第六十二話 そこで笑うなよ
金曜日の二時間目は国語だった。
先生が教科書を開くように言うと、前の席で佐伯が机の中を探り始めた。数学、英語と重ねて、三冊目でようやく手を止める。
「あった」
「時間割見て持ってきたのかよ」
「全部入れてきたから、あるとは思ってた」
佐伯の机の横では、鞄の口が閉まりきらずに開いていた。
俺も教科書を出し、先生が言ったページを開く。まだあまり折り目がついていなくて、手を離すと表紙の方へ戻ろうとした。
「今日は、窓側の列から順番に読んでもらいます。一人一段落。読めない字があったら、そこで聞いてください」
椅子を引く音がした。
窓際の男子が立って読み始める。声が小さかったのか、先生は教室の後ろまで歩いていった。
「ここまで聞こえるくらいで」
男子は最初から読み直した。今度は少し大きかったけど、後半になるとまた声が小さくなる。先生は口を挟まず、教科書に目を落としていた。
俺は読まれている行を指で追った。
窓側の列が終われば、次は俺たちの列だ。佐伯は前の人が立つたび、教科書に指を置き直している。
「ここだよな」
小さな声で聞かれたので、のぞき込んだ。
「その次じゃない?」
「長いやつ?」
「たぶん」
佐伯は嫌そうにページを見た。
俺の段落は、その下の三行だけだった。これなら、立って読んでもすぐ終わる。
横で白石が俺の教科書を見た。
「藤宮、先に練習してるの?」
「読んでるだけ」
「今読んでるとこ、もっと前だよ」
顔を上げると、まだ窓側の列の途中だった。
読み終えた人が座り、次の人が立つ。
自分の番までに時間がありそうなので、椅子の下で足を伸ばした。ふくらはぎは昨日より張っている。足首を曲げると痛かったが、じっと座っている分には気にならなかった。
「そこは長いから、二人で半分ずつ読みましょうか」
先生の声で教科書に目を戻す。
長い段落を読んでいた男子が途中で座り、後ろの女子がその続きから読み始めた。
佐伯が振り向いた。
「一個ずれた」
俺は自分が読むつもりだった三行に置いた指を、少し上へ戻した。
佐伯の番は本当に短かった。
立ち上がり、二行を読んで座る。椅子を引く音の方が長く聞こえたくらいだった。
続いて俺が立った。先生が途中で分けた分、さっき佐伯が嫌がっていた長い段落が回ってきた。
読み始めると、教室で聞く自分の声は思っていたより大きかった。家で教科書を見る時とは違って、どこで息を吸えばいいのか、少し迷った。
途中の言葉を、一文字多く読んだ。
すぐに言い直したけど、前で佐伯の肩が動いた。
見るなと思うほど目が行く。次の行まで、変なところで息が切れた。
「落ち着いて。もう一回、そこから」
先生に言われ、俺は教科書を少し高く持った。佐伯の背中を隠してから、同じ一文を読み直す。
今度は最後まで読めた。
座ると、膝の上に教科書を下ろした。
「そこで笑うなよ」
「笑ってないって」
佐伯は前を向いたまま答えた。その声がもう笑っていた。
「藤宮、次の人が読んでますよ」
俺だけ先生に言われた。
白石が口元を手で押さえたので、そっちを見るのもやめた。
音読が終わると、先生は黒板に問いを書いた。登場人物がそう答えたのはなぜか、前の段落から分かるところに線を引く。
さっき読んだ段落に戻ってみると、声に出す方に気を取られて、何を読んだのかあまり入っていなかった。もう一度、最初から目を通した。
佐伯が消しゴムを落とした。
足元へ転がってきたので拾って渡すと、手のひらに小さな紙切れが載せられた。
『さっきごめん』
ノートの端をちぎったらしく、片側だけぎざぎざだった。
俺は裏へ『あとで覚えとけ』と書いて返した。
佐伯が首だけ振り向く。俺は何も言わず、教科書の下へシャーペンを差し込んで前を向いた。
休み時間になると、七海がこっちへ来た。
「藤宮、先生に注意されてたね」
「佐伯が笑うから」
「うん。そこも聞こえた」
「そんなに聞こえてた?」
「結構。後ろの子も笑ってたよ」
小声のつもりだった。
佐伯が教科書を閉じながら、まだ口元を緩めている。
「お前の方が短かったくせに」
「俺が決めたんじゃないだろ」
今度は白石も声を出して笑った。
七海は俺たちの机の間で少し話してから、女子に呼ばれて戻っていった。白石も一緒に立ち、二人で廊下へ出ていく。
俺は次の教科書を探した。机の中へ手を入れると、昨日書いた入部届の端に触れた。折らないように教科書の上へ載せ直す。
保護者の欄は、まだ空いていた。
「次、何ページだっけ」
佐伯が聞くので、黒板の端に残っている数字を指した。
「あれじゃない?」
「あれは今の国語だろ」
二人で時間割を見た。
次は理科だった。
*
昼休みには、佐伯はもう音読のことを言わなくなっていた。
机を寄せると、膝が隣の机の脚に当たった。少し椅子を引き、弁当箱の蓋を開ける。
佐伯の弁当には、ご飯の上にのりが敷かれていた。箸で少しずつ切ろうとして、下のご飯ごと持ち上げている。
「それ、一気に食べるの?」
「切れないんだよ」
白石に聞かれ、佐伯は箸を止めた。一度弁当箱へ戻して、端から口へ運ぶ。
俺も卵焼きを一つ食べた。朝はまだ温かかったものが、すっかり冷えている。
「給食の揚げパン、また食べたいな」
白石が弁当を食べながら言った。
「俺も好きだった」
「東小にもあったんだ」
「毎日じゃないけど」
「毎日だったら飽きるでしょ」
佐伯はご飯を飲み込んでから、南小でも出ていたと言った。砂糖か、きな粉かで話が分かれ、七海まで隣の机から口を挟んだ。
小学校の給食の話をしながら、それぞれ違う弁当を食べていた。
俺の弁当箱には、端に小さな隙間ができた。箸でご飯を寄せると、下から海苔の佃煮が出てきた。
「藤宮も、のり入ってるじゃん」
「佐伯のみたいにつながってないけどな」
佐伯の弁当には、まだ大きなのりが半分残っていた。
食べ終わって蓋を閉めても、隣では白石がおかずを一口ずつ食べている。俺は水筒のお茶を飲みながら、午後の先生が誰だったかという話をしていた。




