第七十九話 先輩の列
木曜日の練習が終わったあと、顧問から紙を一枚渡された。
「これ、体育教官室に持っていってくれ。男子バスケ部の一年生の人数を書いてある」
近くにいた大野と二人で返事をする。
ほかの一年生がボールを倉庫へ運ぶ間に、俺たちは体育館の外へ出た。汗の乾いていない体育着に、廊下の風が当たる。
「体育教官室って、どこだっけ」
「武道場の手前」
「大野、行ったことあるの?」
「入部届出した時に教えてもらった」
「俺もいたんだけど」
「じゃあ覚えとけよ」
大野が先に廊下を曲がった。
武道場に近づくと、床を強く踏む音が続けて聞こえた。体育館で聞く靴の音とは違い、裸足で板を打つ乾いた音だった。
扉は半分開いていた。
防具を着けた女子が二列に並び、一人ずつ前へ出ている。掛け声のあとに竹刀がぶつかり、少し遅れて足が床を打った。
「月島、いるかな」
大野が歩く速さを落とした。
「面つけてたら分からないだろ」
「背が高いやつじゃない?」
列の後ろにいる一年生は、まだ防具を全部つけていなかった。その中に月島はいない。
前では、上級生と向かい合っていた一人が一歩出た。
竹刀が上がったと思った時には、もう相手の面に届いていた。
踏み込む音が武道場の外まで響く。
「月島、もう一回」
月島は、構えたまま元の位置に戻った。
次は、さっきより長く向かい合っていた。月島が先に踏み込むと、相手もほとんど同時に出た。竹刀の音が重なり、月島だけが少し前に流れた。
「今のは一本を急ぎすぎ。打ったあとまで崩すな」
「はい」
月島は短く返事をして、すぐに構え直した。
足の位置を確かめるように一度踏み直し、竹刀の先を相手に向けた。面の奥の表情までは分からなかったが、さっきより構えが落ち着いたように見えた。
もう一度踏み込んだ時は、打ったあとも足が止まらなかった。相手の横を抜け、距離を取ってから振り返る。
顧問は褒めず、次の相手を呼んだ。
列にいた上級生たちは、月島の番になると顔を上げた。一年生に順番を教えていた時とは、周りの空気が違っていた。
「藤宮、紙」
大野に言われ、手に持ったままだった紙を見る。
「見てたの、大野もだろ」
「早く渡せよ」
体育教官室の戸を開ける。中にいた先生に紙を渡すと、来た廊下をそのまま戻った。
武道場の前では、月島がまた上級生と向かい合っていた。
今度は止まらずに通り過ぎた。
体育館へ戻ると、ボールは全部倉庫に入っていた。残っていた一年生に遅いと言われ、大野は体育教官室が遠かったと答えた。
「そんな遠くないだろ」
「藤宮が場所忘れてたから」
「案内してくれたのは最初だけじゃん」
「でも忘れてただろ」
言い返している間に、先輩からモップを片づけるように言われた。
* * *
次の日の放課後、昇降口で靴を履き替えていると、小坂が階段から下りてきた。
今日は本を開かず、胸元に抱えている。
「藤宮君、昨日、武道場の前にいたでしょ」
「大野と紙を届けに行く途中で通った。小坂もいたの?」
「近くで栞を待ってた。藤宮君、栞のところ、ずっと見てたじゃん」
「ずっとじゃない。二回見ただけ」
「何の話?」
後ろから月島の声がした。
防具袋を肩に掛け、髪はまだ低い位置で結んでいる。
「昨日、藤宮君が栞の練習見てたって話」
「紙を届けに行っただけだって」
「ふうん」
月島は俺を一度見てから、自分の下駄箱を開けた。
「月島だけ、先輩とやってたな」
「先生に言われたから」
「栞は去年、個人で県優勝して全国にも行ってるからでしょ。先輩も相手してみたいんじゃない?」
「何で真帆が言うんだよ」
月島が靴を持ったまま振り返った。
「秘密じゃないじゃん」
「秘密じゃなくても、自分で言うから」
そう言いながら、月島は俺の方を見なかった。
「全国まで行ってたのか」
「去年だけ。全国は途中で負けた」
「途中でも全国だろ」
「今は関係ないよ。学校で誰が試合に出るかも、まだ決まってないし」
月島は上履きを下駄箱に入れた。
「先輩とやるの、普通なの?」
「今日は先生に入れって言われただけ。先輩は強いし、やるならその方がいい」
月島は防具袋の肩ひもを引き上げた。全国の話をした時より、先輩が強いと言った時の方が声に力が入っていた。
「前に言ってた、五人で出たいってやつ?」
月島は下駄箱から顔を上げ、今度はこっちを見た。
「覚えてたんだ」
「この前、話しただろ」
「そうだけど」
小坂が月島の横で靴を履いた。
「栞、やっぱり両方出たいんだ」
「出たいに決まってるだろ」
「はいはい。栞らしい」
「何だよ、それ」
月島は先に昇降口を出た。
小坂がその後ろを追い、外から早く来いと呼ばれる。
「今行く」
返事をしてから、小坂は俺に向かって小さく手を上げた。
俺も靴ひもを結び終え、二人とは反対の体育館へ向かった。
扉を開ける前に、昨日聞いた踏み込みの音を一度だけ思い出した。
体育館では、先に来ていた一年生がボールを出し始めていた。大野が一つ転がしてくる。
「昨日、月島だけ先輩とやってたよな」
「結局、見てたんじゃん」
「あれは見るだろ」
「去年、県で優勝して、全国にも行ったんだって」
「やっぱり。先生が何度も相手を替えてたもんな」
「本人は部活で試合に出られるかの方が気になるみたいだけど」
「そりゃ、昔勝ったからって、部活で試合に出られるとは限らないだろ」
大野はそう言って、もう別のボールを拾いに行った。
俺も転がってきたボールを持ち、いつもの列に並ぶ。大野は自分の番が来る前に、左手で二度だけボールをついた。




