閑話 午前中だけ【別視点・藤宮奈緒美】
卒業式の翌朝、味噌汁の火を弱めながら、私は階段の上に向かって声をかけた。
「こういち、起きなさい。学校――」
途中で言葉が止まった。
二階から、少し遅れて返事がきた。
「今日、学校ないよ」
「分かってるわよ。朝ごはんはあるんだから、早く下りてきなさい」
「今行く」
鍋のふたを開けると、湯気が顔に当たった。
階段を下りる足音は、まだ聞こえなかった。
「早くしなさい」
「行くって」
また二階から返ってきた。
恒一は髪の後ろを立たせたまま、食卓へ来た。
「顔、洗った?」
「洗った」
「寝癖ついてるよ」
「今日はいい」
「よくないでしょ」
椅子に座った恒一の前に、味噌汁とご飯を置いた。
昨日持たせたハンカチは、洗濯かごの中に入っていた。上履き袋は見ていない。
「上履き、出した?」
恒一が箸を止めた。
「もう履かないけど」
「履かなくても、袋に入れっぱなしはだめでしょ」
「あとで出す」
「今出しなさい。食べ終わったら忘れるから」
「食べてる途中なんだけど」
「じゃあ食べ終わったらすぐ」
「分かった」
恒一は味噌汁を飲みながら答えた。
食べ終わると、本当に二階から上履き袋を持ってきた。
「珍しい」
「出せって言ったの母さんだろ」
袋を受け取ると、底に細かい砂がたまっていた。
中の上履きは、つま先のゴムが灰色にくすみ、かかとに書いた名前も何度も洗ううちにかすれていた。
「これ、捨てる?」
返事をする前に、かかとに残った名前をもう一度見た。
「まだ決めない。袋から出して、そこに置いといて」
「どこ?」
「洗面所の前」
恒一は左右の上履きを片手で持っていった。
「床に砂こぼさないでよ」
「ちょっとこぼれた」
「もう」
ほうきを取りに行くと、廊下に細かい砂が散っていた。
恒一は先に拾おうとして、指で一粒ずつつまんでいる。
「それじゃ終わらないでしょ。どいて」
ほうきを戻してから洗濯物を干し、恒一の部屋をのぞいた。
机の横には、ランドセルが昨日のまま収まっていた。机の上の卒業証書の筒は、片端が本棚の縁に乗り、斜めになっていた。
「こういち、これ落ちるよ」
「あとで場所決める」
「あとでばっかりじゃない」
筒だけまっすぐに置き直した。しまう場所までは決めなかった。
十時前、牛乳と豆腐を買いに近所のスーパーへ行った。
入口の横には、特売の紙と店からのお知らせが並んでいた。
いつもなら特売の値段だけ見て通るところで、今日は足が止まった。
白い紙の上に、太い字でパート募集と書かれていた。
その下に、「午前中だけでも可」とあった。
仕事内容はレジと品出しで、勤務は週に三日から、午前九時から十二時までと書かれていた。
朝の片づけをしてからでも、間に合う時間だった。
「すみません、通ります」
後ろから台車を押した店員に言われ、横へよけた。
「あ、ごめんなさい」
紙から離れ、そのまま店の中へ入った。
牛乳を一本かごに入れる。
卵は昨日買った。昼はうどんにするつもりだから、ねぎもいる。真鈴があとで何か食べるかもしれないので、安くなっていたパンも一袋取った。
買い物メモに線を引きながら、売り場を回った。
会計を済ませ、袋に詰めて外へ出る。
自転車のかごに袋を入れたところで、豆腐を買っていないことに気づいた。
メモの一番上に書いてあったのに、線が引かれていない。
「もう」
袋をかごから下ろし、もう一度自動ドアを通った。
募集の紙は、さっきと同じ場所に貼られていた。
今度は立ち止まらずに通り過ぎた。
豆腐をかごに入れてから、曜日の欄を見てこなかったことに気づいた。
小学生編、ここまで読んでいただきありがとうございました。
次回から中学生編が始まります。引き続き楽しんでいただければうれしいです。
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