第九十一話 返事を待つ間
水曜日の夕飯が終わると、父さんは俺のノートを食卓に残したまま言った。
「今日は父さんと母さんで話す。お前は先に宿題をしろ」
「俺がいないところで?」
「二人で決めることもある」
母さんは食器を重ねながら、先に二階へ行くよう手で示した。
自分の部屋へ戻り、英語の教科書を開く。
一階から聞こえるのは、父さんの低い声と、食器を洗う水の音だった。何を話しているかまでは分からない。
階段へ近づけば聞こえそうだったが、椅子から立つのはやめた。
宿題を終えて下りた時、ノートは父さんの鞄の横に移っていた。
「どうなったの?」
「まだだ」
「何を話したかくらい教えてよ」
「母さんが気にしていることと、父さんが調べることを二人で整理した」
それ以上は、父さんも母さんも話さなかった。
母さんは俺の湯のみを流しに運び、父さんは質問を書いた紙を一枚抜いた。
「決まったら、俺にも全部言ってよ」
「決める前にも、必要なことは聞く」
父さんは紙から顔を上げなかった。
自分の金の話なのに、親二人の話には入れない。そのことが、断られるより少し違う形で引っかかった。
木曜日、父さんは会社へ行く前に、ノートから写した質問の紙を鞄に入れた。
「全部、今日分かる?」
「仕事の合間に聞ける分だけだ」
俺は学校へ行き、父さんは会社へ行った。
放課後、体育館では二年生と三年生が試合形式の練習を始めた。一年生はコートの外へ出たボールを拾い、空いた時だけ反対側の輪を使う。
俺の前で外れた球が、高く跳ねた。
落ちそうな場所へ入り、両手で取る。近くにいた大野に渡すと、大野はすぐに走り出した。
「今の、取るの早かったな」
「見えてたから」
「俺も見えてた」
「じゃあ先に取ればよかっただろ」
「藤宮の方に落ちたんだよ」
大野は言いながら、次の球を追いかけた。
帰宅した時、父さんはまだ帰っていなかった。
夕飯の途中で帰ってきた父さんの鞄には、証券会社から送ってもらう資料の名前を書いた紙だけが入っていた。書類そのものは、あとで郵送されるらしい。
「買えることは買える。ただ、今までみたいな金額じゃないから、確認することが増えるそうだ」
「五千万円だから?」
父さんは味噌汁を一口飲み、鞄から出したメモを食卓に置いた。銀行と税務相談の電話番号が書かれていた。
「この金額をどう分けて注文するかも、まだ確認しないと駄目らしい」
「税金の方で問題ないって言われたら買える?」
「買っていいかを決める人じゃない」
父さんの返答に少しの間があった。
「手続きと、記録の残し方を聞くだけだ」
金曜日、家へ帰ると、郵便受けに不在票が入っていた。
昼過ぎに書留が来たが、母さんは仕事のあと、そのまま一緒に働いている人と買い物に行っていたらしい。
「十二時半なら、いつも帰ってるだろ」
「今日は頼まれた物を見に行ってたの。私だって毎日同じ時間に家にいるわけじゃないよ」
母さんは不在票に書かれた番号に電話をかけ、夕方の再配達を頼んだ。
早く中身を見たかったが、届いた封筒は開けずに父さんの帰りを待った。
土曜日は部活に行った。七海にも電話したが、日曜日はバレー部の練習があると言われた。
日曜日の昼、駅前のゲーム店へ行くと、遼太と悠斗が入口の貼り紙を見上げていた。
「四人対戦のレースゲームだって」
「やっぱり面白そうだっただろ」
「遼太、今日まで内容を知らなかったじゃん」
店の奥にテレビが二台置かれ、その前に折り畳み椅子が並んでいた。参加する十六人は受付で番号を引き、四人ずつ別の組に分かれる。俺たち三人も別々になった。
最初に走った俺は、曲がるたびに外側の壁に当たり、三位で終わった。遼太は後ろから、そこで曲がれと何度も言ったが、言われた時にはもう壁が画面の前まで来ていた。
「藤宮、遅すぎ」
「遼太の声で余計に分からなくなったんだよ」
「じゃあ見てろ。俺が勝つから」
遼太は、速さの目盛りが一番長い車を選んだ。最初の一周は何度もぶつかったのに、前の二人が同じ曲がり角で止まった隙に抜け、そのまま一位で予選を通った。
悠斗は車を選ぶ画面でしばらく止まり、速さより曲がりやすさの目盛りが長いものを選んだ。
「それ、遅いやつだぞ」
「曲がれないよりいいよ」
悠斗は一度も壁に当たらず、最後の直線で前の車を抜いた。自分の番を終えた遼太は後ろから声を出し続け、悠斗が一位になると、選んだ車がよかっただけだと言った。
決勝では、遼太が最初に前へ出た。二周目の曲がり角で壁にぶつかり、その横を悠斗が通る。優勝したのは別の学校の男子で、悠斗は二位、遼太は四位だった。
「もう一回なら、絶対ぶつからない」
「次も一番速いの選ぶの?」
「今度は二番目にする」
「それでも速い方じゃん」
大会が終わってから、三人で中古の棚を見た。悠斗は順番を待つ間に読んでいた漫画を鞄から出し、帰りに貸してくれた。
家へ帰ってから、その漫画を読んだ。
夕飯のあと、父さんが届いた資料を広げていた。注文時間や為替について書かれたところを前の控えと見比べ、付箋を貼っている。
「俺も読む」
「いいぞ。前の控えも見てみろ」
父さんが資料を俺の方へ寄せた。
前の控えを横に置き、資料の電話注文について書かれた段を読んだ。買いたい会社と金額を伝えるところは、前に父さんが電話していた時と同じだった。
「前と同じように頼めばいいんじゃないの?」
「五千万円でも同じでいいかを、今確かめてるんだ」
「一度にいくら頼めるかは、書いてないよ」
「そこを月曜に確認する」
「紙が来たら分かるんじゃなかったの?」
「書いてないこともあるからな。そこは直接聞いてみるよ」
父さんも付箋の横に疑問符を書いた。
前に買ったことがあるのだから、父さんならすぐ進められると思っていた。けれど、父さんも仕事から帰って資料を読み、分からないところを一つずつ調べていた。
月曜日の朝、アッ〇ルの株価をもう一度見た。
金曜日に見た時より上がっていた。
五千万円で買える株の数がどれだけ減るのか、ノートの端で計算してみた。けれど、為替や手数料が分からず、途中で手が止まった。
「父さん、今日買えない?」
新聞を畳んでいた父さんに聞いた。
「まだ確認が終わってない」
「先週より上がってる」
「だからって、確認しないまま買うわけにはいかない」
言い返せなかった。
「早く買いたいんだよ」
「今日聞くつもりだが、仕事の合間になるぞ」
「でも、待ってる間にも値段は変わるだろ」
「そうだな」
父さんは否定しなかった。
「自分の金なのに、俺は何もできないじゃん」
「十三歳だからな」
短く返され、腹が立った。
当たったのは俺で、会社を選んだのも俺だ。それでも、銀行に電話するのも、証券会社に注文を出すのも俺ではない。
「学校、遅れるよ」
母さんに言われ、椅子から立った。
玄関で靴を履いていると、父さんも鞄を持って後ろへ来た。鞄の外側のポケットには、証券会社に返すための封筒が入っていた。
「今日、出すの?」
「必要なところを確認してからだ」
父さんは俺より先に玄関を出た。




