10 尾行
日もとっぷりと暮れて、人出もめっきり少なくなってきた。多くの人々は気持ちを明日に向ける頃。そのために心と体を落ち着かせる。食事も終えて、片付けも終わらせて、あとは家族や恋人とすこし話をして目を閉じる。そんな時間に活動をするのは限られた種類の人間だった。
退屈そうにアメリアがため息をつく。
「尾行って対象が見つかるまでこんなヒマだったんだな、知らなかったわ」
「そうだな。普通はするもんじゃない」
マンフレートは視線を一点に送りながら、普通は、の部分を強調した。彼にしたって自覚的なのだ。こんなことは一般的な倫理観に照らし合わせればするべきことではない。それも屋根の上で。
それぞれの家に音が閉じ込められてしまったように夜は静かだった。そのせいでわずかな音でも立てれば目立ってしまいそうな気がした。月が支配する空の下は、音がより通りやすそうに澄んでいる。透明度が増している。動かずに神経を集中していると、そんな勘違いをしてしまいそうになった。
配布拠点と思しき家屋の特定は難しくなかった、とマンフレートは説明した。近辺の建物の所有者と権利の動きを調べて、見事にいま張っている建物だけが不審だったらしい。何をどうすればそんなことが調べられるのかがアメリアにはわからなかったが、それを聞くことはしなかった。聞いてわかるとも思えなかったし、何より興味がちっとも湧かなかった。
「にしてもよ、夕方から張って一人も出入りがねえよな。だいぶ経つぜ」
「ペースの問題だろう。あんまり目立つと国が憲兵を動かすことになる。ゆっくりの方針をとって、かつ拠点に近づく回数は減らすよう言ってあるんだろう」
「悪党側についたほうがいいんじゃねえの、お前」
誰のものとも知れぬ家の屋根の上に寝そべって、軽口とそれに対する比較的真面目な言葉のやり取りが繰り返される。先の見えない見張りは知らないうちに精神を消耗させるもので、その意味で適度に息抜きができるコンビがいるというのは大きなことだった。
動きのない時間が過ぎていく。月の光しかないせいで、どこかぼんやりした絵画を眺め続けているような気分になってくる。青の濃淡でしか描かれていないそれは、技術的には卓越していたとしても面白味が足りていない。あくびだって出る。
月が最も高い位置から下り始めたころ、人の往来が途絶えてからはじめてふたりの監視している範囲に新しく人の姿が現れた。影になっているせいで顔は見えないが、たしかに拠点のほうへと近づいている。ゆらゆらと、不規則な動きだ。後ろを振り返って確認しながら歩いているのかもしれない。まだ距離があって、はっきりと見えるものはシルエットくらいのものだ。
「おいあれ。アタリじゃねえか?」
「かなり怪しいな。だとしたら運がいい、初日で引けるとは」
イヤそうな顔でアメリアがマンフレートのほうへ振り向く。本当に嫌いな食べ物が出されてしまったときの表情だ。目の前に出てきてしまったのだから、頑張って食べるにせよ食べない決断をするにせよ対応を求められる。
「お前、数日覚悟で尾行とか言ってたのかよ……」
「今回はな。場合によっては数か月、数年にわたることだってあるさ」
せいぜい人の後を尾けるくらいにしか思っておらず、本式の尾行など知らなかったアメリアはぞっとした。思えば金貨二枚という常識では考えられない報酬だった。拘束期間が長期に及んだっておかしくはない。今回のことはそうはならなかったが、もし似たような次があれば気を付けようとアメリアは心に誓った。
シルエットから男と判別された人物がやけにもったいつけて歩を進める。よほどの警戒を厳命されているのか、あれでは時間がかかって仕方がない。だからこんな夜中に荷運びをしているのかとも思われたが、ふたりとの距離が近づいてくるにつれて、だんだん変に見えてきた。
「あれは……、深く酔っているだけの人だ」
「んだよ、くっだらねえ。医者殺しってああいう症状出るとかねえの?」
「まずないだろう。詳しくは知らないが」
「あ、でもおい待てよ。あそこに近づいてるじゃねえか」
ふらふらと千鳥足で酔客が配布拠点の扉に寄っていく。まさか、と、もしかして、がマンフレートのなかで横並びになりかけた瞬間。男はどてっと転んで扉の隣の壁に身を預けた。そして時間を置かずに穏やかに寝息を立て始めた。
アメリアがささやき声で怒声を発するという器用な技を披露する。
「バカじゃねえのか! 家に帰って寝てろ! 日の出てるうちに帰れ!」
人の家の屋根を叩き始めそうになったとき、アメリアの肩をマンフレートが叩く。
