第八十三話 片方だけの上履き
木曜日は、昼から雨になった。
五時間目の美術で窓際に座ると、開いていた隙間から細かい雨が吹き込んできた。窓を閉めて席に戻る。雨の音が遠くなり、代わりに椅子を引く音がよく聞こえた。
「今日は、自分の上履きを一足……じゃなくて、片方だけ机の上に置いてください」
先生が言い直した時には、佐伯はもう両方脱いでいた。
「片方でいいって」
「聞こえた」
足で片方を引き寄せて履き直す。もう片方を拾って、机に配られた新聞紙の上へ置いた。
俺も右足を脱いだ。
座ったまま見ると、つま先のゴムのところに黒い筋が何本もついている。底に何か挟まっていたので、取ってから置いた。
「輪郭を濃く描く前に、全体の形をよく見て。上履きの向きを変えると、つま先やかかとの見え方も変わりますよ」
先生は上履きを持ち上げ、少し傾けて見せた。
白い画用紙を縦にするか、横にするか。俺が迷っている間に、佐伯はつま先から描き始めていた。
とりあえず横にした。
全体を薄く描こうとすると、思っていたより小さくなった。これでは周りが余りすぎる。消しゴムをかけて、つま先をもう少し前へ出した。
その分、かかとも後ろへ伸ばす。
しばらくして隣を見たら、佐伯の靴は俺のよりずっと長かった。
「お前、それ何センチあるんだよ」
「まだ途中だから」
佐伯が画用紙の端を手で隠す。
俺も見られる前に、かかとの線を少し消した。
向かいの白石は、上履きを斜めに置いていた。俺たちのように横へ長くならず、つま先の丸いところが大きく描かれている。
「その向きの方が描きやすい?」
「どうだろう。こっちからしか見てないから」
言われて自分の上履きを回そうとしたら、佐伯が手を止めた。
「今動かしたら、最初からじゃない?」
指を離した。
隣の机では、七海が消しゴムのかすを手のひらに集めていた。描いては消しているのが気になって、少し身を乗り出す。
「見ないで」
「まだ見えてないって」
「じゃあ、そのまま見ないで」
画用紙を胸の方へ起こされ、俺は座り直した。
前にいた先生が、机の間へ入ってくる。
手元に目を戻した。布とゴムの境目を描くと、少しだけ上履きらしくなった気がした。内側にも線を入れる。足を入れる穴の奥は暗かったので、鉛筆を寝かせて塗った。
「藤宮君、少し離して見てごらん」
肩越しに声がした。
先生は俺の絵には触らず、上履きの履き口を指した。
「ここ、全部同じ濃さに見える?」
奥は暗いけど、手前には窓の方から光が当たっていた。
俺は消しゴムの角で、手前を少しだけ薄くした。
先生が次の机へ行ったあと、今度は佐伯が俺の紙をのぞく。
「それ、どうやった?」
「消しただけ」
「消すの?」
「ここ。ちょっとだけ」
俺が指したところを見て、佐伯も消しゴムを取った。強くこすったせいで、穴の線まで消えたらしい。
「あ、なくなった」
もう一度上履きを見て、描き直していた。
さっきまで長すぎた佐伯の靴は、つま先を短くしたら、今度はかかとが高くなった。
「底、こんな厚くないよな」
自分で言うので、俺も実物と見比べた。
「ちょっと背が高くなれそう」
「いいじゃん。これ履いて試合出れば」
笑ったところで線がずれ、俺の方まで消すことになった。
*
終わりの五分前に、先生が名前を確かめるように言った。
「今日はここまで。続きは次の時間にやります。重ねる時に、描いた面をこすらないでね」
俺は裏に名前を書き、画用紙を前へ送った。
白石がみんなの分を重ねる。七海は自分の絵を一番下に入れようとして、先生に順番のままでいいと言われていた。
「そんなに見られたくないの?」
片づけながら聞くと、七海は上履きを床へ下ろした。
「まだ変だから。終わってからならいいよ」
「俺のも変だけど」
「藤宮のは自分で見せてたじゃん」
見せたつもりはなかったけど、佐伯とは何度も見合っていた。
机の新聞紙を畳んでいると、白石に手を止められた。
「待って、それ私の消しゴム」
紙の折り目に小さな消しゴムが入り込んでいた。取り出して渡すと、白石はかすを払って筆箱へしまった。
佐伯はもう教科書を抱えて立っている。
その足元を見て、俺は吹き出した。
「何?」
片方だけ、靴下だった。
机の下を探してから、佐伯は新聞紙の上に目を戻した。上履きはまだそこにあった。
「よく忘れられるね」
白石が言うと、佐伯は靴を履きながら答えた。
「座ってる時は分かんなかったんだよ」
俺たちは片づけを終えて、廊下へ出た。
手を洗うために水道へ寄る。蛇口をひねると冷たい水が出て、鉛筆で黒くなった小指の脇をこすった。
佐伯が隣で、手の甲まで濡らしている。
「指だけでいいんじゃないの?」
「こっちにもついた」
流す前に触ったらしく、手首にも灰色の跡があった。
ハンカチで拭いていると、七海たちが先に教室へ戻っていく。白石は俺たちの足元を一度見たけど、今度は何も言わなかった。
窓の外では、校庭のところどころに水たまりができていた。
「まだ降ってるな」
「帰る時、やんでるといいけど」
俺が答えると、佐伯は水道の窓から身を離した。
「あ、俺、傘持ってきたかな」
「鞄に入ってないの?」
「朝、入れた気がするんだけど」
少し早足で教室へ戻っていった。
俺はハンカチを畳みながら後を追った。右の上履きのかかとが折れていたので、途中で壁に手をついて履き直した。




