第八十八話 名前を呼ばれて
土曜日、体育館に着いた時には、まだ相手の中学校は来ていなかった。
一年生で折り畳み椅子を出し、ベンチの後ろに並べる。得点板をコートの横へ運び、先輩に教えられながら記録用紙を机に置いた。
「藤宮、そっち反対」
大野に言われ、得点板を向け直す。
「こっちから見えたらいいんじゃないの?」
「試合する人にも見えないとだめだろ」
「先に言えよ」
「今言ったじゃん」
椅子を出し終わる頃、相手の選手が体育館へ入ってきた。
相手校には、俺たちと同じくらいに見えるのに、ユニフォームを着て先輩と一緒にアップを始めるやつがいた。走りながら出すパスも、輪の下へ入る足も止まらなかった。
アップの列にいた一人が外したボールが、板の横へ大きく跳ねた。相手校のベンチにいた、俺たちと同じくらいに見える選手が先に走り、床に落ちる前に片手で止める。そのまま列の先頭に強く返した。
「あいつ、うまいな」
大野が小さく言った。
「同じ一年?」
「たぶん。上級生には見えないし」
大野はそいつを見たまま、自分の靴ひもを結び直した。俺も足元を見て、緩んでいないのに一度だけひもの上を押した。
俺たちは体育館の端で着替え、先輩たちにボールを渡した。
試合が始まると、最初に任されたのは得点係だった。
横に座った二年生が数字をめくり、俺は点が入るたびに記録用紙に線をつける。
「今の二点」
「はい」
「書いてないぞ」
「今書くところです」
コートの方ばかり見ていると、手元が遅れた。
二年生に、得点が入った時だけでなく、審判が指で示した数も見るように言われた。輪へ入ったボールを追い、それから審判を見る。次に紙に線を引く頃には、もう反対側で攻めが始まっていた。
「今の、どっちですか」
「二点。線はそこ」
教えられた欄を直す。応援の声を出すと鉛筆が止まり、記録に集中すると、先輩が決めてもすぐには声が出なかった。
先輩が相手の前に身体を入れ、外れたボールを取る。そのまま近くの味方に出すと、一人が先に走り、二本のパスで反対側まで運んだ。
俺たちの練習より、ボールが止まる時間が短い。
ベンチから声を出している間も、次にどこへ動くのかを追うだけで目が遅れた。
最初の試合が終わると、顧問は選手をベンチの前へ集めた。一年生は水筒を渡し、外れたボールを籠に戻す。
「外から打ったら、全員で見上げるな。近い者は中へ入れ。取ったら一番近い味方に出して、そこから走れ」
次の試合に出るとは言われていなかった。それでも、さっき先輩がどこで相手の前に身体を入れたのか、コートの外からもう一度確かめた。
大野は相手の一年生をまだ見ていた。
「出たい?」
「そりゃ出たいだろ。藤宮は?」
「出られるなら」
「何だよ、それ。出たいでいいじゃん」
言い直す前に、次の試合の準備をするよう声がかかった。
二試合目で、大野は俺より先に呼ばれた。
残り時間は短かったが、相手の一年生を前にしてもドリブルが高くならない。一本目のシュートは外し、戻ってきた時には悔しそうに唇を噛んでいた。
「次、藤宮。大野と一緒に入れ」
顧問に呼ばれ、返事が少し遅れた。
「聞こえたか」
「はい」
記録用紙を隣の二年生に渡してから、上に着ていたシャツを脱ぎ、ベンチの端に置く。
立ち上がると、膝が少し浮くようで、足元が頼りなかった。さっきまで見えていた得点板の数字も、コートへ入る線の前では頭から抜けた。
大野が先に入り、振り返って俺を待っている。
「藤宮、こっち」
「分かってる」
返した声が、自分で思ったより大きかった。
こちらが大きくリードしていた。先輩二人と、一年生三人でコートへ入る。
「藤宮は輪の近く。まず相手を前へ入れるな。ボールを取ったら近い味方に出せ」
