第九十三話 帰ってから知った値段
七月一日、火曜日の朝、父さんは注文の紙を鞄に入れて家を出た。
「条件が合えば、今日は前と同じ外国株式の国内店頭取引で買う」
「何時に?」
「まだ分からない。向こうの都合もあるからな」
「買えたら連絡して」
「学校では携帯を切る約束だろ」
学校では、携帯の電源を切って鞄の奥に入れた。
一時間目が終わっても、昼休みになっても、注文がどうなったかは分からない。
「藤宮、今日ずっと時計見てない?」
七海に言われた。
「見てない」
「今も見たじゃん」
「昼休み、あと何分かと思っただけ」
「まだ始まったばっかりだよ」
佐伯が購買で買ったパンの袋を開けながら、廊下の時計を見た。
「あと四十二分」
「いや、別に聞いてないから」
「あと何分かって言ったじゃん」
七海が笑い、俺も牛乳の蓋を開けた。
放課後は体育館へ行った。
走っている味方に、ちゃんとパスが通る回数が増えていた。けれど、パスを出したあとに味方が受けるところを見てしまい、その場で足が止まる。
「藤宮、出したら走れ。見て終わるな」
顧問に言われ、次はパスを出した方向へ動いた。
空いた場所へ入ったつもりが、先輩の進む道と重なった。
「そこじゃない」
「はい」
もう一度列に戻る。
休憩になり、壁際の鞄に水筒を取りに行った。携帯はその奥に入っている。手を伸ばしかけたところで、学校では電源を切ると決めたことを思い出した。
画面を見ても、父さんからの連絡は届いていないかもしれない。届いていても、今ここでできることはなかった。
水筒だけを取り、コートへ戻った。
練習を終えて校門を出てから、携帯の電源を入れた。着信はない。
「何回見ても、急に鳴らないだろ」
隣を歩いていた大野が言った。
「見てない」
「今、画面つけたじゃん」
「電源入れただけ」
「電話待ってるの?」
「家の用事」
大野はそれ以上聞かず、自分の携帯を持っていないから家にかけるなら公衆電話だと言った。
「藤宮の、貸して」
「用事あるの?」
「ないけど、ちょっと触ってみたい」
「それで貸すわけないだろ」
大野は笑い、自分の鞄を肩に掛けた。
家へ帰ると、母さんが台所から顔を出した。
「おかえり。注文は出したって」
「買えたの?」
「そこまでは聞いてないよ。お父さんが帰ってから聞いて」
鞄を置いてからも、父さんが帰ってこないか、何度も玄関の方を見た。
七時前に戸が開く。
「どうだった?」
まだネクタイも外していない父さんに聞いた。
「お父さん、まだ手も洗ってないでしょ」
母さんに止められた。
夕飯の前、父さんは居間のテーブルに一枚の控えを置いた。
「五千万円分、取引は成立した」
紙の中に、アッ〇ルの名前と数字が並んでいた。
「俺が見た値段より高い」
「朝に見たのは市場の値段だろ。こっちは証券会社から買う値段だからな。為替も関係するし、向こうの取引にかかる費用も入ってる」
「もっと安い時に買えたのに」
「あの時はまだ、書類もそろってなかっただろ。確認せずに買うわけにはいかないんだ」
分かっている。分かっていても、買えた株数が減ったことを先に考えた。
「父さんは、その値段を聞いて決めたの?」
「ああ。いくらで何株買えるか聞いて、五千万円に収まるのを確かめてから頼んだ。向こうの市場へ直接注文したんじゃないからな」
「じゃあ、電話を切ったあとに値段が変わったんじゃないんだ」
「ああ。電話で『その値段で買います』と答えた時に決まったんだ」
「次は、もっと早く注文できない?」
「もう次の話か。先に今日買った分をノートに書いておけ」
父さんから赤いペンを渡された。
花柄のノートに、日付と最初の五千万円を書いた。細かな数字は、正式な取引報告書が届いてからノートに写す。
「次の五千万円も、同じように国内の提示価格を聞いて頼めばいい?」
「正式な取引報告書が届いたら、口座にいくら残ったか見てからだ」
父さんは控えの端に、提示価格を聞き、その値段で買うと返事した時刻を書き足した。
「お前も、見た値段だけじゃなく、いつ見たのかを書け」
「そこまでいる?」
「今日、値段が違うと言ったのはお前だろ」
赤いペンを持ち直し、俺が朝に見た時刻もノートに書いた。
「正式な紙が来たら、これと違うこともある?」
「買えた値段は変わらない。使われた為替や、口座から引かれた金額は、正式な紙が来たらこの控えと一緒に確かめよう」
「その紙、俺が持ってていい?」
「駄目だ。なくしたら困るから、元の紙は父さんが持つ。お前はノートに写しておけ」
「俺の取引なのに?」
「なくす心配がなくなったら考える」
父さんは控えを自分の書類に重ねかけ、今夜だけは見てもいいと言って俺に戻した。
「ご飯にするよ」
母さんの声で、紙を重ねてテーブルの端に置いた。
食卓には、焼いた鶏肉とピーマンが並んでいた。
「五千万円分も買い物したのに、ピーマンは食べられないんだ?」
姉ちゃんが俺の皿を見る。
「買ったのは父さんだよ」
「選んだのはこういちでしょ」
「ピーマンは関係ないだろ」
母さんまでこっちを見る。
ピーマンを一つ口に入れた。
「それでいいの」
姉ちゃんが笑った。
夕飯のあと、控えをもう一度見たくなったが、先に英語の宿題を始めた。
机の端には、父さんが持ち帰った紙が伏せて置いてあった。
一問解くたびに目に入ったが、宿題が終わるまでは裏返さなかった。
最後の問題まで終え、鉛筆を置いた。
紙を表に返し、買えた株数と値段をもう一度確かめた。
控えを父さんの書類に戻し、明日の教科書を鞄に入れた。




