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11 あなたが出会ったのは

 突入からおよそ一時間が経って、結果、彼らは何も得られずに拠点を後にした。


 マンフレートから受け取った報告書を読み終えて、すこしエーディトは考えを巡らせているようだった。表情どころか眉一つ動かさない。しかし彼女の奥では明らかに何かが高速で動いている。マンフレートはそれを隙のない姿勢で待っている。

 執務室はいつものようにエーディトの支配下に置かれていた。どれだけ豪奢な家具や調度品があっても、それらは彼女のものであることをやめられない。ランプの灯りひとつとっても彼女のためのものだった。

 そうですか、と時間を置いてエーディトがどこか面倒そうな納得を示した。

「おおまかに二点の報告として読みました。街の門における賄賂の問題と医者殺しの件。相違ありませんか?」

「相違ありません。私はそれらが有機的に絡んでいると見ています」

「おそらくそうでしょう。ただ賄賂についてはもうすこし幅が広い。多くの問題の下敷きになっています。あらためて文字で確認すると頭が痛いところです」

 エーディトは机に肘をついて額に手をやった。これまでも何らかのかたちで取り組んできたことが想像される。そしてそれらがうまく実を結ばなかったのだろうことも。残念ながらそういうものなのだ。どんなに優れていても達成できないことは存在する。目の届かないところの賄賂を封じることはそのひとつだった。

「とはいえ医者殺しの件を解決するとひとつは潰せますから、いったんは良しとしましょう」

「おそらく一定以上の位を持つ貴族かと思われますが」

「国賊です」

 冷たく言い放つエーディトの目にはどんな種類の感情もなかった。それはもう切り分けられて区分された傷んだ箇所だった。まだ具体的に特定はされていないが、そんなことは問題ではなかった。その席に誰が座るかも問題ではなかった。誰であるにせよ、捨てられる存在がいることが重要だった。マンフレートに口を挟める余地があるわけもなかった。

 マンフレートは姿勢を正した。言葉を待つ。

「さて、もうひとつのほう。これが問題ですね」

「は。我々は運び屋の追跡に成功し、製造拠点あるいは中継地点と思われる建造物を確認。そのまま突入から制圧を試みました。が」

「“奇妙な廊下”のせいで先に進めず、ですか」

 マンフレートは歯噛みして頷いた。

「どれだけ歩いても曲がれる地点に進むことができませんでした。視認できる距離に角も扉もすべてあるのですが、どこにも到達できず……」

 普段と変わらないよどみない報告のなかには、困惑と悔しさがはっきりと浮かんでいる。いまだに体験したものをうまく呑み込めていないことがよくわかる。この様子では解決策も浮かんではいないだろう。

「けれど後に退くことはできた。つまりあなたは脱出してここにいるわけですね」

「……いま思えばそれも奇妙な話です。前進してもどこにもたどり着けないのなら、後退もできないというのが筋のはずですが」

 当たり前のことにマンフレートが気付いていなかったのは、彼が制圧失敗から一睡もしていないからだった。マンフレートは撤退から即座に報告書をまとめあげて、そうしてこの朝一番に報告に上がっているのである。混乱と積み重なった疲労が彼の思考力を奪っていた。

 エーディトはそのことについては気にしていないようだった。どうもマンフレートの目には他のことに考えを回しているように映る。制圧できなかったことよりも、と考えると推測が立たない。

「マンフレート」

「は」

「これから極めて重要な話をします。本来は予定になかったことですが、想像以上に相手方が力を入れているようですので。他言は無用でお願いします。ああ、あなたが選んだアメリアという子には伝達する必要がありますか」

 エーディトの口にしたいくつもの言葉に引っかかるものがある。なにか、大掛かりな仕組みが動きそうな雰囲気がある。わざわざ自身に向かって他言無用を強調するようなこと、とマンフレートは考える。国家機密なんてものが脳裏を過ぎるが、いまひとつピンと来ない。現在の状況とかみ合っていない。マンフレートには返事をする以外の選択肢がない。

「承知いたしました」

「あなたの出会った“奇妙な廊下”。それにはおそらく魔術が関与しています」

 放った銃弾が浸透するのを待つように、エーディトは口を閉じた。

 マンフレートは目だけを見開いて、受け取ったものをどう処理したものかをじっと考えている。魔術。単語としては知っているが、それは作り話の中のものだ。それをこの場で。冗談であるわけがない。相手はエーディト宰相閣下だぞ、とマンフレートは思い直す。しかし。うまく思考をまとめることができない。

「……魔術、ですか」

「その反応は正常です。ないとされるものを信じろ、というのは誰であれ難しいものです。それも非常に。あなたがそうであったように、普段の生活では頭をかすめることさえないものですから」

 どこかで話の方向性が切り替わることを期待していたマンフレートは、さらに強く後押しするエーディトの言葉に困惑を深めていた。すべて彼女の言う通りだ。ないと思っていたものはうまく受け入れられない。魔術という言葉と生活という言葉は彼の生涯でつながりを持ったことがない。

