第六十話 ボールの落ちるところ
鞄の横に、体育着の袋と体育館シューズを入れた袋を置くと、母さんが味噌汁を運びながら聞いた。
「今日、体育あるの?」
「ないけど、バスケ部で使うかもしれないから」
向かいに座っていた姉ちゃんが顔を上げた。何か言いかけて、鞄の横の二つの袋に目を移す。
「本当に見るんだ」
「昨日、見るかもって言っただろ」
「じゃあ、今日やってみればいいじゃん」
簡単に言うけど、バスケットボールなんて体育の授業で触ったくらいだった。
二つの袋を鞄の持ち手に掛けると、母さんに落とすから中に入れなさいと言われた。
教室に着く頃には、袋の分だけいつもより鞄が膨らんでいた。
「バスケ部、行くんだ」
白石は俺の鞄からはみ出した袋を見ながら言った。
「バスケ部勧めたの、白石だろ」
「背高いしって言っただけじゃん」
前の席から佐伯が振り返った。
「藤宮、バスケできるの?」
「できない」
「じゃあ何で行くんだよ」
「やったことないから、見に行くんだろ」
「俺も今日、もう一回卓球行く。昨日よりは当たると思う」
「昨日一球しか当たらなかったよね」
「今日はもっと打たせてもらえるから」
回数が増えれば当たる数も増える。それで上手くなったことになるのかは分からなかった。
帰りの会が終わると、教室に残った男子が何人か体育着に着替え始めた。
俺も制服を鞄に入れ、体育着のまま廊下へ出る。
七海は昨日と同じ女子と一緒に教室の前で待っていた。
「藤宮も体育館?」
「今日はバスケ部見る」
「玲奈、藤宮ほんとに来たよ」
白石がこっちを見た。
「行けとは言ってないよ。背高いから合いそうって言っただけ」
白石は美術室へ向かい、佐伯も階段の途中で別れた。俺は七海たちと一緒に体育館まで歩いた。
体育館の入口で上靴を脱ぎ、持ってきた体育館シューズに履き替えた。
手前では、バレーボール部がネットを張り始めていた。奥のゴールでは、バスケットボール部の上級生が二人ずつ向かい合ってパスをしている。
ボールが床に当たる音は、廊下で聞いた時より大きかった。
「見学?」
入口にいた上級生に聞かれた。
「はい。できたら体験もしたいです」
「体育着なら大丈夫。あっちで待ってて」
壁際には、一年生が七人集まっていた。制服のまま座っている人もいれば、俺と同じように体育着に着替えている人もいる。
しばらく上級生の練習を見ていると、顧問の先生が笛を鳴らした。
「体験する一年は、こっちに並んで」
体育着の五人が立ち上がった。
最初に、体育館の中を二周走った。
上級生が走る速さに合わせたわけでもないのに、最初の一周の途中から息がしんどくなった。二周目になると、隣にいた男子の足音が少しずつ後ろに遠ざかっていく。
「速いな」
後ろから言われ、少しだけ速度を落とした。
走り終わると、一人に一個ずつボールが渡された。
「ミニバスやってた人いる?」
五人のうち、二人が手を上げた。
「やってなくても大丈夫。今日はドリブルとシュートを少しやるから」
上級生がその場でボールをつき始めた。
同じように右手でボールをつく。最初の一回は高く戻りすぎ、二回目は靴の先に当たって横へ転がった。
拾いに行くと、近くにいた上級生が笑った。
「強くつきすぎ。もう少し低くした方がいいよ」
「はい」
腰を落としてもう一度つく。
今度は続いたけど、手のひらの同じところに戻ってこない。前へ進もうとすると、ボールだけが前に行った。
ミニバスをやっていた二人は、右手から左手に簡単に持ち替えている。同じ一年生でも、動きは全然違った。
次は、ゴールの前に二列に並んだ。
走りながらパスを受け、二歩で踏み切ってボールを置くように投げる。上級生が何度見せても、足の順番が分からなくなった。
俺の前の男子は、板に当ててきれいに入れた。
「次」
前の男子と入れ替わって走り出した。
走ってボールを受ける。右足からだったか、左足からだったか考えているうちにゴールの下まで来てしまった。
両足で止まり、そのまま投げる。
ボールは輪の手前に当たり、俺の頭を越えて後ろへ跳ねた。
「今のは歩きすぎ」
上級生が転がったボールを追いかけながら言った。
「すみません」
「最初はみんなそうなるから。足だけ先にやってみよう」
ボールを持たずに二歩進み、片足で跳ぶ。
何度か繰り返すと、考えなくても足が動くようにはなった。もう一度ボールを持つと、今度は足に気を取られて投げる力が足りなかった。
輪の手前に当たったボールが、真下へ落ちる。
手を伸ばすと、床に落ちる前につかめた。
「そのまま、もう一回」
言われた通りに投げたけど、今度は板に強く当たり、反対側へ跳ねた。
隣の列から投げたボールも同じ側にそれた。
二つのボールが続けて落ちてきた。
一歩下がって最初のボールを取り、近くの一年生に渡す。もう一つは少し遠かったけど、腕を伸ばして片手で止め、そのまま抱えた。
「よく取ったな」
さっき教えてくれた上級生が言った。
「背もあるけど、腕長いな。バスケやってなかったんだよな?」
「はい」
「じゃあ、シュートはこれからだな」
入らなかったところまで見られていたらしい。
もう一度列に並ぶと、手のひらが赤くなっていた。ボールを受けるたびに同じ場所に当たり、少し熱い。
体験が終わったあとも、壁際に座って上級生の練習を見た。
さっきまで教えてくれていた先輩が、今度は走りながら片手でパスを出す。受けた人は止まらずにゴールの下に入り、板に当てて決めた。
俺は足の順番を考えるだけで止まりそうになったのに、上級生はそのまま跳んでいた。
「体験は明日もやるから、まだ決めてない人も来ていいよ」
片づけを始めた上級生に言われ、壁から立ち上がった。
教室へ戻ると、白石と佐伯がまだ残っていた。
「遅かったね」
「バスケ、少しやってた」
「できた?」
「ドリブルは足に当たったりしたし、シュートも全然入らなかった」
「全部だめじゃん」
佐伯が言う。
「ボールはちゃんと取れたって。佐伯だって、昨日ほとんど空振りだっただろ」
「今日は三球、ちゃんと台に入ったからな」
白石が先に鞄を持った。
「二人とも、もう一回行けばいいじゃん」
「白石は美術部に決めたの?」
「まだ。明日は別のところ見る」
家に帰ると、姉ちゃんが居間から顔を出した。
「バスケ部、どうだった?」
「疲れた」
靴を脱いで階段を上がる。走った時より、今の方がふくらはぎが重かった。
「入るの?」
後ろから姉ちゃんが聞いた。
「まだ決めてない。明日も行くかも」
部屋へ入り、パソコンの電源をつける。
画面が明るくなるのを待ちながらマウスに手を置くと、赤くなった手のひらが少し痛んだ。




