13 蹴ったもの
青い静かな夜がまたやってきた。
誰もが明かりを落とし、寝静まっている。自由に動くことを許されているのは月だけの時間であるはずだ。本当なら。
しかし件の建物からはそんな時間に出て行く人がある。いまさら怪しいなどと言う必要もない。彼はきっと医者殺しを配布拠点に届けに行くのだろう。マンフレートの心情としてはあれも止めたいのだが堪えなければならない。いま優先すべきはあの廊下の謎を解いて拠点を叩くことだ。そうすることで未来の被害者を断つことができる。彼にとっては許しがたい天秤ではあるが、呑み込まねばならない。
男の戻るのを待つのは馬鹿みたいな話だった。悪事の完了を待って、そうしてから調査を開始しなければならない。これは時間の猶予の話で、何かの手違いで男が早くに戻ってきてしまったときに見つかって、要らぬ警戒を呼ぶのを防ぐための判断である。
出て行った男はまだ戻っていない。
「にしてもお前、ピッキングとかどこで習ったんだよ。軍で必修なのか?」
「俺は商人だ。それとピッキングは、まあ、手遊びみたいなものだ」
「へーえ? 開けるに留まらず外から閉めるまでできんのにか」
けらけら笑うアメリアの調子からはマンフレートの言葉を信じていないことが伝わってくる。たしかに一介の商人が持っていていい技能ではない。もちろん突入に必要な技術であったことは否定できないが、アメリアは昨日それを目の当たりにしてヒいたくらいだった。
昨日とは違った配布拠点に向かったということなのか、想定よりも早く男は戻ってきた。扉がばたんと閉まる。月の位置はまだ高い。いま戻っていった男が落ち着くまですこしだけ待つ。調査の時間はそれからだった。
「なあアメリア、おかしいと思わないか」
「だから調べに行くってお前が言ったんだろうが」
「そういう意味じゃない。どうしてあいつは廊下で止まっていないんだ?」
昨日の事態に出くわしたとき、あの運び屋は廊下にはいなかった。それが意味するところは、廊下を移動できる人物がいるということだ。完璧な状況を作られてはいない。抜け道がある。
「……お前、そういうとこ目敏いよな」
「調査をするんだ、細かいところに気が付かないでどうする」
アメリアの鼻息は長かった。もういちいち言い飽きてしまったらしい。
マンフレートは道具を使って手早く鍵を開ける。時間もじゅうぶんに空けて焦りを持つ必要もない。精神的な余裕は手元をスムーズに動かした。音も立てず、速度も本職が頷けるようなものがある。ノブをひねればあの奇妙な空間が待っている。
ゆっくりと扉を開けると、その奥は昨日と同じく静かに暗い。どの民家とも変わらず灯りは落とされている。もちろん視認性は悪いが、だからといってまったく何も見えないということもない。奥には突き当りがあるし、すこし手前には部屋に続く扉がある。ふたりは昨日、そのどちらにも到達できなかったのだ。
ふたりは横並びになって足を踏み入れた。感触として変わったところは何もない。ただ敷居をまたいだだけのこと。魔術というものは肌に感じられるものではないらしい。視界にあるものは昨日と変わりない。気分のいいものではなかった。
「行こう」
歩いたときの、いつもはまったく気にも留めない感触を意識する。見たところで言えば五歩もあれば扉には手がかかるし、もう五歩進めば突き当りにぶつかる。そのはずなのに倍以上歩いてもどこにもたどり着かない。それどころかやはり眼前の景色に変化がない。昨日とまったく同じだ。歩いても進めない奇妙な廊下。
昨日とは違った要素を持ち込む必要があった。これまでとは違ったルールの下での話になる。何が意味を持つのかわからない。
マンフレートはまず走ってみることにした。移動方法が限定されているのかもしれない。十秒ほど走ってみるも扉にも突き当りにも近づけない。今度は壁に背をつけてゆっくりと移動してみる。失敗。匍匐前進を試してみる。失敗。アメリアが茶化したように跳んでみる。失敗。移動方法で結果が変わる可能性は減ってきた。とりあえずマンフレートに思いつく移動手段はもうない。もっと突飛な手段があるのかもしれないが、現時点では彼にそのアイデアはない。
次にマンフレートが考えたのは床に足をつける順番だった。どちらが先かは別にして、右足と左足を交互に出すのが一般的だが、それが違っていたら。しかしそれの確認は簡単だった。右足を二回と左足を二回をそれぞれ試してみたが、どちらも景色が変わらない。近いパターンとして、歩く前に一定の動作をしなければならないものを考えたが、その場合は実証が不可能に近い。人間の動作はそれこそ無限に近いものがある。まずは脇に置いておかねばならない。
マンフレートはいったん外に出て頭を切り替えることにした。アメリアも似たような判断をしたのか、先に外に出ていた。
「もういっそ壊したほうが早えんじゃねえの、これ」