 しかし、一方でどれだけ歩いてもどこにも到達できないという奇妙な現象に説明をつけるのには都合がよさそうだと思い始めている自分にも気が付いていた。

「いったい、その、魔術というのはそもそも何なのでしょうか」

「体系立てて説明するのはおそらく不可能でしょう。あまりに多岐にわたります。すくなくとも言えるのは、複数の意味で現実の現象、あるいは法則に干渉できるということです」

 マンフレートの困惑はさらに深まった。あのエーディト宰相が、彼にとっての論理の象徴が、不確かなものを不完全な説明で済ませようとしている。彼の理性の一方はエーディト宰相の言うことに間違いはないと言い、もう一方はそんなものを認めてしまえば壊れるものがあるぞと叫んでいる。どちらにも言い分がある。

 時間を稼いで混乱を収めるために、マンフレートは質問をすることにした。

「質問をお許しください。現実の現象あるいは法則に干渉するとは、いったい」

「あなたも体験したことです。歩けば目的地にたどり着くというようなこと、一概に言うことはできませんが、たとえば距離に関するような法則でしょうか。今回のことではそういったものが捻じ曲げられているように思えます」

「あんな状況を作り出す技術が……」

「特殊も特殊です。魔術などというものは、本当に最後の可能性でしかありません。まずほとんどの場合は他の手段で説明がつきます。今回のこれはあまりにも例外的なものと言って構いません。他の可能性が立ち入る余地がないのですから」

 一本の線が引かれているのをマンフレートは感じる。魔術という情報、あるいは知識の扱い方が違う。エーディトは向こう側にいて、マンフレートはこちら側に立っている。エーディトは明らかに魔術を知識として運用できる程度には身体化していた。具体的に何に向けた言葉なのかはマンフレート本人にもわからなかったが、こうまでも、という思いが彼の頭を支配していた。

 流し込まれた大きな塊をかみ砕いて、自身にとって触りやすいかたちに組み立て直す。まったく知らない分野に踏み入れたときのいつもの手順と変わりないが、労力が違っている。いわば地平が違っていて、これまで使っていた常識に見たこともない変なかたちのパーツをねじ込まねばならない。常識が軋む音が聞こえる。

「魔術というものは技術の範疇にあると理解してもよいものでしょうか」

「あなたの意図するところによりますが、その認識で構いません。修練や才能や、そういったものが下地にあります。あくまで人間が生んだもの、使うものです」

 わずかではあるが身近なところに手繰り寄せることができた感触がある。技術であるのならば、そこには難しさがあり条件があり、崩せる部分がある。そう確信できるのは、彼が学んだ技術はすべて局面ごとに適した使い方をしなければならないものであり、全局面に対応したものなど存在しなかったからだ。魔術が技術に分類されるなら必ず戦い方はある。構図は人間対人間から動いてはいないのだ。

 手の出し方すらわからない相手ではなく、知らない手段を使う人間だと理解することでマンフレートはいつもの調子を取り戻した。頭が回転を始める。振り返ると気になることがあった。

「この話、あまり気が進まれないようでしたが」

「ええ、まあ。話さなくて済むのなら、やはりそれが最善でしょう」

 マンフレートはこれ以上踏み込む気になれなかった。言葉の奥に滲む感情らしきものを彼が見逃すわけにはいかない。いまマンフレートの目の前で話しているのは、この国の政治面を担うエーディト宰相なのだ。彼女の感情の揺らぎが何を意味するのかを知るものは誰もいない。しかしそこに何かがあることにマンフレートは確信を持てる。疑えない。

 切り替えが必要だった。まったく未知の魔術というものに対して、どういうものかを知るよりも重要なことがある。

「では、魔術という現象に対するアプローチで留意すべきことはありますか」

「強引な手法は避けたほうが賢明でしょう。今回のことで言えば建物そのものを壊しにかかるといったものになりますか」

「それは魔術であることに起因するものでしょうか」

「ええ。専門家でない限り、魔術はどれを対象にとっているかがわかりません。建物全体が対象なのか、あるいは廊下だけなのか。もっと高位なものであれば空間そのものが魔術の影響下にあることも考えられます。仮にその場合、建物を壊してしまうと空間という領域の指定がどこまで広がってしまうかわかりません。最悪を考慮すると、誰もどこへもたどり着けなくなる街になってしまう可能性も出てきます」

 すらすらとエーディトが挙げた可能性にマンフレートは身震いした。それは一歩間違えれば王都レーゲンスブルクそのものが滅びかねない可能性の提示だ。まったくの意味で常識が違う。あらゆる想定をしなければならない。想像力の使い方が違ってくる。軽挙は厳に慎まねばならない。

「……承知いたしました。肝に銘じて取り組みます」

「すこし、危険な案件になりました。期待しています。マンフレート」

 表情を変えずにエーディトは目を伏せた。長いまつ毛がよく見える。彼女は机の上の書類に取り掛かったようだった。マンフレートは踵を返すタイミングが来たのだと理解した。

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