第八話 宿題を先にやる
朝、ゲーム雑誌は机の上に置いたままだった。
ランドセルに入れようと思えば入る。
国語の教科書と算数の教科書の間に挟めば、たぶんばれない。休み時間に机の中で少しだけ開いて、遼太と悠斗に見せることもできる。
でも、先生に見つかったら終わる。
「ないな」
俺は雑誌を机の奥へ押した。
「こういちー、朝ごはん冷めるよー」
「今行くー」
返事をしてから、もう一度だけ表紙を見る。
学校に持っていったら、休み時間に開きたくなる。
机の中で少しだけ開いたら、遼太は絶対に声を出す。悠斗も横からのぞく。そこまで見えて、やめた。
俺は雑誌を机の奥へもう少し押して、ランドセルを背負った。
学校へ着くと、遼太がランドセルを置く前にこっちへ来た。
「持ってきた?」
「何をだよ。朝から近いって」
「昨日買った雑誌に決まってるだろ」
「持ってくるわけないだろ」
「えー」
「先生に取られるし、絶対お前ら声でかくなる」
「隠せばいいじゃん」
「隠してもお前、すぐ声でかくなるだろ」
「ならんし」
「なる」
遼太は少しだけ口を曲げた。
「じゃあ放課後な」
「まだ決めてない」
「じゃあ公園でいいじゃん」
「勝手に決めるなって」
「悠斗も来るし」
「悠斗に聞いてないだろ」
「来るって。たぶん」
遼太は自分の席へ戻りながら、もう決まったみたいな顔をしていた。
朝の会が始まる前、七海が横を通った。ランドセルから連絡帳を出して、机の上に置いている。
「藤宮、昨日あれ買ったんでしょ」
「あれって、ゲームの本?」
「ゲームの本。みんなで見てたやつ」
「買った。家に置いてきたけど」
「持ってきてないよね」
「持ってきてない」
「よかった。持ってきてたら絶対うるさくなるもん」
「そこまでなるか?」
「休み時間、ずっとその話になりそうじゃん」
「たしかに」
「たしかにじゃないし」
七海はそう言って、自分の席へ行った。
俺は机の中を見た。
教科書とノートだけ。
ゲーム雑誌はない。
今見れないと思ったら、余計に帰ってから読みたくなった。
「はーい、朝の会するぞ。座れー」
佐伯先生が教室へ入ってきて、出席簿を机に置いた。
ざわざわしていた声が少しずつ小さくなる。誰かがまだ筆箱を開けていて、後ろの方で鉛筆が落ちた音がした。
「今日は、国語と算数な。あと、四時間目に係を少し決める」
係。
黒板係、配り係、飼育係、図書係。
そういうものが、また始まる。
「それから、昨日言った雑巾な。出してないやつ、あとで持ってこいよ」
何人かが「あ」と言った。
俺はロッカーの上に置いた雑巾を見た。昨日の朝、出したやつだ。
勝った。
少しだけ、そう思った。
国語の授業では、音読をした。
教科書を開いて、順番に読む。俺の番は三行だけだった。昨日よりは少し声が出たけれど、読み終わったあと、七海が小さくこっちを見た。
「今日ふつう」
「ふつうでいいだろ」
「うん」
ふつう。
それが今は少しありがたい。
算数では、わり算の復習をした。
問題を見れば分かる。答えも出せる。
ただ、筆算を書く手が遅い。
六を立てて、かけて、引いて、下ろす。
頭では急げるのに、鉛筆は少しずつしか進まない。線が曲がったり、数字が小さくなったりする。
「藤宮、分かってるなら、もう少し大きく書け」
佐伯先生が通りがかりに言った。
「はい」
「小さいと自分で見にくいぞ」
「……はい」
俺は次の数字を、さっきより大きく書いた。
休み時間になると、遼太がすぐ来た。
「雑誌、今日な。放課後」
「放課後な。宿題あったら先やる」
「だから公園で待ってる」
「えー」
「えーじゃない」
「宿題なんか夜でいいじゃん」
「夜だと忘れるんだよ。昨日も危なかったし」
「忘れたら朝やればいいじゃん」
「朝もばたばたして忘れる」
「じゃあ学校でやればいいじゃん」
「だめだろ」
「だめか」
遼太は少し考えてから、すぐにやめた。
「じゃあ早くやれよ」
「お前もな」
「俺はあとで」
「忘れるぞー」
「忘れないし」
忘れるだろうな、と思ったけれど、言わなかった。
昼休み、悠斗にも同じことを言われた。
「今日、雑誌読むんやろ?」
「宿題終わったら」
「先にやるん?」
「うん」
「まじめやな」
「昨日買ったばっかりで怒られたくない」
「あー、それは嫌やな」
悠斗はそこで少し納得した顔をした。
「先生に取られたら、返してくれるんかな」
「分からん」
「卒業まで返ってこんかも」
「長すぎるだろ」
「先生の家で読まれる」
「読まないだろ」
「分からんやん。先生もゲームするかもしれん」