「よせ。本当にロクなことにならない可能性がある」
「どういうこった」
「この廊下の魔術が街全体に広がってもおかしくないということだ」
けっ、とつまらなさそうにアメリアは自分の考えをひっこめた。もちろんマンフレートもそうだが、アメリアも魔術というものをうまく呑み込めていない。いまひとつピンと来ないルールが敷かれている以上、何が納得のいかない結果を連れて来るかがわからない。軽挙は自分の首を絞める。スラムでのことなら腕っぷしだけでどうにでもなるかもしれないが、得体の知れないものが相手だとそうはいかなかった。
それにしても、とマンフレートが珍しくため息をつく。
「うまくいかないものだ。もっと突飛な発想が必要なのかもしれないな」
「ぎゃはは、頭脳労働は頑張んな、そいつはアタシの出番じゃねえし」
「頭脳も何もないだろう。単純なことを試しただけだぞ」
月明りの下でアメリアが首を傾げた。
「試した? なにかしてたか、お前」
「走ったり匍匐前進してみたりしてただろう」
返ってきた無言は肯定を意味しない。アメリアはそんなものを見たかということについて自問している。気を抜いていたり、あるいはひとつのことに集中していれば見逃すことはあるかもしれない。しかしこんなにも近くで急に伏せたり、壁に背中を預けたりとヘンテコな動作にまるで見向きもしないなんてことがあり得るだろうか。可能性は低いとマンフレートは考える。おかしなことが増えそうだ。
「いや、見てねえよ。お前ずっと立ちっぱなしだったろ。入ったところで」
「アメリア、どのタイミングで建物から出た?」
「わりと早え段階だな。歩いてみてやっぱり景色が動かねえ。それがわかったからいったん離れることにした」
マンフレートは口元に手を運んで考える姿勢をとった。いろいろ試していたはずの彼と後ろに下がったアメリアのあいだに大きなずれがある。マンフレートにはすくなくともいくつかの行動を試したという実感がある。
どこか、いまの会話のなかに重要なものが隠れているとマンフレートは感じていた。一語一語を点検する。ふたりともがまずは歩いてみて、前回と状況が変わっていないことを確かめた。そしてそこからは違った行動を選んだ。マンフレートは頭の中で繰り返す。違った行動。アメリアは下がって建物から出た。
「……待て。どうして俺はお前が出て行ったことに気付いていない」
「は?」
「アメリア、歩いてみたと言ったな?」
「おう。昨日と変わんなかったぜ、気持ち悪りい」
「そうか。じゃあアメリア。入ってすぐに俺は歩いていたか?」
「自分で言ってておかしいとか思わねえのか? てめえが歩いてたかはてめえで覚えとけよ」
面倒なものを見てしまったかのような視線をマンフレートに向ける。できることなら近づきたくもない手合いと近い扱いだ。それを許すほどにマンフレートの問いかけは一般的ではない。
「おかしいかどうかは後でいい。お前の視点が重要なんだ、思い出してくれ」
「……チッ、歩いてた記憶はねえよ。入るなり棒立ちだっただろうがよ」
「お互い様なんだ、アメリア。俺から見たお前もそうだ。歩いていない」
アメリアは怪訝な表情を浮かべる。マンフレートの言っていることのかみ合わなさが気分の悪さを連れて来る。彼女は自身で歩いたことを確信している。それは肉体で実感しているのだから、重ねて証拠を集める必要はない。そのはずだ。そこに疑問を投げられたのでは見えている景色ですら不確定ということにすらなりかねない。
お互い様、という言葉をアメリアは頭の中で回す。もしもマンフレートも自身では歩いていたと認識していたのだとすれば。どちらも間違った認識でかみ合っているということになる。
「じゃあなんだ、アタシもお前も本当は歩いてねえとでも?」
「まさに。もっと言えば俺は匍匐前進だってしたつもりになっていたのかもしれない」
「ルール? ぎゃはは、そんなのあってたまるかよ、進むのがダメだとでも?」
くだらない、とでも言うようにアメリアは吐き捨てる。本心を言えばマンフレートも同じことを考えていたし言ってしまいたかった。そんなものは子どもの悪ふざけで作った遊びでしかない。法則は自然にあるべきかたちで定められており、ルールは世界を壊さないように考えて作られたものである。それらを個人的に捻じ曲げるのはあってはならないことだ。だから怒って顔を背けるのではなく、打ち破らないとならなかった。
「進めていないのは事実だ。そのうえで俺たちは先に行く必要がある」
「ご立派で。じゃあどうすんだよ」
「まずは見間違いの可能性を消したい。俺がまっすぐ歩く。止まらずにだ。それで途中で止まったとしたら魔術の影響下にあると判断する」
「よくもまあそうするすると考えが浮かぶもんだな」
「必死だからな」
