第九十二話 二億八千万円まで
月曜日の夜、父さんが食卓に通帳と二枚の紙を置いた。
俺が花柄のノートを持ってくると、母さんも向かいの椅子に座った。姉ちゃんは居間でテレビを見ていたが、音を少しだけ小さくした。
「証券会社と銀行には聞いてきた。税金のことも相談したけど、今ある書類だけじゃ分からないところがあった」
父さんは一枚目の紙を俺の方に向けた。
「それで、もう一度全部合わせ直した。お前が残すと書いた八千万円は、株には回さない」
「うん」
「ほかにも、普段使う分と、為替が動いたり手数料が増えたりした時の余裕を残す」
紙には、これまでに使った金額も項目ごとにまとめられていた。
旅行で戻した金、パソコンの代金、今までの三社の株を買うために証券会社に送った金。俺の計算と違っていたところには、父さんの小さな字で印がついている。
「残す金も決めたし、一度に全部買わないなら、五千万円で止めるかは考え直してもいいと思った」
「じゃあ、三億円まで?」
「二億八千万円だ。それ以上は認めない」
三億円ではなかった。
「二千万円少ない」
「三億円近くではある」
「そうだけど」
すぐに納得したとは言えなかった。
二千万円だけを見ても十分大きい。それでも、三億円を基準にして何日も考えていたせいで、二千万円減らされたことの方が気になった。
「二億九千万円でもだめ?」
「だめだ」
「一千万円くらい、値段が動いたらすぐ変わるだろ」
「だから、動いても困らない余裕を先に残すんだ」
父さんは紙の端に書いた数字を指で示した。日常で使う分は、俺がノートで空けたままにしていた欄だった。
「ここをなくせば、株を買ったあとに何か必要になった時、そのたびに売る話になる」
「病気と進学の分は別にある」
「それ以外にも金は使う。この先、何も買わずに暮らすわけじゃないだろ」
言われるまで、残す八千万円以外はほとんど株に替える数字として見ていた。
母さんも俺のノートを開き、最後の行で指を止めた。
「下がった時、お父さんが注文したからだって言わない?」
「言わない。買いたいって言ったのは俺だから」
「本当に三億円近くなくなっても?」
すぐには返事が出なかった。
数字では何度も考えた。けれど、母さんにそう聞かれると、一周目、会社の机で朝飯代わりに缶コーヒーを飲んでいた自分が浮かんだ。あの生活を何年続けても、三億円を貯められる気はしなかった。
「……なくなっても、父さんのせいにはしない」
母さんは俺の顔をしばらく見ていた。
「私は、まだ多すぎると思ってるよ」
「父さんもだ」
父さんが続けた。
「会社が成功すると信じたわけじゃないぞ。まず五千万円だけだ。そこで下がれば、次はすぐには買わせない」
「二億八千万円までは、買っていいんだよな」
「条件を守るならな」
「途中で下がっても、全部買える?」
「上限を認めるのと、必ずそこまで買うのは別だ」
父さんは二億八千万円の下に線を引いた。
「次を買う前に、その時の値段と為替、それに口座の残りを見直す」
「一回下がっただけで止めるの?」
「下がった理由も見ずに買い足すとは言ってない」
「上がったら急がないと、また買える数が減る」
「それでも一度に買わない」
父さんも、そこは譲らなかった。
母さんが、閉じかけたノートに手を置いた。
「学校や部活を後回しにしてないかは、私が見るからね。こっちも譲らないから」
「会社のことは分からないのに?」
「分からないよ。でも、こういちが寝てるか、食べてるかは分かる。毎日そればかりになったら止めるからね」
「それで次の注文まで止まるのは、まだ納得してない」
「納得しなくてもいいよ。お母さんも、二億八千万円に納得したわけじゃないから」
母さんは手を離した。
「二億八千万円の中で、いつ買うかは俺も話せるんだよな」
「話は聞く。最後に注文するのは父さんだ」
「俺の金なのに」
「お前の金だから、記録と手続きを父さんが引き受ける。自由に電話して買っていいという意味ではない」
「条件が合わなかったら、俺が買ってって言っても出さない?」
「出さない」
「その間に上がっても?」
「出さない。値段が上がったからって、決めた条件を無視して買うわけにはいかないだろ」
父さんの返事は変わらなかった。
「じゃあ、出せなかった時もちゃんと教えて」
「理由も書いておく」
父さんが二枚の紙を重ねた。俺は大きく息を吐いてから、もう一度、二億八千万円の数字を見た。
「最初は五千万円?」
「そうだ。明日、最後に確認してから注文を出す」
「俺も電話を聞く」
「お前も聞くなら、学校から帰ってきてからになるぞ」
「帰ってからじゃ遅いじゃん」
「だから父さんがする」
姉ちゃんがテレビの前から振り返る。
「決まったの?」
「二億八千万円まで」
「それでもほとんどじゃん」
「ちゃんと貯金もするよ」
「私にはどっちも大きすぎて同じに見える」
姉ちゃんは少し考え、指を折った。
「二千万円あったら、何が買えるんだろ」
「そういう話じゃない」
「こういちのパソコン百台?」
「置く場所ないだろ」
「じゃあ家を広くする」
「そこまでして百台置くのかよ」
母さんが先に笑い、父さんは紙を重ね直した。
姉ちゃんはテレビの音を元に戻した。
父さんは注文に使う紙を自分の鞄に入れ、花柄のノートだけを俺に返した。
二億八千万円の横に赤い丸がついていた。
自分の部屋へ戻り、ノートを机に置いた。
前の方を開くと、小学四年の時に書いた八百円や、雑誌の四百八十円がまだ残っていた。今夜決まった数字は、その何枚も後ろにある。
明日の朝は学校がある。目覚ましをいつもの時刻に合わせ、ノートを閉じた。




