第五十五話 一年一組の名簿
※ここから中学生編が始まります。
部活動、新しい友人、少しずつ変わっていく人との距離。
未来の知識やお金だけでは思い通りにならない、恒一の中学校生活が始まります。
物語は小学生編から続いています。初めての方は、第1話から読んでいただくのがおすすめです。
「首、苦しくない?」
母さんが制服の襟を指で直した。
「少し苦しい」
「入学式の間だけ我慢しなさい。教室に戻ったら、少しくらい緩めてもいいから」
鏡の中には、黒い制服を着た俺がいた。
制服は肩のあたりがまだ固く、腕を上げると袖ごと引っ張られる。腕を下ろすと、今度は高い襟が首に当たった。
姉ちゃんが洗面所の入口からのぞく。
「ちゃんと中学生に見えるじゃん」
「制服着てるからだろ」
「でも、鞄持つと一年生って分かる」
「何で?」
「新しすぎるから」
玄関には、買ったばかりの黒い鞄が置いてあった。
金具にも持ち手にも傷がなく、底を床につけるのが少しもったいない。
「こういち、もう出ないと写真撮る時間なくなるよ」
「また撮るの?」
「入学式なんだから当たり前でしょ」
母さんが先に靴を履いた。
父さんは仕事で入学式には来れない。朝、新聞を持ったまま、帰ったらクラスを教えろと言って出ていった。
中学校までは、小学校より少し遠かった。
朝の空気はまだ少し冷たかった。中学校の校舎が見えてくると、同じ制服を着た一年生が何人も校門へ向かっていた。知っている人もいれば、知らない人もいた。
これまでは、同じ学年なら、話したことがなくても見覚えくらいはあった。けれど、今はすぐそばにいる一年生が、どこの小学校から来たのかも分からない。
校門の前で母さんに写真を撮られてから、昇降口へ向かった。
門の内側では、同じように写真を撮る親子と、校舎に入ろうとする生徒が入り交じっていた。
クラス分けの紙は、壁に横一列で貼られていた。
「知らない名前ばっかりだな」
先に来ていた遼太が、紙の上から下まで目で追っている。
「小学校が違うんだから当たり前じゃん」
七海はもう自分の名前を見つけたらしく、一組の紙を指した。
「私、一組。藤宮もいるよ」
「本当?」
「ほら、ここ」
宮下七海の少し下に、藤宮恒一があった。
「また同じだね」
「六年生でも同じだったからな」
「嫌そうに言わなくてもよくない?」
「嫌って言ってないだろ」
隣では、悠斗が三組の紙を見ていた。
「俺、三組」
「田辺、俺も三組だ」
遼太が急に声を大きくした。
「今度は一人じゃなくてよかったじゃん」
「別に、一組にも知ってるやつはいたって」
「でも毎日二組に来てたよね」
「休み時間だけだろ」
後ろから来た人に押され、四人で紙の前を離れた。
「帰り、ここに集合する?」
悠斗が昇降口の柱を指した。
「終わる時間、同じじゃないの?」
「クラス違うんだから、同じとは限らないじゃん」
「じゃあ先に終わった方が待つ」
「分かった。勝手に帰るなよ」
一年一組の教室は二階にあった。
入口に立つと、小学校の教室より静かだった。話している子もいるけど、知っている相手を探して小さな声で話している。
黒板に席順が貼られていた。
俺の席は窓から二列目。七海は反対側の列で、すでに前の席の女子と話していた。
机の上には、名前を書いた細い紙が置いてある。
鞄を机の横に掛けようとしたが、持ち手が固く、金具にうまく入らなかった。
「それ、後ろに置くんじゃない?」
隣の席にいた女子が、教室の後ろを指した。
同じ黒い鞄が、棚の下にいくつか並んでいる。
「決まってるの?」
「みんな置いてるから、たぶん」
女子の机には、白石玲奈と書いてあった。
鞄を教室の後ろに置いて戻ると、白石が俺の机の名前を見た。
「藤宮って、ふじみやで合ってる?」
「合ってるよ」
「私は白石。西小から来た」
「西小なんだ」
「そう。こっちは知ってる人少ないんだよね」
白石はそう言いながら、教室を見回した。
「宮下なら、同じ小学校だったよ」
「さっき話してた子?」
「うん。あと、三組にも二人いる」
「結構いるじゃん」
「ほかにもいるけど、よく話すのはそのくらい」
白石は一度うなずき、前を向いた。
チャイムが鳴る少し前に、担任の先生が入ってきた。
名前を呼ばれ、順番に返事をする。
知っている名前もあれば、知らない名前も多かった。同じ小学校でも、ほとんど話したことのない相手はいた。
先生は入学式の並び方を説明してから、廊下へ出るように言った。
体育館へ向かう列の中で、制服の襟がまた首に当たった。
