをこちらに向けた男がいたのだ。何の意味もないかと思われたが、そこから火が向かってきたんだったとアメリアは振り返る。火を出せる男だなんていてたまるかよ、と悪態をつきたくなるが、ふつうにしていたら進めない廊下があったのだ。それよりは実現可能性が高い気はする。どっちにしろまともではない。
「しかし気持ち悪いな、マジで熱さ感じねえ」
火が出ている限りは突っ込めない。それはマンフレートも同じだろう。しかし逆に考えれば火が出ている限りは男はそこにいる。戦闘に慣れていないだろうことは逃げたときの動きから判断できる。となれば火を放ちながらの後退ということもおそらく頭にないだろう。だからアメリアもマンフレートもただ待てばよかった。いずれ火は尽きる。ずっと続くものなどないのだ。もしも火そのものに際限がないのだとしても男の精神は焦れる。摩耗する。男からも見えない火の向こう側を確認したくなる。肉が焼けた音も匂いもないのに。本当は十秒すら経っていないのに。
火が止まったその瞬間にアメリアは思い切り床を蹴った。着地点は床などではなく廊下の壁。そこでもういちど足に力を込めて痩せぎすの男めがけて飛んでいく。男は目に入ったものが何かを判断できないうちに自身の脚の骨が砕ける音を聞いた。
聞くに堪えない断末魔をあげて数秒、何かの限界に達したかのように男はころんと気絶した。
「おいマンフレート、こいつ痛みで気絶したぜ。マジかよ、クスリやってねえんだ」
「やっぱり医者殺しをキメるなんてのは邪道だったんだ」
「邪道でもなんでも早えんだからいいんだよ。脳の都合悪い信号はシャットアウトだろ? 読み通りだぜ。魔術だかなんだか知らねえが結局は人間が相手だからな」
もはや気絶した男自体には興味など失くしたのか、アメリアは目の前の事態を分析しながら機嫌よさそうに笑っている。
「アメリア、まずはなにか縛るものを探そう。目を覚まして騒がれても面倒なうえにまた手から火を出されても困る」
「ああ、あれな。なんだったんだろうな。あれも魔術のうちか?」
アメリアとマンフレートは同時に首をかしげた。あれが魔術だとしたらちぐはぐな印象はぬぐえない。しかし考えたところで結論が出ないことはお互いわかっている。余計な時間を使うよりも身の安全を買うべきだ。それを理解しているふたりはすぐに縛るためのものを探しに出た。
痩せぎすの男が気を失っていたのはせいぜい十五分程度のものだった。彼が目を覚ました理由は気絶したのと同じ理由、痛みだった。とはいえさきほどの一度にやってきた衝撃的なものとは質が違う。血管を血液が流れるたびにずきずきと痛む。そこで彼は自身が後ろ手に縛られていることに気が付いた。
あらためて意識を取り戻してみると床に転がされていることがわかる。頬の片側がべったりと平らに伸ばされている。それにしてもじゅうぶんな念の入れようだと男は感心さえする。力の入らない足にすら縛られている感触があるのだから。
「お、目ェ覚ましたな。じゃあカンタンに事情の説明だ。手間かけさせんなよ」
調子は軽いが一方的とも言える圧力がある。抵抗など許されないだろう。
「てめえが医者殺しを作ってるのは知ってる。で、アタシらはそれを潰しにきた」
断定から話が始まっている以上、それを否定することに意味はない。だから男は何も言わないことを選択した。
「つってもてめえ一人でシゴトをやり切れねえのもわかってる。材料に販路にいろいろ考えることはあるもんな」
急所。すこし考えればわかることでも重大なポイントだ。ここで大きいのは一人でできると嘘をつけないところにある。現実的に不可能なことを騒いで何になるのかというと、相手の心証を悪くすることになる。無意味どころか不利を呼ぶ。
「ただそうなるとおかしい。こういうカネが絡むシゴトには契約書が欠かせねえ。なんたって共犯なんだからな。お互いある程度までは平等じゃねえと話が始まらねえはずなんだよ。アタシらはそれを探してる。なあ、どこだ?」
相手は屈んでいるのに見下ろされている。自分が床に転がされていないとできない体験だ。おそろしく屈辱的であると同時に、言葉よりもはるかにわかりやすく力関係を教えてくれる。
わめくなよ、と言いながらこの場の支配者が頭の後ろに手を伸ばす。そこで呼吸が急に楽になった。口元まで縛られていたのだ。
