第七十一話 九時から十二時
金曜日、部活から帰ると、母さんが電話の前に立っていた。
「はい。火曜日の九時ですね。分かりました」
受話器を耳に当てたまま、壁のカレンダーへ手を伸ばす。近くにペンがなく、母さんは指先で火曜日の場所だけ押さえた。
「よろしくお願いします。失礼します」
電話を切ると、居間にいた姉ちゃんが先に聞いた。
「スーパー?」
「再来週の火曜日から来てくださいって」
「受かったんだ」
「採用してもらったの。最初はレジの横について、仕事を覚えるところからだって」
母さんはペンを取りに行き、カレンダーの火曜日に九時と書いた。
二日前の面接には、白いブラウスと紺色の上着を着ていった。朝は、姉ちゃんとどの鞄を持っていくか話していた。面接は十時からだったから、俺たちの方が先に家を出た。
帰った時には上着が食卓の椅子に掛けられ、その下にスーパーの袋が二つ置いてあった。
面接は三十分ほどで終わり、帰りにいつもの買い物もしてきたらしい。
「お父さんに電話する?」
姉ちゃんが聞くと、母さんはカレンダーから顔を上げた。
「帰ってきてから話す。仕事中にかけることじゃないでしょ」
「でも、採用されたんだよ」
「夜に話しても遅くないよ」
母さんは俺の体育着の袋を見た。
「こういち、先に汗かいた服を出して。明日まで入れたままにしないでよ」
「今出す」
鞄を持って階段へ向かう。
後ろでは、姉ちゃんが火曜日は何を着ていくのか聞いていた。
「向こうでエプロンを借りるから、白いシャツと黒いズボンでいいの」
「面接の時の上着は?」
「仕事するのに着ないよ」
* * *
火曜日の朝、母さんはいつもの部屋着ではなく、襟のついた白いシャツを着ていた。
下は黒いズボンで、食卓の横には小さな鞄と折り畳んだハンカチが置いてある。
「もう行くの?」
パンを食べていた姉ちゃんが聞いた。
「八時四十分に出れば間に合うから、二人が学校に行ってから出るよ」
「初日から遅れたらだめだから、もっと早く出た方がいいんじゃない?」
「歩いて五分もかからないのに、何分前に着くつもり?」
「十分前」
「それなら八時四十分で早いくらいでしょ」
姉ちゃんは時計を見て、自分のパンを急いで口に入れた。
「姉ちゃんの方が遅れるんじゃない?」
「まだ大丈夫」
母さんも時計を見た。食卓の横に置いた鞄を開き、折り畳んだハンカチと小さなメモ帳が入っているのを確かめて、鞄を閉じた。
「お母さんも早く行きたいんじゃん」
「持ち物を見ただけでしょ」
「それ、さっきも見てたよ」
「初日なんだから、忘れ物したくないの」
姉ちゃんは自分の鞄を開け、筆箱が入っていることだけ確かめた。
「真鈴は時間割も見なさい」
「昨日入れたから大丈夫」
「じゃあ早く食べる」
俺が味噌汁を飲み終えると、母さんは空いた椀をすぐに重ねた。
「帰ってきたら、仕事どうだったか教えてね」
「はいはい。真鈴も学校でやることあるでしょ」
「聞くだけじゃん」
母さんは椀を流しに置き、俺の方を振り返った。
「こういち、今日も部活?」
「ある。帰るのは五時半くらい」
「分かった。雨が降りそうだったら、早めに帰りなさい」
「体育館だから、練習中は分からないって」
玄関で靴を履く。
いつもなら母さんは台所から声をかけるだけだったが、その日は鞄を置いたまま玄関まで来た。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
姉ちゃんも俺の後ろから慌てて出てきた。
放課後、部活を終えて帰ると、庭の物干しに洗濯物が残っていた。
玄関には母さんの靴がある。
「ただいま」
「おかえり。悪いけど、着替えたら洗濯物取り込んでくれる?」
台所から声が返ってきた。
制服を脱いで庭へ出る。タオルの端は乾いていたけど、厚いところにはまだ少し水気が残っていた。
全部外して籠に入れ、居間まで運ぶ。
食卓の上には、キャベツと透明な容器に入ったコロッケが並んでいた。
「今日、コロッケ?」
「惣菜売り場の人が、今日から新しい味が出たって。帰りに見たら並んでたから、みんなも食べるかなと思って」
母さんはキャベツの外側の葉を一枚ずつ外した。
「洗濯物、まだ少し湿ってた」
「十二時過ぎに終わって、着替えて、買い物してから帰ったからね。今日は干すのが遅くなっちゃった」
母さんは話しながら、洗濯物の籠から台所で使う布巾だけを取った。
「残りはあとで畳むから、そこに置いといて」
夕飯には、買ってきたコロッケと千切りのキャベツが出た。
「で、仕事どうだったの?」
姉ちゃんが、箸を持ったまま母さんに聞いた。
「最初は売り場と裏を教えてもらって、レジは横で見てた。最後に少しだけ打たせてもらったよ」
「間違えなかった?」
「隣で見てもらってたからね。でも、袋の大きさが何種類もあって、どれを出せばいいのか分からなかったわ」
母さんはコロッケを箸で半分に切った。
「それより、洗濯のりが何番の通路にあるか聞かれた時の方が困ったよ」
「毎週行ってる店なのに?」
姉ちゃんが言った。
「いつも買う物なら場所は知ってるよ。近くの人に聞いた」
母さんは自分でも少し笑った。
「次はいつだ」
父さんが聞いた。
「木曜日。今週は二日で、来週から週に三日」
「家のことは、無理に今までどおりやらなくていいからな」
「分かってる。今日は洗濯が遅くなっただけ」
食べ終わったあと、母さんは冷蔵庫の横にある買い物メモに、牛乳と豆腐を書いた。
居間へ戻ると、取り込んだ洗濯物の籠がまだ食卓の横にあった。
母さんは籠の前に腰を下ろし、タオルを一枚広げる。俺も上からもう一枚取り、端を合わせた。
「いいよ。宿題あるんでしょ」
「まだ時間あるから」
姉ちゃんも籠をのぞき、白い靴下を二つ拾った。
「これ、どっちもこういちの?」
「片方、父さんのだろ」
「同じくらいじゃん」
「まだ違うって」
父さんが新聞から顔を上げ、姉ちゃんの手にある方を指した。
「線が入ってる方が俺のだ」
「じゃあ、こっちがこういち」
姉ちゃんは俺の靴下を、畳んだタオルの上に重ねた。
「そこ、靴下置くところじゃないよ」
母さんに言われ、今度は籠の横に置き直す。
洗濯物はまだ半分以上残っていた。母さんは次のシャツを広げながら、木曜日は洗濯機を回してから出ると言った。




