第八十四話 消せなかった金額
携帯電話を買って一週間が過ぎた日曜日、花柄のノートを開いた。
前に会社の記事を読んで、ノートに書いた内容を読み直す。
一曲ずつ音楽を買える店。
一週間で百万曲が売れた。
同じ会社が作るパソコンと音楽プレーヤー。
記事に書いてあった事実と、俺が未来で知ったことを分けるため、間に一本線を引いた。
未来では、アッ〇ルはパソコンだけの会社ではなくなっていた。
携帯電話を作り、音楽やアプリまで売るようになった。買い替える時にも、同じ会社を選ぶ人が増えていった。
そこまでの流れを、全部覚えているわけではない。
けれど、パソコン以外にも事業が広がっていくと思える理由は、小学四年の時より増えている。
新しいページを開き、三つの見出しを書いた。
もしもの時に残す金。
進学や生活のために残す金。
株に回す金。
小学四年の時、父さんに金は分けて考えろと言われたのを思い出した。
最初の二つに何をどれだけ置くかを書こうとすると、手が止まった。
今までに買ったパソコンやゲーム。本や旅行に使った金。すでに持っている三社の株。
四億円から減っているのは分かるが、口座に今いくら残っているかは、父さんが預かっている通帳と証券会社の書類を見なければ正確には分からない。
それでも、考えている金額を書かないままでは話せなかった。
株に回す金の下に、アッ〇ル、と書く。
その横に、三億円近く、と書いた。
その金額だけが、やけに大きく見えた。
一度消した。
残った跡の上に、二億円、と書いてみる。
未来であの会社がどこまで大きくなるかを考えると、二億円に減らしたままでは後悔する気がした。
また消し、三億円近く、と書き直した。
前に買った百万円分と比べれば、三百倍近い。
机に座ったまま数字を見ていると、自分でも大きすぎると思う。
それでも、最後には消せなかった。
* * *
夕飯は鮭の塩焼きだった。
父さんが帰ってきて、母さんが味噌汁を温め直す。姉ちゃんは先に食卓に着き、皮を箸で端に寄せていた。
「皮も残さず食べなさい」
母さんに言われ、姉ちゃんは皮を少しだけ戻した。
「食べるつもりだった」
「今、残そうとしてたでしょ」
「最後に食べようと思ってたの」
俺はノートを自分の椅子の横に置いたまま、魚を食べた。
食べ終わっても、すぐには開けなかった。
母さんが皿を重ね、父さんが湯のみに手を伸ばしたところで、椅子の横からノートを取った。
「父さん、見てほしいものがある」
父さんは湯のみを置いた。
「株か」
「うん」
花柄のノートを開き、会社について調べたページから見せた。
父さんは一週間で百万曲のところを読み、次のページに進む。
父さんは指で行を追い、三億円近くと書いたところで止まった。
「これは何だ」
「追加で買いたい金額」
「三億円をか」
「一度にじゃない。何回かに分けてもいい」
父さんはノートから顔を上げた。
「駄目だ」
返事が早かった。
「まだ理由を全部話してない」
「会社の話じゃない。金額の話だ」
「四億円全部じゃない。三億円近くなら、残る金もある」
「今いくら残ってるかも見てないだろ」
父さんの指が、空いたままの二つの欄に移った。
「そこは、一緒に確認しようと思ってた」
「残す金も決めずに、使う方だけ決めたのか」
「使うんじゃなくて、株にするんだよ」
「下がれば減る。会社がなくなれば戻らない」
前に、買った株の評価額が下がった時のことが浮かんだ。
「それでも、今は買いたい」
「三億円は駄目だ」
「音楽を一曲ずつ売り始めて、一週間で百万曲だよ。音楽プレーヤーも同じ日に出してる。パソコンを一回売るだけじゃなくて、そのあとも同じ会社の物を使う人が増えると思う」
「それは読んだ」
父さんは、ノートの一週間で百万曲と書いた行を指で押さえた。
「始まって一週間の話だ。来年も同じように売れるのか、この会社が利益を出せるのかは書いてない」
「でも、始まる前よりは分かるだろ」
「買う理由にはなる。三億円入れる理由にはならない」
理由なら、俺の中にはあった。
街でも電車でも、あの会社の携帯電話を持つ人が増えていくのを、一周目の俺は見ていた。
けれど、それを証拠にはできない。父さんに見せられるのは、始まって一週間の記事までだった。
「一度に買わなくてもいいって言った。下がった時に分けて買えばいい」
「買い方の前に、いくらまで失っていいのかを決めろ」
「失うつもりで買うわけじゃない」
「誰も失うつもりで株を買わない」
父さんの声は大きくなっていなかった。その分、俺だけが急いでいるように聞こえた。
「今持っている百万円分が半分になっても、持っていられるか」
「持っていられるよ」
「三億円が半分になっても、同じように言えるのか」
すぐに、言える、と返しかけた。
一億五千万円という数字が浮かび、喉の手前で止まった。未来を知っている俺には途中の下落でしかなくても、父さんと母さんにとっては、目の前で消えた金になる。
「売らない」
「聞いたのは、売るかどうかだけじゃない」
姉ちゃんが、ノートの数字を横から見た。
「三億って、四億のほとんどじゃん」
「一億円近くは残ると思う」
「一億残るって言っても、使う方が三億でしょ」
姉ちゃんは驚いたまま、母さんの方を見た。
母さんは食器を流しに運んでから、濡れた手を布巾で拭いた。
「こういち、この一週間、これを調べるために夜更かししてない?」
「十一時には寝てる。宿題もやったし、部活も休んでないよ」
「それならいいけど、学校と部活は今までどおりにしてよ」
父さんはノートを閉じず、俺の方に戻した。
「買う話の前に、残す金を出せ。三億円なくなっても、進学や生活に困らないのかも書け」
「書いたら考えてくれる?」
「考えるとは言ってない」
「じゃあ、書いても同じじゃん」
「今のままでは話にならないと言ってる」
言い返そうとして、ノートの空いた欄が見えた。
父さんの言う通り、そこには何もなかった。
「今日は終わりだ」
父さんが湯のみを持った。
母さんは重ねた皿を洗い始め、姉ちゃんは残していた皮を箸で小さく切った。
俺はノートを閉じた。
表紙の花柄は、小学四年の時から変わっていなかった。
部屋へ戻ってから、もう一度だけ開いた。
一つ目の欄に、病気、事故、と書く。二つ目には、大学、家、と書いた。どちらも金額を入れようとすると、三億円近くから逆算する形になった。
机の引き出しには、前に届いた証券会社の紙が何枚かある。通帳は父さんが管理していて、手元の紙だけでは、これまで動かした金を全部たどれない。
計算を始める前に、まず確かめるものを書き出した。
旅行。パソコン。三社の株。部活の靴は家から出してもらった。
四行目まで書いたところで、階段の下から風呂へ入るように呼ばれた。
「三億円近く」だけは、まだ消さなかった。