想像したら、少し笑ってしまった。
佐伯先生が家でゲーム雑誌を開いて、攻略ページに線を引いているところ。
ない。
たぶん、ない。
帰りの会で、先生が黒板に宿題を書いた。
漢字ドリル二ページ。
算数プリント一枚。
連絡帳に写しながら、教室のあちこちから小さい声が出る。
「二ページも?」
「プリントもあるん?」
「今日遊べんやん」
「遊べるだろ。先にやればいい」
先生がチョークを置きながら言った。
「先にやるやつが、あとで楽するんだぞ」
連絡帳を閉じる前に、宿題のところをもう一度見た。
漢字ドリル二ページ。
算数プリント一枚。
家に帰ったら、机の上には雑誌がある。
先にやらないと、たぶん負ける。
放課後、靴箱で靴を履いていると、遼太が前に立った。
「三時半な」
「早い。宿題あるかもしれないだろ」
「じゃあ四時くらい?」
「宿題終わったら行く」
「何回言うんだよー」
「お前こそ何回言うんだよ」
悠斗が横から笑った。
「俺、三時半くらいに公園いるわ」
「早いって」
「先に行くだけ」
「俺はまだ行けるか分からないって」
「来たらおる」
「いなかったら?」
「駄菓子屋行ってるかも」
「自由だな」
三人で校門を出る。
歩くたびに、ランドセルが背中で少し跳ねた。朝より重い気がする。
途中の角で遼太が先に曲がった。
「雑誌忘れんなよー」
「まず宿題な」
「分かってるってー。たぶん!」
絶対分かってない。
家に帰ると、母さんが台所で米を研いでいた。
「おかえり。手、洗ってね」
「うん」
「今日は遊びに行くの?」
「宿題やってから行く」
母さんの手が、米の入ったボウルの中で少し止まった。
「……宿題?」
「うん。先にやる」
「熱でもある?」
「ないって」
「ほんとに大丈夫?」
「なんで疑うんだよ」
「だって、こういちが帰ってすぐ宿題って言うから」
「俺だって言う時あるだろ」
「そうだったかなあ」
母さんは笑って、水を替えた。
「じゃあ、先に手洗って、おやつはあとで食べなさい」
「今食べたらだめ?」
「宿題先にするんでしょ」
「……そうだった」
「ほら」
自分で言ったのに、さっそくおやつに負けそうになっている。
洗面所で手を洗って、部屋に戻った。
机の上にはゲーム雑誌。
花のノート。
連絡帳。
俺はゲーム雑誌を手に取った。
表紙だけ見る。
表紙だけ。
一ページめくる。
二ページ目で、やばいと思って閉じた。
「誘惑が強すぎる」
雑誌を棚の上に置いた。座ったままだと届かない場所だ。
ランドセルから漢字ドリルを出す。
鉛筆を持つ。
日付を書いて、一文字目を書く。
思っていたより、まっすぐ書けない。
止め、はね、はらい。
そんな言葉は覚えているのに、手は勝手に急ごうとする。早く終わらせて公園へ行きたい。雑誌を持っていきたい。遼太が勝手にページを折らないかも気になる。
俺は消しゴムで一文字消した。
消しかすが机に残る。
手で払おうとして、やめた。
母さんに怒られるやつだ。
ティッシュで集めて、ゴミ箱に入れる。
漢字ドリル二ページは、思ったより長かった。
同じ字を何度も書く。
書いているうちに、字の形がだんだん雑になる。
最後の一行で、もう一度だけ鉛筆を持ち直した。
「こういち、おやつ置いとくよー」
「はーい」
台所から母さんの声がして、返事をした瞬間、鉛筆の線が少し曲がった。
「あ」
消すほどではない。
少し曲がった字を、そのまま残した。
算数プリントは、問題は分かるのに、途中の式を書くのが面倒だった。
答えだけ書きたくなる。
でも、先生に怒られる。
俺は小さくため息をついて、式も書いた。
全部終わった時、時計は三時二十五分だった。
まだ行ける。
俺はプリントを連絡帳に挟んで、漢字ドリルをランドセルに戻した。
机の上に置いた消しかすをもう一度見て、残っていた小さいのを指で集める。
そこへ、姉ちゃんが部屋の入口から顔を出した。
「なにしてんの」
「宿題。まだ終わってない」
「え、こわ」
「こわくない」
「こういちが帰ってすぐ宿題してる」
「母さんにも言われた」
「明日、雪降るんちゃう」
「四月だぞ」
「降ったらこういちのせいやな」
「なんでだよ」
姉ちゃんは棚の上の雑誌を見つけた。
「あれ、読まんの?」
「あとで読む」
「我慢してる」
「してる。めちゃくちゃしてる」
「正直やな」
「めちゃくちゃ読みたい」
「じゃあ読めば?」
「読んだら終わらない」
「ちょっと賢くなってる」
「ちょっとって言うな」
姉ちゃんは笑って、廊下へ戻っていった。
「母さーん、こういち宿題終わったってー」
