第九十話 朝に起きること
火曜日、部活から帰ると、台所の椅子に母さんの仕事用の上着が掛かっていた。
午前中に着ていたらしく、胸元の名札だけ外してある。
「こういち、先に手を洗って。麦茶は冷蔵庫」
「分かってる」
洗面所から戻ると、母さんは買ってきた野菜を冷蔵庫に入れていた。
「今日、仕事だったの?」
「そうだよ。帰りに買い物もしてきた」
袋の底から、値引きのシールが貼られた油揚げが出てくる。
「これ、働いてる人だけ早く買えるの?」
「そんなわけないでしょ。十二時を過ぎて残ってたの」
「仕事、もう慣れた?」
「少しはね。でも今日は、レジの紙を替えるところで手間取ったよ。お客さんを待たせてると思うと、焦っちゃってね」
「母さんでも?」
「母さんでも。だから次に同じことにならないよう、帰る前にもう一度教えてもらったの」
母さんは袋を畳み、俺の方を見た。
「少し話したいことがあるから、着替えたら下りてきて」
自分の部屋で体育着を脱ぎ、洗濯籠に入れる。机には、父さんが赤い字を書いた花柄のノートが置かれたままだった。
一階へ戻ると、母さんは夕飯の下ごしらえをしながら話し始めた。
「お父さんから、何を買うかは聞いた。私は会社のことを調べても分からないから、そこはお父さんと話して」
「うん」
「でも、買ったあとにどうするかは、今決めるよ」
まな板の上で、玉ねぎが半分になった。
「買ったら、値段はいつ見るの?」
「証券会社から紙が来た時とか、次に買う前かな。あとは、たまにパソコンで見ると思う」
「それならいいけど、気になって夜更かしはしないでね」
「そんなことしないよ」
母さんは切った玉ねぎを鍋に移した。
「朝起きられなくなったり、宿題を後回しにしたりしたら、次に買う話はいったん止めるからね。ご飯もちゃんと食べること」
「宿題はちゃんとやるし、ご飯だって食べるよ」
「友達との約束も、ちゃんと守ること」
「株と関係ないじゃん」
母さんの手が止まった。
「関係あるよ。何年も持つつもりなんでしょ。買ったあとも、今までどおり過ごしてほしいの」
何年もという言葉が、買ったあとの時間まで広げた。
値段が上がるまで待てばいいと考えていた。その間も、学校に通って部活をして、友達と出かけたりする。
「約束してたら、ちゃんと行くよ」
その時、鞄の中で携帯が鳴った。
母さんが鞄を見る。
「出ないの?」
「今、話してるから」
「友達かもしれないでしょ」
携帯を取り出すと、遼太の家の番号が表示されていた。
「もしもし」
『藤宮、日曜空いてる? 駅前のゲーム屋で大会やるって』
「何の?」
『まだ知らない。店の前に紙貼ってあった』
「知らないのに誘ってるの?」
『面白そうなら行けばいいじゃん。悠斗にも聞くから』
母さんは玉ねぎを炒めながら、こっちを見ている。
「あとで予定見て電話する」
『忘れるなよ』
「遼太にだけは言われたくない」
電話を切ると、母さんが少し笑った。
「遊びに行くの?」
「まだ分かんない。予定、見てから」
「返事、忘れないようにね」
「分かってるって」
「それから、株が下がった時も、一人で抱えないでお父さんとちゃんと確認してね」
「父さんのせいにもしない」
「それはお父さんに自分で言いなさい」
「値段を見るのは、宿題が終わってからならいい?」
「いいよ。ただし、夜九時までね」
鍋から、油のはねる音がした。
「母さんは、反対じゃないの?」
「三億円は怖いよ」
母さんはすぐに答えた。
「でも、怖いから何も聞かないのも違うでしょ。こういちのお金なんだから」
玉ねぎを混ぜ、火を少し弱くする。
「それに、私も仕事の日は朝から出るんだから、寝坊したこういちを起こすためだけに二階まで何度も行けないよ」
「一回で起きるって」
「今朝、二回呼んだ」
「昨日は眠れなかったから」
「じゃあ、なおさら今日早く寝なさい」
言い返せなかった。
冷蔵庫の横に掛かったカレンダーには、母さんの仕事の日と、俺の部活の予定が別の色で書かれていた。
夕飯までに、ノートに新しく「生活」と書いた。
その下に、朝起きることから書き始めた。
夕飯のあと、父さんにもそのページを見せた。
父さんは上から読み、損を隠さないと書いたところで止まった。
「注文した父さんのせいにも、しない」
「それは、買う前に言い切ることじゃない」
「でも、買いたいって言ったのは俺だろ」
「下がった時に腹が立つのは仕方ない。そこで記録をやめたり、都合の悪いことを言わなくなったりするな」
「分かった」
父さんは、朝起きると書いた行を指してから、ノートを返した。
「明日からは、ちゃんと朝起きろよ」
「一日寝坊したら、買わないの?」
「一日で全部決めるとは言ってない」
最後に日曜日の欄を見て、遼太にかけ直した。午後からなら行けると伝えると、まだ大会の内容も知らないのに、遼太は集合時間だけ先に決めた。




