第五十七話 前の席の佐伯
月曜日の朝、制服に着替える前にパソコンの電源を入れた。
画面が明るくなるまでの間にシャツを着て、ズボンのベルトを締める。机の下からファンの回る音がして、青い空と草原が出た頃には、階段の下から母さんに呼ばれた。
「こういち、朝ごはん」
「今行く」
検索のページを開く。
昨日はつながったところまでしか確かめられなかった。今日はゲームの発売予定でも見ようと思っていたのに、もう一度呼ばれた。
「先に食べなさい」
「一つだけ見る」
「学校に遅れるよ」
時計を見ると、思っていたより針が進んでいた。
何も調べないまま電源を切り、階段を下りる。自分の部屋にパソコンがあっても、朝に使える時間はなかった。
食卓の横には、入学式の日にもらったプリントが重ねてあった。
「これ、全部書いたから鞄に入れてね」
母さんが一番上を指でたたいた。
「分かった」
「あとでじゃなくて、食べたらすぐ」
「忘れないって」
「入学式の日、持ち物の紙を出し忘れかけたのは誰?」
何も言わずにパンをかじった。
家を出る前にプリントを鞄に入れた。教科書は時間割に書かれている分だけにしたのに、それでも小学校の時より重い。
教室へ入ると、白石は自分の席でプリントをそろえていた。
「藤宮、これ何枚あった?」
「知らない。母さんがまとめたから」
「数えてないの?」
「全部出したから大丈夫だろ」
「一枚なくても分かんないじゃん」
白石は自分の分をもう一度数え始めた。
「七枚」
「じゃあ同じ」
「数えてるじゃん」
「今数えたんだよ」
鞄を教室の後ろに置いて席に戻る。
前の席には、まだ誰もいなかった。机の上の紙には、佐伯直人と書いてある。入学式の日に名前を呼ばれたはずだけど、覚えていなかった。
チャイムが鳴る少し前に、男子が教室へ駆け込んできた。
「間に合った?」
誰に聞いたのか分からない声に、白石が時計を見た。
「まだ鳴ってない」
「今鳴っただろ」
「今のは予鈴」
男子は安心したように息を吐き、俺の前の席に座った。
佐伯直人か。
先生が入ってきて、提出するプリントを後ろから集めるように言った。
後ろから回ってきた束に自分の分を重ねる。白石は七枚あるか最後まで確かめてから、前に渡していた。
一時間目は授業ではなく、中学校での生活についての説明だった。
遅刻した時に行く場所。職員室へ入る時の言い方。体育館では体育館シューズに履き替え、武道場では上靴を脱ぐこと。先生が話すたび、机の上の紙に書くことが増えていく。
途中で佐伯が振り返った。
「今、どこ?」
「上から三つ目」
「その下じゃない?」
横から白石が紙をのぞく。
「佐伯、一個飛ばしてる」
「どれ?」
「職員室に入る時のところ」
「そこまで書くの?」
「先生が書けって言ったじゃん」
佐伯は黒板と紙を見比べ、空いているところに小さく書き足した。
先生がこちらを見たので、三人とも前を向いた。
休み時間になると、佐伯が椅子ごと振り返った。
「藤宮って、東小?」
「そう」
「白石は西小だよな」
「何で知ってるの?」
「入学式の日に言ってたの聞こえた」
佐伯は自分の胸を指した。
「俺、南小。知ってるやつ、同じクラスに二人しかいない」
「二人いるならいいじゃん」
「片方、ほとんど話したことない」
「じゃあ一人だね」
白石がすぐに言うと、佐伯は少し考えた。
「白石は?」
「一組にはいなかった」
「じゃあ、最初は知ってるやつ誰もいなかったの?」
「うん。でも今は違うけど」
白石が俺の方を見た。
「藤宮と七海がいるから」
「七海って誰?」
「あっちにいる。宮下ー」
白石が教室の反対側に声をかけた。