「勝手に言うなよ」
部屋から出ると、母さんがおやつの皿をテーブルに置いていた。せんべいが二枚と、麦茶。
「終わったの?」
「終わった。たぶん全部」
「見せて」
「え、見るの?」
「一応見るよ」
「えー」
ランドセルからドリルとプリントを出して、テーブルに置く。
母さんはプリントを細かく見るわけではなかった。ただ、空白がないかだけ見て、うなずいた。
「はい。じゃあ行っていいよ」
「五時まで?」
「五時まで。あと、雑誌持っていくなら袋に入れなさい。歩きながら読まない」
「読まないって」
「読みそうだから」
「しないし」
「しないなら大丈夫」
母さんはそう言って、俺の前に麦茶を置いた。
せんべいを一枚だけ食べて、麦茶を飲む。
急いで食べたら、口の中の水分がなくなった。
「そんな急がなくても」
「遅れるかもしれない」
「約束してるの?」
「たぶん。公園にいたら一緒に読む」
「たぶんって」
「めっちゃ適当やな」
姉ちゃんが廊下から言った。
「姉ちゃんもそんな感じだろ」
「うちはちゃんと約束するし」
「絶対うそだ」
「うそちゃうし」
変なことを言って、姉ちゃんは自分で笑っていた。
俺は雑誌を袋に入れて、玄関へ向かった。
「車に気をつけてね」
「うん」
「五時までには帰ってきなさいよ」
「分かってる」
「雑誌、置き忘れないようにね」
「忘れないって」
外に出ると、まだ少し明るかった。
公園へ向かって走り出して、すぐに息が乱れた。ランドセルがないぶん楽なはずなのに、袋に入った雑誌が手にぶら下がっていて、腕に当たる。
公園のベンチには、悠斗がいた。
「藤宮来た」
「宿題終わらせてきた」
「ほんまに?」
「ほんまに。先にやった」
「えら。俺ならあとでやる」
「えらいやろ」
「でもちょっと遅い」
「三時半には間に合ってる」
「ぎりぎりやん」
遼太はまだ来ていなかった。
悠斗がベンチの横を少し空ける。
「先読む?」
「遼太待つ?」
「待っといた方がいいかな」
「勝手に読んだら怒るだろ」
「たしかに」
「じゃあ読むか」
「読むんかい」
二人で袋から雑誌を出した。
ページを開いたところで、遼太が走ってきた。
「ずるい!」
「今開いたとこ」
「俺のいないとこで読むなよ」
「お前のじゃないだろ」
「みんなのだろ」
「俺のだよ」
「じゃあ俺も半分払ったことにして」
「してないだろ」
「気持ちだけ」
「気持ちじゃ買えないんだよ」
悠斗が横で笑った。
「遼太、宿題やったん?」
「あとでやる。帰ってから」
「それ絶対忘れるだろ」
「忘れないって。たぶん」
「連絡帳見た?」
「……見てない」
「ほら」
「帰ったら見る」
遼太はベンチに座って、俺の手元をのぞき込んだ。
「次のページ行こうぜ」
「まだ読んでる。ちょっと待て」
「字ばっかじゃん」
「昨日も言ってた」
「字はあとでいい」
「よくない。ここも見たい」
結局、三人でまたページをのぞき込んだ。
ゲームボーイカラーの記事。
新しいソフトの発売日。
読者投稿の絵。
小さい広告に、パソコンとインターネットの文字があった。
昨日も見たはずなのに、今日はそこで指が止まった。
父さんの部屋のパソコン。
家の奥にあって、俺はまだ横から画面を見ているだけのもの。
アマ〇ン。
グー〇ル。
そういう名前が頭に浮かんで、俺は広告の小さい字をもう一度見た。
「藤宮、それ何?」
遼太が広告を指さした。
「パソコンの広告」
「ゲーム?」
「たぶん違う。ゲームじゃないと思う」
「じゃあいいや」
「早いな」
「ゲームじゃないならいい」
遼太はもう次のページを見ていた。
悠斗も、攻略記事の絵だけを追っている。
俺は広告の小さい文字を、もう一度だけ見た。
帰ったら、父さんに聞いてみようか。
アマ〇ンとかグー〇ルとか言ったら、絶対に聞き返される。
でも、「パソコン触ってみたい」くらいなら言える。
「藤宮、次」
「待って。まだここ読んでる」
「また字読んでる」
「読めよ」
「読むから、勝手にめくるなって」
「読んでないだろ」
「読んだ。今読んだ」
「早すぎる」
三人で言い合っているうちに、風がページをめくった。
俺はあわてて押さえる。
この前買った雑誌は、今日も少しだけ端が曲がった。
家に置いて一人で読むより、ずっと騒がしかった。
五時前に帰ると、玄関の奥から、かたかたと音がした。
台所ではない。
テレビでもない。
父さんの部屋の方だった。
靴を脱いで、袋を持ち直す。
ドアの隙間から、パソコンの画面の光が少しだけ見えた。
俺はその前を、ゆっくり通った。




