第四十八話 五人で歩く日光
修学旅行の朝は、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
窓の外はまだ薄暗い。床に置いた旅行鞄だけが、いつもの朝と違って見えた。
台所へ行くと、母さんがおにぎりを小さな皿に二つ載せた。
「食べられる?」
「うん」
「バスで気持ち悪くなるといけないから、急いで食べないの」
言われた直後に、口に入れた分をゆっくり噛んだ。
姉ちゃんはまだ起きてこない。昨日、見送りは無理、と言っていた。学校に着く頃に起きるらしい。
玄関で靴を履いていると、母さんが鞄の外側を触った。
「しおりは?」
「手提げの中」
「財布」
「入れた」
「ハンカチ」
「あるよ」
ハンカチは、手提げの中を見なくても答えられた。
「帰るまでが修学旅行だからね」
「まだ出てもないよ」
「だから今言うの」
外へ出ると、朝の空気が思ったより冷たかった。
いつもなら誰もいない時間なのに、校門の前にはもう何人も集まっていた。旅行鞄を肩に掛けた子、首から水筒を下げた子、眠そうな親。先生が名簿を持ち、クラスごとに並ぶよう声をかけていた。
一組は先に校庭の奥へ移動していた。二台並んだうち、前のバスに乗るらしい。
二組の列には悠斗がいた。普段より少し大きい上着を着て、両手をポケットに入れている。
「おはよう」
「おはよう。早いな」
「藤宮も」
七海は少しあとから来た。七海のお母さんに鞄の肩ひもを直され、もういいから、と小さな声で言っている。
「見てないでよ」
列へ来るなり、七海が言った。
「見てない」
「今こっち向いてたじゃん」
「来たから見ただけだろ」
先生に名前を呼ばれ、返事をした。
バスでは、悠斗が窓側で、俺が通路側になった。七海は自分の班の女子と、三つ前の席に座っていた。
前のバスが動き出した。後ろの窓越しに一組の子たちが見えたけれど、誰が誰かまでは分からなかった。
二組のバスも、そのあとを追って校門を出た。
最初のうちは、みんな外を見ていた。
先生がマイクで注意を話し終えると、前の席から歌の本が回ってきた。知っている歌が始まり、途中から別の歌になり、誰かが歌詞を一行間違えて笑われた。
悠斗は大きな声では歌わなかった。窓際へ顔を寄せ、信号で前のバスが近づくたびに中を見ている。
「遼太、見える?」
「分かんない」
「一番後ろなら、もうこっち見てると思うけど」
前のバスが曲がり、また遠くなった。
* * *
日光に着く頃には、朝より空が明るくなっていた。
バスを降りると、木のにおいがした。石の道は少し湿っていて、踏むたびに靴の裏が細く鳴る。
先生の話を聞いたあと、班ごとに動き始めた。
小林がしおりを開き、最初の場所を確かめる。平野が一番後ろへ回り、小林が五人そろっているのを確かめてから、俺たちは人の流れに入った。
建物の色は、教科書で見た写真よりずっと濃かった。
三匹の猿の前には、同じようにしおりを持った小学生が集まっていた。先生から聞いた説明を、石田が鉛筆で余白に書いた。
「藤宮、次どっち?」
小林に聞かれ、俺は地図を見た。
目印になる建物が多くて、今どこを向いているのか分からない。
「悠斗が分かる」
悠斗は少し先に立ち、地図と石段を見比べていた。
「こっち。さっきのところまで戻らなくていい」
言われた道へ進むと、予定より早く次の場所に着いた。
「田辺、地図係でよかったんじゃない?」
石田が言った。
「地図係って決めてないけど」
「今決まった」
悠斗は困ったような顔をしたまま、地図を受け取った。
眠り猫は、思っていたより小さかった。
「これ?」
俺が言うと、悠斗も首を傾げて見上げた。
「もっと大きいと思ってた」
「教科書だと、これだけ写ってるからな」
後ろの人がつかえないよう、見終わってから横へよける。
しおりには感想を書く欄があったけれど、まだ何も書かなかった。
石段を下り、次の集合場所へ向かっている時だった。
「藤宮!」
人の向こうから、遼太の声がした。
一組の班が、少し離れた道からこっちへ来る。遼太は首から使い捨てカメラを下げていた。
同じ時に、横の建物から七海の班も出てきた。
「本当に会った」
七海が足を止める。
「だから言っただろ」
遼太は自分の班の男子にカメラを渡した。
「一枚撮って。四人で」
「今?」
「今しかいないだろ」
一組の先生が、班から離れすぎるなと声をかけた。二組の先生も時計を見ている。
俺たちは道の端へ寄った。
遼太が最初に真ん中に立ち、七海に押されて半歩ずれる。悠斗はまだ地図を持ったままだった。
「田辺、それ下げて」
カメラを持った男子が言った。
悠斗は地図をたたみ、脇に下げた。
シャッターの音が一度した。
「撮れた?」
「たぶん」
「もう一枚」
「三浦、行くぞ」
遼太の班長らしい子に呼ばれた。
「じゃあ宿で」
遼太はカメラを受け取りながら言った。
「会えたらね」
七海は自分の班へ戻り、悠斗も地図を開き直した。
三つの班がそれぞれの見学先へ歩き始めると、遼太の声はすぐ、ほかの見学客の声に混じった。
* * *
宿に着いた時には、足の裏がじんじんしていた。
玄関で靴をそろえ、先生に言われた部屋へ向かう。女子の部屋が並ぶ廊下の入口には、先生が立っていた。
俺と悠斗は、二組の男子六人で同じ部屋を使うことになっていた。
畳の部屋の端に、たたまれた布団が重ねてあった。窓際には低い机と、人数分の湯飲みが並んでいる。
「どこで寝る?」
誰かが言った瞬間、窓際と壁際が先に取られた。
悠斗は残った真ん中を見た。
「ここでいい」
「じゃあ俺、隣」
旅行鞄を壁際に置き、寝間着と、風呂へ持っていく袋を出した。
夕食の時間まで少しだけ休めると言われたのに、一人が押し入れを開け、別の一人が窓から下を見て、誰も座ったままにはならなかった。
廊下から先生の声がした。
「走るな。ほかの部屋に勝手に入らない」
部屋の中にいた全員が、一度だけ動きを止めた。
夕食のあと、風呂の時間が近づいた。
寝間着と下着、タオルを姉ちゃんにもらった袋に入れようとすると、寝間着に挟まっていた予備の靴下が、丸まったまま畳に落ちた。
「藤宮、それも持ってくの?」
「違う。姉ちゃんが入れろって言った予備」
靴下だけを鞄に戻し、残りを袋に入れた。
廊下には、もう石けんのにおいが、湿った空気と一緒に流れていた。




