第五十四話 ランドセルを置いた日
「今日、買わないの?」
「今日は大きさと値段を見るだけだ」
二月最後の日曜日、父さんはパソコン売り場で言った。
「卒業まで一か月もないよ」
「なら、それくらい待てるだろ」
夏に来た時と同じ店なのに、並んでいるパソコンはかなり変わっていた。
机の奥まで場所を取っていた画面が減り、代わりに薄い画面が増えている。父さんが持ってきた封筒の紙と同じものは、もう見つからなかった。
「前に見てたやつ、なくなってる」
「半年以上も前だからな」
父さんは封筒から紙を出し、目の前の値札と見比べた。
「こっちの方が画面は薄いな」
「これなら机の横に置けそう」
「台は別にいるぞ」
「それも買う?」
「買うことになったらな」
横に置かれていたメジャーを借りて、父さんが本体と画面の幅を測る。俺は紙の空いているところに数字を書いた。
十七万九千八百円。
夏に見たものより少し安い。
「これにするの?」
「まだ決めない。ゲームもできるのか?」
「たぶん」
「たぶんで十八万は出せないな」
近くにいた店員に父さんが声をかけた。
父さんは、インターネットにつないで学校の調べものに使い、ゲームも少ししたいと店員に伝えた。夏に俺が話したのと同じ内容だった。
店員は値札の横にある紙を指しながら話した。数字や知らない言葉がいくつも出てきたけど、どれがどれくらい必要なのかは、聞いても全部は分からなかった。
「このくらいで十分そうだな」
説明が終わってから、父さんが言った。
「じゃあ、これくらいのならいい?」
父さんは値札をもう一度見た。
「家のパソコンも約束どおり使えてたし、中学に入ったら買うか」
「本当に?」
「入学式が終わったあとの日曜日に、もう一度来る」
「またなくなってたら?」
「同じくらいのを探せばいい」
父さんは紙を折って、封筒に戻した。
「今度は買う。それまでに、置く場所を空けておけよ」
「もう空いてるよ」
「雑誌が積んであったぞ」
「あれは姉ちゃんが置いたんだって」
「誰が置いたかは関係ない。お前の部屋だろ」
言い返せなくなって、もう一度パソコンを見た。
画面には青い空と草原が出ていた。家のパソコンより明るく見える。マウスを少し動かすと、白い矢印が画面の端へ滑った。
帰りの車で、父さんは信号待ちの間に封筒を俺に渡した。
「なくすなよ」
「前のもちゃんと持ってきたじゃん」
「封筒の端、曲がってるぞ」
「中の紙は平気だろ」
父さんは前を向いたまま、少し笑った。
三月に入ると、卒業式の練習が始まった。
立って、座って、礼をする。
名前を呼ばれたら返事をして、舞台へ上がる。歩く順番まで決められていて、間違えると最初からやり直しになった。
「今日、もう三回目じゃん」
遼太が体育館の床に座りながら言った。
「三浦が前のやつに近づきすぎるからだろ」
「遅いから詰まるんだって」
「詰めなくていいって言われたじゃん」
七海が少し離れた二組の列から言う。
「一組の話なのに、何で聞いてるんだよ」
「声が大きいから聞こえるの」
先生に静かにしろと言われ、遼太は口を閉じた。数秒後、今度は手だけで前の人との間を測り始めた。
悠斗がそれを見て、笑いそうになっている。
「田辺もしゃべるな」
「何も言ってません」
返事をしたせいで、また注意されていた。
卒業式の前日には、机の中を空にした。
短くなった鉛筆、折れた定規、いつのものか分からないプリント。全部ランドセルに入れると、ふたが少し浮いた。
「それ、持って帰るの?」
七海が俺の机の中から出てきた紙を見た。
「捨てていいか分かんないし」
「去年のプリントじゃない?」
「じゃあ捨てる」
「雑だね」
紙を丸めて、ごみ箱に入れた。
悠斗が後ろからランドセルを背負った。
「ランドセル背負うのも、明日で最後だな」
遼太は一組から来るなり、俺の机に手をついた。
「中学でも俺だけ別のクラスだったら、今度はそっちから来いよ」
「まだクラスも分かってないじゃん」
「また一人だけだった時の話」
「休み時間になったら、先に来てそうだけど」
七海が言うと、遼太は少し考えた。
「じゃあ、途中で会う」
「途中ってどこだよ」
先生が教室へ戻ってきて、遼太は自分のクラスへ追い返された。
卒業式の日は、朝から母さんが何度も時計を見ていた。
「こういち、ハンカチ持った?」
「持ったよ」
「上履きは?」
「持ってるに決まってるよ」
「聞いただけでしょ。忘れてたら取りに戻るの私なんだから」
玄関では、姉ちゃんが俺のランドセルを指でつついた。
「今日で終わり?」
「そうだよ」
「じゃあ、ちょうだい」
「何に使うんだよ」
「別にいらないけど」
「じゃあ言うなよ」
母さんに早く靴を履けと言われ、話はそこで終わった。
