第六十八話 放課後に直すもの
朝の会が始まる前、白石は机の上にスケッチブックを広げていた。
鉛筆で描かれているのは、古い校舎の階段だった。窓と手すりは分かったけど、段の幅が上へ行くほど広くなっている。
「これ、どこの階段?」
前を向いていた佐伯が、椅子ごと振り返った。
「図書室に行くところ」
「こんなに急だった?」
「急に見えるから直そうとしてるの」
白石は消しゴムをかけた。階段の端が薄くなり、代わりに紙の表面が少し毛羽立つ。
「もう消さない方がよくない?」
「でも、ここ変でしょ」
「変って言われたら変だけど」
「じゃあ直す」
俺が横から見ると、白石が鉛筆の先で一番下の段を示した。
「藤宮、こっちとこっち、同じ幅に見える?」
「上の方が広い」
「やっぱり」
「でも、階段だって分かるよ」
「分かるだけじゃだめなんだって。昨日、先輩にも同じこと言われた」
白石はスケッチブックを閉じた。
表紙には、名前のほかに小さな青い丸が描いてあった。
「それ、宿題?」
佐伯が聞いた。
「美術部で描いてるやつ。校内で好きな場所を一つ選ぶの」
「階段が好きなの?」
「窓から木が見えるところがよかったの。階段は描いてから難しいって気づいた」
「木だけにすればよかったじゃん」
「それだと学校の中じゃないでしょ」
佐伯が何か言い返す前に、担任の先生が入ってきた。
白石はスケッチブックを机の横に立て、佐伯も前を向いた。
二時間目と三時間目の間の休み時間、佐伯は左の手のひらに載せた消しゴムを軽く放り上げ、落ちてきたところを右手の定規で打った。
消しゴムは俺の教科書の上に飛んできた。
「何してるんだよ」
「サーブ」
「消しゴムでやるなよ」
教科書から取って返すと、佐伯は消しゴムの角についた鉛筆の粉を指で払った。
「昨日、サーブが全然入らなかったんだよ。球を上げたら、ラケットに当たらない」
「見学の時も空振りしてたじゃん」
「今は普通に打てる。サーブだけ」
白石がスケッチブックから顔を上げた。
「消しゴムでできても、卓球の球ではできないんじゃない?」
「上に投げる練習にはなるだろ」
「定規はラケットより長いよ」
「じゃあ、どうしたらいいんだよ」
「放課後に球でやればいいじゃん」
佐伯は消しゴムを筆箱に戻した。
「今日は入るまでやる」
「一回も入らなかったの?」
「二回は入った。けど、二年の先輩に返されて終わった」
「入ってるじゃん」
「返ってきたのを打てなかったら、試合にならないだろ」
佐伯は定規も片づけた。筆箱の蓋を閉めた拍子に、消しゴムが机の下に落ちた。
白石が笑いながら椅子を引く。
「まず、それ拾ったら?」
「分かってる」
佐伯は机の下へ手を伸ばした。
昼休み、白石はまた階段の絵を開いていた。
今度は消さずに、薄い線を何本か引いている。線は窓の近くに集まり、そこから手すりや段の端が伸びていた。
「さっきより階段に見える」
俺が言うと、白石は鉛筆を止めた。
「どこが?」
「上が狭くなったから」
「まだ直してないよ。線が集まる場所を探してるだけ」
「そこが決まったなら、このまま描けばいいだろ」
「紙が汚くなったから、放課後に新しい紙に描き直す」
閉じたスケッチブックの間から、消しゴムのかすが机の上に落ちた。
白石は落ちたかすを手で集め、ノートの切れ端に包んだ。
「同じの、もう一回描くの?」
「うん。昨日、一緒に見に行った子は窓を描いてるから、今日は場所を交代する」
「窓だけなら早そう」
「佐伯は何でも簡単そうに言うよね」
「階段よりは簡単だろ」
「じゃあ今度、描いてみたら?」
「美術部じゃないからいい」
佐伯はすぐに断り、机の上で右手を軽く振った。
「俺はサーブ入れるし」
「二回は入ったんでしょ」
「返すところまで」
今度は消しゴムを出さなかった。
その日の放課後、体育館は別の行事の準備で使えず、バスケ部は休みだった。
俺が鞄を持つ横で、白石は新しい画用紙を画板に留め、その上にスケッチブックを重ねていた。
佐伯はラケットの入った袋を肩に掛ける。
「藤宮、今日帰るの早いんだ」
「部活ないから」
「じゃあ、卓球部見に来る?」
「入ったあとに見学してどうするんだよ」
「俺がサーブ入るところ見せてやる」
「先に先輩の球を返してから言えよ」
白石が画板を持って立ち上がった。
「佐伯、行かないと台取られるよ」
「それは困る」
佐伯が先に教室を出ていく。白石も廊下へ出たところで、画板の端を扉に当てた。
「今のは大丈夫?」
「新しい紙には、まだ何も描いてないから」
白石は持ち直し、佐伯とは反対の階段へ向かった。
「藤宮、もう帰る?」
「そのつもりだけど」
「じゃあ、階段まで一緒に来て。昨日の絵と見比べたい」
「俺が見ても分からないって」
「朝は上が広いって分かったでしょ。それでいいから」
断るほどの用事もなく、鞄を持ってあとを追った。
図書室へ続く階段には、窓から入った光が手すりの影を落としていた。白石は踊り場の手前で立ち止まり、画板を壁に立てかける。
「昨日は、ここに座って描いたの?」
「もう一段下。今日は窓を描いてた子と場所を替えるから、少し横にずれる」
白石はスケッチブックを開き、実際の階段と交互に見た。
「やっぱり、一番下からずれてる」
「上だけ直すんじゃなかったの?」
「下がずれてたら、上まで全部ずれるでしょ」
「じゃあ、最初からじゃん」
「だから新しい紙を持ってきたんだよ」
白石は床に座り、鉛筆で短い線を一本引いた。一度画板から顔を離し、線と階段を見比べる。
「今度は?」
「まだ一本しか描いてないだろ」
「一番下は合ってる?」
隣にしゃがんで見た。紙の線は、階段の端と同じ向きに少しだけ上がっている。
「たぶん」
「たぶんでいい。続きは自分で見るから」
白石はもう一度、階段へ顔を向けた。
「じゃあ、明日また見て」
「佐伯にも聞けばいいだろ」
「佐伯は窓なら簡単って言うから、今日は聞かない」
廊下の向こうから、卓球部らしい何人かの足音が走っていった。
俺は白石の画板をまたがないようにして、階段を下りた。