突然に普段通りの自由を手に入れたあごががくがくと勝手に動き、そして震えて、やっと落ち着いた。知らない種類の負荷をかけられていたに違いない。長い間黙っていたわけでもないのに喉の調子さえおかしくなっていた。
「し、知らないね。探して見つからないならそれで答えだろ」
「じゃあそれでもいいぜ」
「は?」
「マリウス・リンデマンの居所を教えろ」
「馬鹿なのかお前、雇い主の居所を教えるやつがどこにいる」
アメリアは心の底から面倒くさそうにため息をついた。そしてぼそっとつぶやく。
「拷問とかよくわかってねえんだけどな」
「は? おい、何を」
「隠し事してるやつが相手ならそれが早えだろ。交渉相手でもねえんだし」
「お前、人の脚を折っておいてよくも」
「馬鹿言えよ、両腕も折ってある。また火出されると面倒だしな」
痩せぎすの男は痛みの原因を自覚するとその大きさにうめき、身をよじった。たしかに腕にずきずきと痛みを感じてはいたが、それは縛っている縄の締め付けによるものだと勘違いをしていたのだ。自覚を得ると折れている箇所が発熱しているように感じる。我慢がきかなくなって叫びそうになったところで、とんでもない力で顔を押さえつけてくる手があった。
「おいおい、騒ぐなって。ご近所様に迷惑だろ」
上あごと下あごのちょうど継ぎ目のあたりから、みしみしと聞いたことのない音がする。その恐怖からまた叫びだしたくなるが、どういう原理なのか押さえつけて圧迫するだけでそれが封じられている。とにかく大声は出せない。
「さて、お前は一度答えないと言っちまった。アタシはお前が口を開きたくなるように何かをしないとならねえ。どうしたもんかね」
屈んだままの姿勢でアメリアはうーんとうなる。ベストな、床に転がっている男にとってはワーストな方法を模索している。口元に手を添えてじっくり考え始める。
「……あー、まあそうか。お前は嘘ついてもいいわけだもんな」
「何を」
「こうしよう。お前が情報を吐く、アタシらがそこに行って確かめる。お前はずっとここに置いておく。嘘だったらアタシがすっきりするまで殴る。これでいい」
アメリアは一方的にルールを決めて、さっきまで口を縛っていた縄をまた付け直した。ここには正しい意味での会話でのやり取りは存在しない。すべての選択肢はアメリアにある。男からの質問に答える義務をアメリアは持たないし、まったくもってそのつもりもない。
よし、と納得したような一声をあげてから立ち上がった女に痩せぎすの男は恐怖していた。自分本位で動く存在。こういった手合いをうまくしのぐ方法を彼は知らなかった。それは万全の状態であっても変わらない。つまりこれから起こる事態は避けようがないのだ。
灯りのない廊下では恐怖の対象が動作したことしかわからない。ただ、ひゅっと風切り音だけが聞こえたような気がした。気がした、というのは直後に激痛が走ってそんな記憶が正しいかどうかなんてどうでもよくなったからだ。足の甲が膨らんで爆発しそうに熱を帯びる。痛みの棒のようなものがある一点を貫いて往復しているような感覚がある。必死に叫んでみるもちいさくくぐもった声にしかならない。唾液が口の端から糸を引く。全身の筋肉が強張る。そのせいでまた別種の痛みが誘発される。おかしくなりそうだった。こんなことが繰り返されるとなると想像するだけで震える。とても我慢できそうにない。痩せぎすの男はすでに自分の限界を超えていると確信していた。
早く猿ぐつわを解いてくれ、いくらでもしゃべるから、と男が強く念じていると近くに新たな気配が加わった。
「お、上はどうだった?」
「書類はたぶんなさそうだ。レシピも含めてな」
「そういうのは親玉に集めてるってか。つか本当に何にもねえのかよ」
「いや、明らかに変な準備がされている部屋があった。おそらく魔術に関するところなんだろう。あったものは壊しておいた」
床に転がっている男からわずかに息が漏れた。
「こっちはこれから聞き取り。まあそのうち話すんじゃねえの」
「そうか、じゃあ手早く始めよう」
「あ、おい、こいつの腕輪とかもらっていいよな? ちっとは金になりそうだし」
「……好きにしろ」
新しく増えた男の声からは温度が感じ取りにくい。かなり抑制がきいている。もしかするとこちらのほうが危険かもしれないと思えるほどだ。この暴力の化身をたしなめてくれる存在かもしれないと期待したが、それは空振りに終わった。もう痩せぎすの男には何も残されていなかった。




