第七十話 二組の月島
金曜日の放課後、体育館の扉はまだ閉まっていた。
先に来ていた一年生は、壁際に鞄を並べて待っている。大野は廊下の窓から中をのぞくと、すぐに離れた。
「女子がまだ使ってる」
「何分まで?」
「知らない。先輩来たら開けてもらえるだろ」
体育館の中から、笛の音と走る足音が聞こえた。
制服のまま待っていると暑くなり、俺は鞄から水筒を出した。中には、朝に入れてもらった麦茶が底に少し残っているだけで、もう冷たくはなかった。
「水、足してくる」
大野も空になった水筒を持って立ち上がった。
もう一人の一年生と三人で、武道場の近くにある水道へ向かう。
廊下には、部活に行く生徒が何人もいた。楽器を持った女子の後ろを、剣道着に着替えた上級生が竹刀を抱えて歩いている。
水筒に水を入れていると、武道場の方から女子が三人来た。
一人は長い黒髪を低い位置で結び、肩から防具袋を下げていた。
「藤宮」
呼ばれて顔を上げる。
月島だった。
蛇口を止め、水筒を流しの縁に置いた。月島と一緒にいた二人も足を止め、俺と大野たちを順に見た。
「結局、バスケ部に入ったんだ」
「うん。月島も剣道部に入ったんだな」
「月曜に入部届を出した。剣道部にするって前に話したよ」
「決めてるとは聞いたけど、もう入ったかは知らなかった」
月島は俺の横にいた大野たちを見た。一緒にいた二人の方に少し身体を向けた。
「一年一組の藤宮。部活見学の時に会った」
二人は俺たちを見て、小さく頭を下げた。
大野も俺の横で軽く頭を下げ、もう一人の一年生もそれに続いた。
「バスケ部、どう?」
「まだ全然できない。シュートも外すし、左手だとドリブルが続かない」
「始めたばかりなら、普通じゃない?」
「月島は小さい頃からやってるんだろ」
「うん。でも、学校の部活でやるのは初めて」
月島が防具袋の紐を肩に掛け直した。袋の底が床につく前に、片手で持ち上げた。
「今までやってたのと違う?」
月島はすぐにうなずいた。
「昨日、防具を置く場所を間違えた」
一緒にいた女子が、月島の防具袋を軽く指で押した。
「栞、説明の途中で倒れた竹刀を拾いに行ってたから、聞いてなかったんだよ」
「あのままにしてたら、誰かが踏んだかもしれないでしょ」
「拾ったあとに聞けばよかったのに」
「先輩、もう次の話してたから」
もう一人の女子が、月島の防具袋を見た。
「そのあと、栞は私の防具まで置き直したよね」
「隣で斜めになってたから。倒れたら邪魔になるだろ」
「私が直そうとしてたのに、先に取ったじゃん」
「遅かったんだよ」
月島は言い切ってから、防具袋の底を手で押さえ直した。
少しだけ眉を寄せた。
「置く場所はもう覚えた」
「昨日間違えたばかりだからな」
「藤宮だって、左手はまだできないんだろ」
「それと一緒にするなよ」
防具袋を押した女子が先に笑い、もう一人もつられて笑った。月島は二人を順に見た。
「何で二人まで笑うんだよ」
「栞、昨日は置く場所を何回も確認してたじゃん」
「二回だけだろ」
「そこは覚えてるんだ」
前に廊下で話した時より、月島の声は少し大きかった。二人は、月島が何か言い返すのを待っているようにまだ笑っていた。
月島が言い返そうとしたところで、もう一人の女子が武道場の方を見た。
「栞、先輩が戻ってきたよ」
「今行く」
「じゃあ、また」
「また」
三人は武道場へ戻っていった。
扉の前で上級生と合流し、そのまま中へ入る。閉まる前に、板張りの床と、壁際に並んだ防具が少しだけ見えた。
扉の向こうから上級生の声が聞こえ、少し遅れて何人かの返事が重なった。
「二組の月島と知り合いなんだ」
大野が水筒に水を入れながら言った。
「部活見学の時に話しただけ」
「月島の方から名前を呼んだから、もっと前から知ってるのかと思った」
「前に名乗ったから、覚えてただけだろ」
「俺、同じ組でもまだ名前覚えてないやついるけど」
「そっちを先に覚えろよ」
大野は水筒がいっぱいになっても、少し考えていた。
「でも、ほかの組に知ってるやつがいるのはいいな」
「大野も部活にいるだろ」
「名前を知ってるのは先輩と一年だけ。女子はまだほとんど知らない」
「俺も同じだよ」
「月島は知ってるじゃん」
「一人だけだろ」
水筒の口からあふれた水が、流しの中に細く流れ落ちていた。
「大野、あふれてるぞ」
「藤宮が話してたんだろ」
「聞いたのは大野じゃん」
大野は水道を止めた。
もう一人の一年生は先に戻り、廊下の向こうで体育館の扉が開いたと声を上げた。
「行こう。着替える時間なくなる」
水筒の蓋を閉め、大野と二人で体育館へ戻った。
更衣室へ入った時には、先に戻った一年生はもう体育着に着替えていた。
「遅いぞ。もう始まるからな」
先輩に言われ、大野は水道が混んでいたと答えた。
水道は混んでいなかったが、俺も何も言わず、鞄を床に置いて急いで制服のボタンを外した。
体育着を頭からかぶったところで、片方の腕が途中で止まった。袖が内側へ折れ込んでいる。
「藤宮、早くしろって」
「分かってる。大野は先に行けよ」
「二人で遅れたのに、一人だけ先に行けないだろ」
大野が折れた袖口を外から引いた。腕が通ったところで、先輩が更衣室の戸をもう一度開ける。
「あと一分だぞ」
「はい」
二人で同時に返事をして、脱いだ制服を鞄に押し込んだ。




