第八十六話 五千万円まで
火曜日の夕飯が終わると、父さんが俺を食卓に残した。
「この前の話、少し調べた」
父さんの前には、新しく印刷したらしいアッ〇ルの記事と、証券会社に聞くことを書いたメモが何枚か置かれていた。その横には、俺のノートもあった。
記事には、音楽販売を始めた日と一週間で売れた曲数だけでなく、アメリカだけで始まったことや、使えるパソコンが限られていることにも赤い線が引かれていた。俺が日曜日に調べたものとは別の記事だった。
俺がノートに「まだ分からないこと」と書いた部分を、父さんも別の記事で確認していた。
断ったあとも、父さんは自分で調べていた。
「勝手に部屋入った?」
「母さんに持ってきてもらった」
「それなら同じじゃん」
「嫌なら、次から自分で持ってこい」
父さんはノートを俺の方に向けた。
姉ちゃんは食べ終わった皿を台所へ運び、そのまま二階へ上がった。母さんは流しで水を出している。
「三億円は認められない」
「それはもう聞いた」
「五千万円までなら考える」
すぐに返事ができなかった。
五千万円は、小学四年の時に二社に百万円ずつ出したのと比べても大きい。
それでも、三億円の六分の一だった。
「それを、最初に買う分にするならいいよ」
「最初じゃない。全部で五千万円だ」
「それだと少ない」
「少なくない」
父さんは赤い線を引いた記事を裏返した。
「五千万円だぞ。父さんが何年働いても、簡単に残せる金じゃない」
「俺も簡単に決めたわけじゃない」
「なら、少ないの一言で終わらせるな」
言われて、口を閉じた。
五千万円だけを見れば大きい。四億円や未来の値上がりと並べていたからか、小さく見えていた。
父さんは横の紙を一枚出した。
「一つの会社に三億円を入れる必要はない。マイクロ〇フトやネト〇リに分ける手もある」
「そっちは増やす気ないよ」
「大きく動かすなら、なおさら分けるべきだ」
「買いたいのはアッ〇ルなんだよ」
「その会社が、お前の考えている通りになる保証はあるのか」
未来では大きくなった。
その言葉は、父さんには言えない。
「保証はない。でも、曲を売り始めて、新しい音楽プレーヤーも出した。パソコンだけの会社で終わらないと思う」
「思う、で三億円は出せない」
「俺が出すんだろ」
父さんの眉が動いた。
自分でも、声がさっきより高くなったのが分かった。
「お前一人では出せない」
「手続きは父さんに頼む。でも、もとは俺の金だって言ったじゃん」
「だから守ってるんだ」
「守るって言って、父さんが決めるなら、俺の金じゃないだろ」
流しの水が止まった。
母さんは振り返らず、洗った皿を布巾の上に置いた。
父さんも、すぐには答えなかった。
持っていた紙を食卓に置き、ずれていた角をそろえる。
「父さんが、その金を別のことに使いたいと言ってるわけじゃない」
「分かってる。でも、止めるだけなら同じだろ」
「止める責任もある」
食卓の上には、三億円と五千万円が並んでいる。どちらも紙に書かれた数字なのに、間にはずいぶん距離があった。
「お前が当てた金だ」
父さんが言った。
「それは変わらない」
「じゃあ」
「だからって、中学生が三億円を一社に入れたいと言って、はいそうですかと手続きをするのが親か」
「何も考えずに言ってるわけじゃない」
「考えてるなら、なくなった時のことも考えろ」
「全部なくなる会社じゃない」
「そう言い切るところが心配なんだ」
言葉が詰まった。
膝の上で握っていた手が痛くなり、指を開いた。落ち着いて話すつもりだったのに、父さんに止められるたび、自分の金を取り上げられたように腹が立った。
「借金するつもりはないし、父さんたちの金も使わない」
「それは当たり前だ」
「最初は五千万円でいい。全部を何回かに分けてもいい。でも、そこで終わりにはしたくない」
父さんは、金額の入っていない二つの欄をもう一度指した。
「残す金は」
「これから出す」
「三億円を先に引いて、残りを分けるな。先に必要な方を出せ」
「残った金でも、普通に暮らすには足りるよ」
「普通に、で済ませるな。高校、大学、病気、家を出る時。お前が今思いついてないものもある」
高校や大学、病気に備える金なら考えられる。けれど、いつ家を出るかも、どこで暮らすかも決めていない。一周目に一人で暮らし始めた頃の金額を、そのまま今の計画に入れることはできなかった。
「通帳と、証券会社から届いた紙、見せて」
「いいぞ。それを見て、残す金額を出してみろ。それから、もう一度話そう」
父さんは椅子の背にもたれた。
「五千万円で終わりにする気はないんだな」
「ない」
「ほかの会社に分ける気も」
「今はない」
母さんが、俺と父さんの湯のみを食卓に置いた。
「二人とも、声が大きいよ」
「大きくしてない」
父さんと同じタイミングで答えた。
母さんは何も言わず、先に自分のお茶を飲んだ。
父さんは紙を重ね、ノートだけ俺に返した。
「五千万円までなら考える。今はそれ以上言えない」
「俺も、そこで終わる気はない」
ノートを持って立ち上がる。
二階へ上がる途中、姉ちゃんの部屋から音楽が聞こえた。
自分の部屋へ入り、ノートを机に置いた。
机の端で携帯電話が鳴った。
画面には佐伯の名前が出ている。
「もしもし」
「藤宮? 明日の体育って、外だっけ」
「時間割には体育館って書いてた」
「じゃあ体育館の靴いるよな」
「学校に置いてるだろ」
「持って帰った気がする」
「俺に聞いても分からないよ」
佐伯は少し黙ってから、自分で探すと言って電話を切った。
ノートの横に携帯を置いた。




