第八十九話 円だけでは決まらない
日曜日の午前中、机の上に花柄のノートと、父さんから借りた通帳、証券会社の書類を並べた。
通帳の残高と、今までに買った三社の株、パソコンや旅行に使った金を一つずつ書き出す。
電卓に通帳の数字を入れ、ノートの端で一度引く。桁を一つ間違えた気がして、表示を消して最初からやり直した。
旅行やパソコンの代金まで足すと、二度目の合計は一度目と合わなかった。証券会社に送った額と株の購入額も違い、旅行代はどこまで俺の口座から出したのか分からない。
しばらく数字を見てから、最初の四億円まで全部たどる必要はないことに気づいた。
今、銀行にいくら残っているのか。そこから何を残し、何を株に回すのかを決めればいい。
三億円と書いた時には気にならなかった何万円、何千円の違いも、残す金を考え始めると無視できなかった。
それでも、前のように空欄のままにはしなかった。
新しいページを四つに分ける。
病気や事故があっても手をつけない金は五千万円、進学と生活のために残す金は三千万円と書く。日常で使う金は、ほかの三つを引いて残る分にした。
五千万円の横には、長く入院しても、家で急に金が必要になっても、と書いた。三千万円の横には、高校、大学、家を出る時、と並べる。
大学の学費だけなら三千万円もかからないかもしれない。けれど、どこへ行くかも、一人で暮らすかもまだ決まっていない。足りると断言できる数字ではなく、少なくとも株に回さない金として置いた。
長く持つ株として、アッ〇ルに追加で三億円近く回す。三億円の横には、三回か四回に分けると書き、最初に買う分を五千万円にした。
借金をしない。父さんと母さんの金を使わない。注文は父さんに頼み、買った後も届いた紙を一緒に見る。
書き終えると、文字はページの下まで続いていた。
これなら前よりは話せる。
ページを閉じかけて、もう一度開く。借金をしない、の下に、下がってもすぐ売らない、と足した。
父さんが聞いた、一億五千万円減っても同じことを言えるのか、という言葉はまだ残っている。なくなっていいとは思えない。それでも、途中で値段が下がっただけで売るなら、未来で見たあの会社を信じて買う意味がない。
ただ、日常で使う金だけは、まだ数字になっていなかった。
アッ〇ルに回す額を「三億円近く」としか決めていない以上、残る金もまだ確定しない。
無理に数字を入れず、その欄だけ空けておいた。
「こういち、お昼できるよ」
階段の下から母さんの声がした。
「あと少し」
「お父さん、もう待ってるから」
鉛筆をノートに挟み、一階へ持っていった。
* * *
昼食のそうめんを食べ終わったあと、父さんが食卓の端を空けた。
ノートを置くと、父さんは最初に残す金の二行を読んだ。
「五千万円と三千万円を分けたのか」
「うん。病気や事故の金まで、大学に使って減らしたくないから。大学に行く頃に何もなかったら、その時また考える」
父さんは答えず、二つの数字の間に鉛筆で短い線を引いた。
「日常で使う分が空いてるぞ」
「ほかの三つを引いて残る分。三億円をきっちり決めてないから、まだ出せなかった」
父さんは通帳と証券会社の書類を引き寄せ、パソコンの代金と証券会社に送った金を順に指した。
「ここまでは合ってる。旅行は、全部お前の口座から出したわけじゃない」
旅行代は一度家族の口座から払っていた。あとで俺の口座から家の口座に戻したのは、その一部だけだった。
「それ、俺の金から払ったと思ってた」
「宿の分は、お前の口座から出した。向こうで食べた分まで全部お前に払わせてない」
「じゃあ、ここが違う」
ノートの計算に線を引いた。
一か所直すと、その下の合計も変わった。消しゴムで数字を消し、計算し直す。父さんは急かさず、通帳の次の行を指で押さえて待った。
三度目で同じ数字になり、父さんがそこに小さく丸をつけた。
父さんは、次にアッ〇ルの欄を見た。
「一度には買わないんだな。注文も父さんを通す」
「うん。だったら、最初の五千万円は買っていい?」
「まだだ」
すぐに返され、鉛筆を握り直した。
「前より書いたじゃん」
「書いたから見てる。許可したとは言ってない」
父さんはノートの空いているところに、赤いペンで三つ書いた。
為替。
手数料。
税金。
「前に百万円ずつ買った時も、為替や手数料は確かめた。今回も株の値段だけでは決められないぞ」
「前みたいに、何円分って頼むんじゃないの?」
「向こうの株価を円に直す時の為替と、証券会社に払う分を入れて、五千万円に収まるか確かめるんだ」
「株価が同じでも、為替が動けば必要な円は変わるってこと?」
「そうだ」
買う時期を分ければ、株価が動く影響も分けられると思っていた。けれど、株価だけを見ていれば済む話ではなかった。
父さんは為替の下に線を引いた。
「売った時の税金のことも聞いておく」
「売るのはずっと先だよ」
「先だから今考えなくていい、では困る」
赤い字が、ノートの余白に増えていく。
小学四年の時に最初の株を買った時も、父さんの紙には手数料と為替と書かれていた。横で電話を聞いたのに、俺が覚えていたのは会社名と買った金額の方だった。
「証券会社に聞けば分かる?」
「聞かないと分からない。父さんも、外国株を三億円買う手続きなんかしたことはない」
「じゃあ、聞いてくれる?」
父さんはすぐには答えなかった。
赤いペンのキャップを閉め、書いた三つをもう一度見た。
「まず五千万円なら、どう買うことになるかを聞く」
「それで大丈夫なら買える?」
「まだだ。三億円まで認めたわけじゃないぞ。五千万円で買うかどうかも、母さんと話してから決める」
「またそこから?」
「お前は学校と部活があるだろ。手続きするのは父さんだ。勝手には決められない」
母さんは食器を洗いながら聞いていた。そうめんの器を水切り籠に伏せ、濡れた手を拭いた。
父さんがノートを俺に返す。
「赤いところを調べる。金額の話は、そのあとだ」
「三億円近く」の文字は、消されていなかった。
その周りに、俺の字ではない言葉が増えていた。