七海は近くの女子と話していたが、こっちを見て手だけ上げた。
「もう名前で呼んでるんだ」
「本人がいいって言ったから」
「早いな」
「佐伯も直人って呼ばれたいの?」
「どっちでもいいけど、今は佐伯でいいよ」
佐伯はそう言ってから、俺の机の名前を見た。
「藤宮は?」
「名字でいい」
「じゃあ藤宮で」
二時間目は、校内を歩いて教室の場所を確かめることになった。
一組は廊下に二列で並び、先生の後ろについて歩いた。
職員室、保健室、音楽室。小学校にもあった部屋ばかりだけど、廊下が長くて次の場所まで遠かった。
古い校舎へ入る渡り廊下では、床の色が途中で変わった。
「理科室、二つあるんだ」
前を歩く佐伯が、扉の札を見て言った。
「第一と第二って書いてある」
白石が答える。
「何が違うんだろ」
「使う先生じゃない?」
「実験の内容で分けるんじゃない?」
俺が言うと、佐伯は二つの扉を見比べた。
「爆発する方と、しない方?」
「どっちも爆発しないでしょ」
白石の声が少し大きくなり、前を歩いていた何人かが振り返った。
佐伯は何も言わずに前を向いたけど、肩だけ少し動いていた。
図書室は古い校舎の端にあった。
小学校より本棚が高く、奥まで何列も並んでいる。入口の横には貸し出し用の紙と、図書委員の当番表が貼られていた。
「漫画あるかな」
佐伯が小声で言った。
「探す時間ないよ」
「今度来ればいいだろ」
先生に進むよう言われ、図書室を出た。
教室へ戻る頃には、最初の休み時間より話す声が増えていた。前後の席でプリントを見せ合ったり、どこの小学校だったか聞いたりしている。
佐伯は席に座ると、また後ろを向いた。
「藤宮、部活決めた?」
「まだ」
「俺も。明日の紹介見てからでいいよな」
「普通はそうじゃない?」
白石が自分の席から言った。
「運動部って、毎日あるのかな」
「入る前から休むこと考えてるの?」
「一日くらい何もない日ほしいだろ」
佐伯が俺を見る。
「藤宮もそう思うよな」
「毎日は嫌だな」
「ほら」
「二人とも文化部にしたら?」
「明日の紹介を見てから決めるって」
次の先生が教室へ入ってきても、佐伯の椅子は少しだけ後ろを向いたままだった。
帰りの会が終わると、佐伯は鞄を肩に掛けた。
「藤宮、誰かと帰るの?」
「昇降口で三組のやつ待つ」
「小学校の友達?」
「そう」
「じゃあ、また明日」
佐伯は先に教室を出ていった。
白石も鞄を持って立ち上がる。
「私も途中まで一緒に行っていい?」
「いいよ」
七海が近づいてきて、そのまま三人で昇降口へ下りた。
悠斗と遼太は、今日も柱の近くにいた。
「さっきの男子、誰?」
遼太が、外へ出ていく佐伯の背中を見た。
「前の席の佐伯」
「もう仲良くなったの?」
「休み時間に話しただけだよ」
「白石の時もそれ言ってなかった?」
七海が笑う。
「七海だって、周りの席の女子と仲良くなってただろ」
「私は入学式の日から話してるから」
「一日しか変わらないだろ」
「二人とも同じじゃん」
「席が近いんだから話すだろ」
「じゃあ俺も一組行けば友達増える?」
「三組で増やせよ」
昇降口を出ると、佐伯の姿はもう見えなかった。
白石は前と同じところで道を曲がり、俺たちは四人で歩き続けた。
「明日、部活の紹介だって」
俺が言うと、遼太がすぐに振り向いた。
「野球部のユニフォーム、格好よくない? 卓球なら俺でもできそう」
「全然決まってないじゃん」
三人で違う部に入ったら、放課後に集まる時間も変わる。
でも遼太はそんなことを気にせず、帰るまで野球部と卓球部のどちらから見るか迷っていた。




