第七十二話 地図帳の寄り道
水曜日、社会の先生が教卓に地図帳を置いた。
「今日はこれを使います。机の上を少し空けて」
佐伯が前の机をこちらへ押したので、俺の筆箱が端へずれた。
「こっちじゃなくて、自分の机を空けろよ」
「藤宮の机、前に出すぎなんだって」
床の線を見ると、俺の机の方が少し前へ出ていた。足を掛けて引き戻す。
白石は二人を見てから、黙って自分の机も直した。
地図帳を開くと、机の半分以上が埋まった。ノートを横に置けず、下へ少し重ねる。先生が言った地名を探している間に、佐伯はもう次のページをめくっていた。
「どこ?」
「今のところにあっただろ」
「見つからないからめくったんだよ」
俺は戻したページの海沿いを指した。
先生は黒板に書いた地名の横へ、周りにある山や川も確かめるようにと付け足した。紙に小さく刷られた名前をたどっていると、知らない町がいくつも目に入った。
旅行で通ったことがある県でも、道を一本外れたら、もうどんなところか分からない。
「藤宮、そこ、ノートに何て書いた?」
隣から白石に聞かれ、地図帳を持ち上げた。重ねていたところに書いた字だけ、右へ傾いている。
「川の名前」
「それは分かる。真ん中の字」
自分で書いた字なのに、少し見直した。
「これ」
地図帳の方を見せると、白石はそちらを見てノートに写した。
俺も字を消して書き直した。紙の端が地図帳の下に入っていたせいで、消しゴムを動かすと一緒に引っ張られる。結局、地図帳を机から少しはみ出させて置くことになった。
先生が教室を回り始めたので、佐伯が積んでいた教科書を一冊ずつ机の中へしまった。
「最初からそうすればよかったんじゃない?」
白石が小さく言う。
「今思った」
佐伯は地図帳を手前へ引き、肘まで机に載せた。
授業の最後に、先生がいくつか地名を挙げた。次は指名されるかと思って探していたが、そのままチャイムが鳴った。
「続きは次の時間に。地図帳、忘れないように」
先生が出ていっても、佐伯はページをめくり続けていた。
「これ、東京なの?」
机の間から、伊豆諸島の辺りを指しているのが見えた。
「そう書いてあるけど」
「すごい離れてるじゃん」
俺も自分の地図帳を同じページにした。
佐伯はもっと下の方まで指を動かしたあと、地図の枠の外へ出てしまった。
「こっちは、どこにつながるんだよ」
「違う縮尺だから、線でつなげちゃだめなんじゃない?」
白石が地図の下にある数字を指す。佐伯は別枠で載っている島と本州を見比べた。
「じゃあ、思ってるより遠いのか」
「どこ行くつもり?」
反対の列から来た七海が、佐伯の机をのぞいた。
「別に行かないけど。ここ、東京都だって」
「知ってるよ」
「じゃあ、ここまで行ったことある?」
「ない。知ってるのと行くのは違うじゃん」
近くに来た七海へ、佐伯が地図帳を少し押した。
「でも海、きれいそう」
七海は載っている小さな写真を見て言った。
白石が身を乗り出す。俺のところからは二人の頭で見えなかったので、自分のページを開き直した。
「泳ぎたいな」
「今行ったら寒いだろ」
「夏の話。今から行くわけないでしょ」
七海は俺を見てから、もう一度写真に目を戻した。
「船で行くのかな」
「すぐ着くならいいけど、ずっと乗ってるのは嫌だな」
佐伯は島の隣に書かれた細かい字まで読み始めた。
俺は地図をたどるのをやめて、写真の砂浜を見ていた。
「白石なら、ずっと絵描いてそう」
「描かないよ。海なら入る」
「美術部なのに?」
「美術部だと泳いじゃだめなの?」
佐伯が、そういう意味じゃないと笑った。
白石はシャーペンを片づけると、七海にどの写真を見ていたのか聞いた。二人が別のページまでめくり始め、佐伯は地図帳の角だけ押さえていた。
「ちょっと待って。そこの名前、まだ見てる」
「ごめん」
七海が一枚戻した。
話している間に、廊下が騒がしくなった。三組の男子が何人か教室の前を通り、遼太が扉から顔を出した。
「何見てるの?」
「島」
「何で?」
「佐伯が見つけたから」
遼太は近くまで来たが、地図帳をちらりと見ただけで俺の肩へ手を置いた。
「消しゴム貸して」
「三組で借りればいいだろ」
「いいだろ、ちょっとくらい」
俺の筆箱から勝手に取ろうとしたので、先に蓋を閉めた。
「使い終わったら返せよ」
「分かってる。藤宮も使う?」
「使うから持ってきてるんだよ」
渡すと、遼太は消しゴムを握って戻っていった。三組へ戻る途中でも、廊下の誰かと話し始める。
次の先生が来るのを見て、七海は自分の席へ戻った。
佐伯がようやく地図帳を閉じる。
「ノート、どこまで書いた?」
「そこからかよ」
「さっきの最後のやつだけ」
俺はノートを立てて見せた。佐伯が写す間、今度は白石から消しゴムを借りた。
*
昼休みに遼太が返しに来た消しゴムには、黒い線が一本ついていた。
「何これ」
「シャーペンの先、当たった」
紙でこすると薄くなったので、そのまま筆箱に戻した。
遼太は用事が済んでも帰らず、俺の椅子に半分だけ座ろうとした。
「狭いって」
「ちょっと詰めろよ」
押し返すと、遼太は机の前にしゃがんだ。そのまま昨日見たテレビの話を始める。途中から佐伯も振り向いたが、俺が聞いていない場面のことで二人だけ笑い始めた。
「それ、何でそうなるの?」
「だから、先に別のやつが来てたんだって」
遼太は初めから説明し直した。身振りが大きくなり、肘が机に当たる。
笑った拍子に膝が痛んだらしく、一度立ってから、今度は俺の机の横へ回った。
昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴るまで、結局、話は最後まで聞けなかった。
「続きは?」
「あとで。先生来る」
遼太は走って廊下へ出た。俺は椅子を前へ寄せ、机に開いていたノートを閉じた。