「おい、あっち」
フード付きマントを羽織った人物が、月明かりを背にこちらに向かってきている。まだ距離は遠い。途中で角を曲がっても不思議はない。しかしマンフレートもアメリアも、息をひそめて集中力を上げた。なんとなく、がふたりの共通の根拠だったが、それでもほとんど確信に近いものを抱いている。
配布拠点の扉だけが見える、より見つかりにくい場所へ移動する。あの不審な男の視界に入って監視がバレました、では話にならない。絶対に姿を見せてはいけない。いるかもしれないという可能性すら抱かせてはいけない。彼はいつも通りに医者殺しを納品して、いつも通りに製造拠点に戻らなければならないのだ。
男がとくに警戒したふうもなく狙い通りの扉を開ける。扉の脇で寝息を立てている酔っ払いには一瞥もくれない。わずかに覗ける建物の内側では、おそらく手提げのカンテラの、限定的な明かりが揺れている。そういった細かい状況証拠がマンフレートの調査の正しさを証明するが、彼らはもうそんなところに注目してはいなかった。それはすでに確定したこととして扱われていた。
「ちなみにあの運び屋さらって情報吐かせるのは?」
「……あまり良いことにつながるとは思えないな。戻ってくるはずのやつが戻ってこないことになる。警戒が強くなる可能性が高そうだ。もしあいつがこのまま家に帰るっていうのなら話は別だが」
アメリアのため息からは残念に思っていることがありありと伝わってくる。それはそれとして、マンフレートはこの尾行を完遂しなければならない。
「さてアメリア、運び屋が出てくる前に二手に分かれよう。とはいってもそこの道を挟んで俺が向こう側に行く程度だが」
「あ? まあいいんじゃねえの。ほんと用心深いのな、お前」
言うや否やマンフレートは屋根からさっさと下りて反対側の区画に入っていく。時間というほどの時間もかけずに向こう側の屋根に姿を見せた。もう自身が商人だという設定は忘れたんだろうな、というのがアメリアの感想である。あんな、機動力と表現したほうが伝わりやすい運動能力を備えた一般人はまずいないのだ。
それほどの時間を待たずして、運び屋が配布拠点から姿を見せた。
とくに何かを気にする様子もなくまっすぐ歩く。それだけを見れば変なところは何もないと言いたくなるが、ろくすっぽ明かりもないこんな時間に平然と歩いていること自体が奇妙だ。付け狙われる理由にはじゅうぶんだった。
アメリアもマンフレートも細心の注意を払って移動する。屋根を踏みしめる音さえ出せない。こんな青い時間には、それも外でなんて、ひとつとして音は立ってはいけないのだ。
もう慣れた仕事なのか、あるいは悪事の意識すらないのか。運び屋の歩様に変わったところは見受けられない。焦りもない。わざとらしい大物ぶったところもない。それはマンフレートとアメリアにとって都合がよかった。神経の削られかたをすこし軽減できる。
とにかく視界から外さないように距離を保って移動する。細い路地を挟んだ建物と建物のあいだを跳ばなければならないときは驚異的な技術を要求された。人間とは動きを起こすときには何らかの音を出すよう設計されている。文明を手に入れたとき、痛みの意味を理解し隠すことを知ったときにそれは必然となった。
道をはさんでアメリアが左、マンフレートが右。どちらかといえば運び屋は左寄りに歩いているせいでアメリアからは見づらい位置にいた。ふだん気にも留めないことだったが、民家の屋根は斜めのものばかりだ。移動がしにくいことにアメリアはうんざりし始めていた。移動しにくい、音を立ててはいけない、そしてターゲットを見逃さない。三重苦だった。さっさと下りて同じ高さで追いかけたかったが、突然に曲がられて見失うような事態を避けるためには上から追ったほうがいい。知らずに追われている側は呑気だねえ、とアメリアはため息をついた。
警戒していた通りに運び屋はある角で右に曲がった。まっすぐ行けば街の門までもうそろそろといった辺りだった。当然ながらこの時間は門は閉まっている。
アメリアは一度屋根から下りて、道を渡ってまた建物を登った。その手間のぶんマンフレートが先に行っていて、後を追うかたちになる。相変わらず距離はきちんと離してある。運び屋は相変わらずただ普通に歩いていて、どこまで行くかなどこの時間ではわからない。神経をすり減らしていると人の歩く速度などじれったいもので、激しく動いてもいないのに額に汗が滲み出す。そのときだった。
運び屋が明らかに周囲に目を配ってから、ある建物の扉に手をかけた。