校門の前には、いつもより大人が多かった。スーツや明るい色の服が並び、子供より親の方が落ち着かずに写真を撮っている。
母さんも俺を校門の横に立たせた。
「一枚だけね」
「遅れるって」
「まだ大丈夫だから。ほら、前向いて」
写真を撮られてから昇降口へ入った。
下駄箱に靴を入れ、上履きに履き替える。何度もやった動きなのに、今日で最後だと思うと、靴を押し込む手が少し止まった。
教室に荷物を置いて、体育館へ向かった。
卒業生の席には、前の日までなかった白い布がかけられている。舞台の横には花が並び、体育館のにおいに少し甘いにおいが混じっていた。
去年、椅子を運んだ時、高橋先生に「来年はお前らが座る側だからな」と言われた。今日は、その椅子に自分たちが座る。
式が始まると、練習と同じ順番で進んだ。
一組から名前を呼ばれ、遼太が大きな声で返事をした。舞台を下りる時、少しだけこっちを見た気がした。
二組の番になり、悠斗、七海と続く。
「藤宮恒一」
「はい」
立ち上がる時、膝に力が入った。
舞台まで歩き、校長先生の前で止まる。両手で卒業証書を受け取り、頭を下げた。
一周目でも、同じ小学校を卒業した。
あの時、舞台から何が見えていたのかは覚えていない。今回は、後ろの席で母さんが小さく頭を下げたのが見えた。
母さんの顔はすぐ見えなくなったのに、席へ戻るまで手の力が抜けなかった。証書の端が指に当たり、少し持ち直した。
式が終わって教室へ戻ると、先生が最後の話をした。
「四月からは中学生です。急に何でもできるようになるわけじゃないから、分からないことはちゃんと聞くこと」
教室のどこかで、はい、と返事がした。
「あと、机の中に物をためる人。中学では自分で何とかしてください」
何人かが笑って、七海がこっちを見た。
「何で俺を見るんだよ」
「昨日のプリント」
「ちゃんと捨てたって」
先生の話が終わり、卒業証書を筒に入れてから、前の席から順番に教室を出た。
廊下へ出る前に、忘れ物をしたような気がして一度振り返った。
自分の机の下には椅子が戻され、横のフックにも何も掛かっていない。昨日まで物が詰まっていた机の中も空だった。
「忘れ物?」
近くにいた七海が聞いた。
「いや、なかった」
七海は先に廊下へ出ず、俺が来るのを待っていた。
「じゃあ早く行こう。遼太がもう待ってるかも」
外へ出ると、一組の遼太がもう待っていた。
「遅い」
「二組が最後だったんだから仕方ないじゃん」
「明日、何時にする?」
「明日も遊ぶの?」
七海が聞くと、遼太は当たり前みたいにうなずいた。
「卒業したから休みだろ」
「卒業式の次の日くらい家にいなよ」
「何で?」
「知らないけど、普通はそうじゃない?」
悠斗が俺の卒業証書を入れた筒を軽く叩いた。
「じゃあ、あさって。公園でいい?」
「雨じゃなかったらな」
「雨なら藤宮んち」
「勝手に決めるなよ」
母さんに呼ばれ、四人で写真を撮ることになった。
母さんがカメラを構えても、遼太だけ少し前に出ていて、四人がなかなかきれいに並ばなかった。
「遼太、もう少し後ろ」
「このくらい?」
「下がりすぎ」
七海が遼太の袖を引いた。
遼太だけが卒業証書の筒を剣みたいに持ち、撮る直前に先生から下ろせと言われた。
写真を撮り終えると、遼太はすぐに筒を持ち上げ直した。
「あさって、何時にする?」
「二時でいいんじゃない?」
「じゃあ二時」
卒業証書の筒を持ったまま、公園に集まる時間が決まった。
家へ帰ると、母さんは卒業証書を食卓の上に置いた。
「曲げないでね」
「筒に入ってるから曲がらないって」
「その筒を踏みそうだから言ってるの」
姉ちゃんがふたを開け、中の紙を半分だけ引き出した。
「本当に卒業って書いてある」
「嘘で卒業式行かないだろ」
「こういちも中学生かあ」
「まだ入学してない」
夕方、父さんが帰ってくると、食卓の卒業証書を見つけた。
「卒業したか」
「見れば分かるじゃん」
「おめでとう」
「ありがとう」
父さんは筒を一度持ち上げ、すぐ元の場所に戻した。
「入学式の次の日曜、空けておけよ」
「パソコン?」
「ほかに何がある」
姉ちゃんが台所から顔を出した。
「私も行く」
「俺のを買うんだから、ついてくるなよ」
「買うなら見たい」
「何でだよ」
「最初に使うから」
「使わせないって」
母さんが、先に手を洗ってきなさいと父さんに言った。
その間も姉ちゃんは、どのゲームを入れるのかと聞いてきた。
部屋へ戻り、姉ちゃんの雑誌と中学の鞄の紙袋を壁際へ移した。空いた机の横に、ランドセルを置いた。
パソコンを置く台のために空けた場所だったけど、今はランドセルがちょうど収まった。
卒業証書の筒は、置く場所が決まらないまま机の上に残した。