「はい」
相手のボールから始まった。
目の前の選手は俺より少し低い。輪の近くに入ろうとする相手の肩に身体を寄せ、前へ出られないように足を動かす。
ボールが遠くで床を打つたび、そっちを見たくなった。
相手が急に向きを変え、半歩遅れる。
先輩が間へ入り、相手は外からシュートを打った。
ボールが輪の手前に当たる。
落ちる場所は見えた。
両手を伸ばし、相手より先に取る。胸に引き寄せたところに腕が二本伸びてきた。
「藤宮、こっち!」
大野の声がした。
右足を軸に身体を横へ向け、近くまで来た大野に渡す。
大野はそのまま前へ運び、走っていた先輩にパスを出した。先輩のシュートが板に当たって入る。
戻りながら、大野がこっちに向けて親指を立てた。
次の守りでは、相手に先に入られた。押し返そうとして手が背中に当たり、笛が鳴る前に離す。
先輩から、押すな、足を使って前に入れと声が飛んだ。相手の背中ではなく、輪との間に足を入れ直す。次のパスは外へ戻り、相手は俺から離れたところでシュートを打った。
今度はボールより先に相手の肩を見た。輪へ向かおうとする相手の動きについていく間に、反対側の先輩がボールを取った。
そのあと、先輩から来たパスを受けた。
前には相手がいる。
大野を探すより先に、自分でボールを一度床についた。
ボールが身体から離れすぎた。
横から伸びた手に触られ、前へ転がる。取り返そうと追いかけ、前へ入った相手の背中を押す形になったところで笛が鳴った。
「白、プッシング。相手ボール」
手を上げる。
顧問がすぐに交代を指示した。
ベンチへ戻ると、喉がからからだった。
置いていた水筒を取ろうとして、指が蓋の横を滑った。座ってから開ける。水を飲んでも、笛が鳴った時に相手の背中を押した感触はすぐに消えなかった。
「取ったあと、急ぐな。最初に言った通り近くへ出せ」
「はい」
次のプレーで、先輩が俺と同じように相手の前でパスを受けた。
先輩はすぐにはボールを床につかず、胸元に持ったまま一度身体の向きを変えた。相手が横へ動いたところで、近くまで戻ってきた味方に渡す。
何も起きなかったように、そこから攻め直していた。
自分がどこで急いだのかは、よく分かった。
コートにいた時間は、たぶん三分もなかった。
それでも、ベンチに戻って隣の二年生から記録用紙を受け取ると、線を引く手が少し震えた。
二年生が、次の得点を指で示す。
「藤宮、そこ一本抜けてる」
「すみません」
「コート見てもいいけど、今はこっちがお前の仕事だからな」
消しゴムで一行を直す。出る前より、得点係の紙に目を戻すのに時間がかかった。
試合が終わると、相手の学校に挨拶をし、一年生で椅子を片づけた。
大野と二人で得点板を持つ。
「最初のリバウンド、よかったじゃん」
「そのあと取られたけどな」
「俺もシュート外した」
「見てた」
「そこだけ覚えてるの?」
「入ったのは先輩のだけだったし」
大野は何か言い返しながら、得点板の片側を倉庫の棚に載せた。
倉庫を出ると、さっき先に出ていた相手の一年生が、先輩と並んでコートの端からモップを押していた。
大野も気づいたらしく、一度だけそっちを見た。
「次は入れる」
「シュート?」
「それも。もっと長く出る」
大野は先に体育館へ戻った。
家に帰ると、父さんは居間で書類を広げていた。
「試合、出たのか」
「少しだけ」
「どうだった」
「最初にボールは取れたけど、自分でドリブルしたら取られた」
「最初に取った時は?」
「大野に渡せた。そこから先輩がシュート決めた」
「そうか」
父さんはうなずいた。
冷蔵庫の麦茶を取りに台所へ行った。
コップを持つ指先に、まだボールのざらつきが残っている気がした。