前を歩く男子の背中にも、まだ折り目が残っている。
体育館には、二年生と三年生が先に座っていた。
同じ制服でも、上級生が着ているものは柔らかく見えた。男子の中には身体の大きい人もいて、小学生の頃とは周りの雰囲気が違って見えた。
入学式が始まり、校長先生の話を聞いた。
中学生としての自覚。勉強と部活動。何度か聞いたことのある言葉が続く。
一周目の俺なら、早く終わらないかと時計ばかり気にしていたと思う。
今回は前を向いていたけど、襟が当たるところだけはずっと気になった。
一年生全員で立ち上がった時、椅子の脚が体育館の床をこすった。音がきれいにそろわず、あちこちで少し遅れて鳴った。
式が終わって教室へ戻ると、机の上に教科書が積まれていた。
「これ、全部持って帰るの?」
後ろの方で誰かが言った。
先生は聞こえていたらしく、教卓の上の紙から顔を上げた。
「今日は全部持って帰ってください。名前も書くように」
教室の中から小さく声が上がった。
先生は気にせず、提出する紙を一枚ずつ配り始めた。
通学経路、緊急連絡先、部活動の見学予定。机の上に紙が増えていく。
「黒いペン持ってる?」
白石が小声で聞いた。
「ボールペンならあるよ」
「貸して。自分の名前だけ書きたい」
筆箱から出して渡すと、白石は一番上の紙に名前を書いた。
「これ、今日出すやつ?」
「家で書いて、月曜だと思う」
「どこに書いてある?」
「下の方」
白石は紙の下を見てから、ペンを返した。
「本当だ。名前だけにしといてよかった」
先生が月曜日の持ち物を話し始め、会話はそこで終わった。
教科書を鞄に入れると、朝よりずっと重くなった。持ち手を握ると、細いところが指に食い込む。
廊下へ出る前に、七海が近づいてきた。
「さっき、隣の子と何話してたの?」
「ペン貸して少し話しただけ」
白石が後ろから鞄を持ってきた。
「宮下さんだよね?」
「そう。白石さん?」
「玲奈でいいよ」
「じゃあ私も七海でいいよ」
二人はそれだけで呼び方を決めた。
「藤宮も名前で呼んだ方がいい?」
白石が聞く。
「別に名字でいいよ」
「じゃあ藤宮で」
決まるのが早かった。
昇降口へ下りると、悠斗と遼太はもう柱の近くにいた。
「一組、遅くない?」
「プリントが多かったんだよ」
「三組も多かったけど」
「じゃあ先生の話が長かったんじゃない?」
七海が言うと、遼太は教室の方を見た。
「一組の先生、長いの?」
「今日だけかもしれないだろ」
「毎日だったら、帰り待たないからな」
「最初に待つって言ったの遼太じゃん」
悠斗が、俺の鞄を持ち上げようとした。
「重っ」
「教科書全部入ってるから」
「俺のも同じだけど、人の鞄って持ちにくいな」
「それ、持ち方が悪いだけじゃない?」
白石が横から言った。
遼太が白石を見る。
「誰?」
「横の席の白石」
「もう仲良くなったの?」
「席が隣だからな」
白石は遼太の方を見た。
「藤宮、二人も紹介してよ」
「三浦遼太。こっちが田辺悠斗」
俺が名前を言うと、白石は一人ずつ顔を見た。
「三浦と田辺ね。二人とも三組?」
「そう。藤宮たちだけ一組」
校門を出たところで、白石とは道が分かれた。
「じゃあ、また月曜」
「またね」
七海が手を振ると、白石も軽く手を上げた。
四人になると、遼太がすぐに聞いた。
「着替えたら公園行く?」
「入学式の日まで行くの?」
「卒業してからも行っただろ」
「今日は教科書に名前書かないとだめだよ」
「帰ってすぐ書けばいいじゃん」
悠斗が鞄を持ち直した。
「俺、これ置いたら行ける」
「母さんに聞いてからな」
「じゃあ三時で」
「まだ行くって言ってないって」
小学校の帰りと同じような話をしながら歩いた。
でも、全員が黒い制服を着て、同じ形の鞄を持っている。
家に着くと、母さんが玄関まで来た。
「誰と同じクラスだった?」
「七海。遼太と悠斗は三組」
「そう。知ってる子がいてよかったね」
母さんは俺の鞄を見た。
「プリントあるでしょ。先に出して」
「着替えてからでいい?」
「忘れるから今出しなさい」
鞄を居間まで運び、中から紙を出した。
一枚出すたびに、母さんが食卓の上に広げていく。
「多いね」
「先生の話も長かった」
「最初の日なんだから仕方ないでしょ」
全部出したつもりで鞄を閉じようとすると、底にもう一枚残っていた。
「まだあるじゃない」
「今見つけたんだって」
母さんが手を出した。
その紙には、月曜日の持ち物が書いてあった。




