第五十三話 六年間の一ページ
一月最後の月曜日、机の上に二枚の原稿用紙が配られた。
黒板には、六年間で残したい一日、と書かれている。
「卒業文集に載せます」
先生が教卓の前で言った。
「運動会や遠足みたいな大きな行事じゃなくてもいい。自分が残しておきたい一日を、一つ選んで書いてください」
一つ、と言われると、すぐには決められなかった。
教室のあちこちで鉛筆が動き始める。まだ題だけ見ている子もいる。
「藤宮、何にする?」
七海が小さい声で聞いた。
「まだ決めてない」
「私は決めた」
「何?」
「写真ができた日」
「修学旅行じゃなくて?」
「撮った日じゃなくて、みんなで見た日」
「最近じゃん」
「最近でも、残したいならいいでしょ」
七海は一行目に題を書いた。
「写真を机に並べて、四人のを見つけたところを書く」
「写真が少し斜めだったことは?」
「それは書かない」
廊下の向こうから、遼太が一組の先生に何か聞いている声が届いた。
休み時間になると、遼太は原稿用紙を持って二組へ来た。
「お前ら、文集何書く?」
「遼太は?」
「五年の冬、サンタにゲームもらって、みんなで遊んだ日」
「学校のことじゃなくていいの?」
七海が聞くと、遼太は原稿用紙を見せた。
「先生がいいって言った。みんなでやったし」
「失敗ばっかりしてた日?」
「最後は進んだだろ」
「俺に代わってからな」
「そこは書かない」
遼太は原稿用紙をすぐに裏返した。
悠斗は、五年生の始業式の日にしていた。
「別のクラスになった日?」
俺が聞くと、悠斗はうなずいた。
「帰りに靴箱で待ってたら、二人とも遅かったから」
「先生が戻ってこなかったんだよ」
「待ってた時間を書くの?」
七海が聞いた。
「そのあと公園行ったところまで。別のクラスでも、いつもとあんまり変わらなかったし」
悠斗はそう言って、続きを書き始めた。
三人とも、選んだ日は違った。
俺はまだ、題を書くところで止まっていた。
四億円が当たった日なら、忘れることはない。
海の見える部屋に泊まった日も、父さんと初めて株を買った日も覚えている。
でも、文集には書けないことが多すぎた。
鉛筆を持ったまま、四年生の始業式の日を思い出した。
小学四年生に戻ってから、最初の登校日でもあった。
小さい手で連絡帳に持ち物を書き、放課後に遼太の家へ行くと返事をした日。結局、遼太の家には入れず、公園と駄菓子屋へ行った。
特別なことは何も起きていない。
一周目では、断った放課後のことなんて一つも覚えていなかった。
原稿用紙の一行目に、四年生の始業式、と書いた。
「始業式で何かあった?」
七海がのぞき込もうとする。
「放課後のことを書く」
「何したっけ」
「遼太んち行こうとして、だめで、公園行った」
「それだけ?」
「それだけでいいんだろ」
七海は少し考えたあと、自分の原稿に戻った。
「じゃあ、私も写真が少し斜めだったことも書こうかな」
「書かないんじゃなかったの?」
「今、ちょっとあった方がいい気がした」
鉛筆を動かすと、最初の一文が思ったより長くなった。
消しゴムで半分消し、もう一度短く書き直した。
文集の原稿を出してから二週間ほど経った土曜日、母さんと姉ちゃんと三人で制服を見に行った。
店の奥には黒い制服が大きさごとに並んでいた。新品の布と、紙箱のにおいがする。
「まず、これを着てみてください」
店の人から渡されたのは、採寸用の見本だった。
腕を通すと、肩の布が硬かった。襟は首に当たり、袖は指の付け根近くまである。
「長くない?」
袖を持ち上げると、母さんが手首のところをつまんだ。
「少し大きめでいいの。三年間で伸びるかもしれないでしょ」
「伸びなかったら?」
「その時は袖を直せばいいよ」
姉ちゃんが正面から見た。
「制服だけだと、ちゃんと中学生に見える」
「だけって何だよ」
「でも袖が長いから一年生」
「姉ちゃんの時も長かっただろ」
「私はそんなでもなかった」
姉ちゃんは俺の襟を指で直そうとして、店の人が測っている途中だと母さんに止められた。
胸まわり、肩、袖、ズボンの丈を順番に測られた。
店の人が数字を紙に書き、袖を折る位置に細い印をつける。
「制服は三月に入ってからのお渡しになります」
見本を脱ぐと、首のところだけ少し楽になった。
完成した制服はまだない。今日は大きさを決めただけだった。
次に、通学用の黒い鞄を見た。
姉ちゃんが持ち手を曲げようとして、ほとんど動かなかった。
「新品って、こんな硬かったっけ」
「使ってたら柔らかくなりますよ」
店の人が笑った。
鞄はその日に持ち帰ることになった。母さんが会計をしている間、俺は底の金具を何度か押した。
母さんは学校から渡された購入表を開き、白いシャツの枚数とベルトの欄を店の人と確かめていた。
「シャツ、二枚で足りる?」
「洗えば足りるんじゃない?」
「雨の日に乾かないこともあるでしょ」
姉ちゃんが横から購入表をのぞく。
「最初は三枚あった方がいいよ。こういち、絶対どっか汚すし」
「姉ちゃんに言われたくない」
「私は制服に給食こぼしたことないから」
「体操服は?」
「今は制服の話でしょ」
母さんは二人の話を聞かず、シャツ三枚の欄に丸をつけた。
「まだ床に置かないでよ」
母さんが振り返った。
「置いてない」
「今、置こうとしてたでしょ」
「金具見てただけ」
姉ちゃんは横で笑っていた。
家に帰ると、鞄の入った大きな紙袋を二階へ運んだ。
机の横には、パソコンを置く台のために空けたはずの場所がある。今は姉ちゃんの雑誌が三冊積まれていて、紙袋はその手前にしか置けなかった。持ち手だけが机の高さより上に出た。
「そこでいいの?」
母さんが入口から聞いた。
「入学式まで使わないし」
「紙袋のままにしておきなさいよ。ほこりつくから」
「分かってる」
夕飯のあと、父さんに呼ばれた。
「夏に電器店でもらった紙、まだあるか」
「引き出しに入ってる」
「持ってきてくれ」
部屋へ戻り、花柄のノートの上に置いていた封筒を取った。
封筒は夏に引き出しの中で横向きに置き直したままで、角が少し曲がっている。
食卓へ持っていくと、父さんは三枚の紙を順番に広げ、店の名前と値段を確かめた。
「二月最後の日曜、もう一度見に行く」
「うん」
父さんはそう言って、封筒の表に日付を書き、俺の方へ戻した。
曲がった角だけが、食卓の上で少し浮いていた。