それだけ残すとマンフレートは開きっぱなしの入り口へと足を向けた。歩く姿に焦る様子は見られない。意味なく立ち止まるようにも見えない。どこかへと向かう意志が歩いているようなものだ。アメリアは腕組みをしてそれに注視する。
あとわずか一歩のところまで来た。踏み込む最後の右足が持ち上がる。左足のかかとが上がって体全体を押し出す。右足のつま先が敷居を超える。体の前に出ている部分から順に建物の領域に入っていく。右足が完全に接地する。左足が持ち上がってさらに先へと踏み込んでいくはずのタイミングになった。
マンフレートは姿勢よく立ち止まった。足を並べて、両手を体の側面にぴったりつけている。それは家主が現れるのを待っているのに似ていた。ただすでに敷居をまたいではいるのだから一致はしない。たしかに異様だった。急に勢いを失っている。魔術ねえ、とアメリアはつぶやいた。
おそらく廊下の奥へと進むための努力をいくつか試したのだろう時間があって、そうしてマンフレートは戻ってきた。
「どうだった。俺はちゃんと歩いていたか」
「まったく。あそこに入ると同時にぴたっと棒立ちになってたぜ」
「先に行こうとしても自覚はないが体を動かせない。まずはこう理解すべきだな」
「まずもクソもねえよ。それで終わりだろ。部外者お断りってこった」
アメリアが腕組みをほどいて、両手を開いて持ち上げる。これ以上はどうにもならないだろう、と言葉でも仕草でも主張した。月の下でも動作がよく見える。この状況下で多くの賛同を得るのはたしかにアメリアの意見だろう。はっきりしたところのわからない、前に進めないということだけが判明しているルール。これを相手に何ができるかと考えればうんざりするのが自然だ。しかしマンフレートは同意の言葉を口にしない。
「……体そのものが動いていないのも、そのことに自覚がないのも痛いな」
「うっぜえな。諦める選択肢あんだろ。ハウス・リンデマンの下っ端どもをチマチマ潰せばそれでいいじゃねえかよ」
「そのやり方なら国の力を使うべきだ。俺たちじゃない」
アメリアは盛大にため息をついて足元にあった小石を蹴飛ばした。軽い音を立てながら小石は転がって、マンフレートのそばを通り過ぎていく。ふたりはとくにこれといった意識もなく小石を目で追っていた。からから。偶然にも奇妙な廊下のほうへと転がっていく。こん、こん。敷居をまたいですこし奥へと進んだところで勢いをやっと失った。
奥へと進んだ。
マンフレートもアメリアも小石を見たままで固まっている。あれは自分たちよりも先へと行くことができている。それが示す事実はたったひとつ。
「奥に行くことは不可能じゃない」
「アタシらと石の違いはなんだ、おい、てめえ得意だろそういうの考えんの」
「大きさ、材質、そもそも蹴られたこと、いくらでもあるが」
「冗談言ってる場合じゃねえだろ、殴るぞ」
「脳、というか、進もうという意識じゃないかと俺は思う」
「…………なあ、お前の考えだとここが大事なんだよな? 石は転がる。アタシらは動いてるつもりが微動だにできねえ」
そう言ってアメリアは頭を指で叩いた。
マンフレートは不思議そうな表情で頷く。向かい合っているアメリアの口の端がゆっくりと上がっていく。彼女にアイデアがあったとして、それが微笑ましそうなものだとはちっとも思えない。
「耳貸せよ」
肩に手をかけてぐいっと引き下げ、アメリアはマンフレートに耳打ちした。
一言ではないがそれほど長くもない説明があって、アメリアは一歩下がる。そしてマンフレートの回答を待つ。彼の目は見開かれている。いま話しかけたところでまず気付いてもらえないだろう。アメリアはそれを見てにやにやしていた。この男の想定外の答えを叩き込むことがこんなにも面白いとは。検討しているということ自体がその価値を証明している。簡単に捨てられるものではないのだ。
やがてマンフレートの手が彼の口を覆う。その動作はほとんど無意識だろう。彼の頭を支配しているのはアメリアの読みが正解かということではない。その段階はもう過ぎてしまった。いま重要なのは彼女からもたらされたアイデアが有用かどうか、そしてそれを超えるものがないかどうかという点にある。なぜならアメリアの出した答えはいまの状況を完璧に説明できるものだったからだ。
ほんのわずか、マンフレートの声が震える。
「俺には思いつけない。これは、そうか」
「ぎゃはは、温りぃんだよてめえはよ。行儀がいい。裏道を知らねえ」
「……案に乗ろう。それ以上のアイデアは俺にはない。どれくらいかかりそうだ?」
「あー、スコラスティカのやつ使えば早そうな気もするけどな。いったんあさってにしとこうぜ。一日寝てえからな」
アメリアは仕事は終わったと言わんばかりに大きく伸びをした。丸一日をあいだに挟んだとはいえ、こんな深夜にまで起きているのだ。そう簡単に疲労はゼロにはできない。あくびまでを済ませるとアメリアはさっさと帰路についた。




