第四十六話 最後の白線
運動会の朝、台所には弁当箱が三つ並んでいた。
母さんが卵焼きを切り、父さんは居間で敷物を畳んでいる。
「こういち、水筒入れた?」
「入れた」
「はちまきは?」
体操服のポケットを触る。
白いはちまきが、四つ折りになって入っていた。
「あるよ」
「帰るまでなくさないでね」
姉ちゃんは、学校の鞄ではなく、ラケットの入った細長いバッグを肩に掛けていた。
「リレー、午後だよね?」
「うん」
「練習終わったら行けるかも」
「別に来なくてもいいよ」
「じゃあ行かない」
「来るかもって言ったの姉ちゃんだろ」
姉ちゃんは玄関で靴を履きながら笑った。
「着くまで、負けないでよ」
「俺一人で走るんじゃないんだけど」
「じゃあ、バトンだけ落とさないで」
母さんに先に出なさいと言われ、姉ちゃんはラケットバッグを壁にぶつけながら玄関を出た。
俺も少し遅れて家を出た。
学校へ近づくと、校庭から音楽が聞こえてきた。
門の前には、敷物や折り畳み椅子を持った親たちが列を作っている。俺はその列の横を抜け、教室へ荷物を置きに行った。
二組の教室では、七海が白いはちまきを結び直していた。
「後ろ、変じゃない?」
「見えない」
「後ろから見てって言ってるの」
結び目は少し左に寄っていた。
「曲がってる」
「直して」
「自分でできるだろ」
「見えないんだから無理でしょ」
悠斗が後ろから手を伸ばした。
「俺がやる」
結び目をつかみ、一度全部ほどいた。
「ほどかなくてよかったのに」
「結んだままじゃ動かないだろ」
悠斗が結び直すと、今度は真ん中になったが、片方だけが長く垂れた。
「これでいい?」
「さっきより変」
七海は左右に垂れた端を手で確かめ、自分で結び直した。
開会式が始まる前に、全員で校庭へ出た。
朝から何度も踏まれた白線は、もうところどころ薄くなっている。六年生は、一組が赤組、二組が白組だった。それぞれ校庭の外側に並んだ。
遼太は一組の列の後ろから、指を一本立てた。
一番になるという意味らしい。
七海は自分の人差し指を下へ向けて返した。
遼太はすぐに腕を高く上げ、立てた人差し指を大きく振った。
「そこ、ふざけない」
一組の先生に言われ、ようやく前を向いた。
午前中は、徒競走と綱引き、それから低学年の玉入れが続いた。
自分の出番が終わっても、応援席へ戻るとすぐ次の競走が始まった。
悠斗は徒競走で二番だった。
「あと少しだったのに」
戻ってきてすぐ言ったが、顔は笑っていた。
「最初、出るの遅かったよ」
七海が言う。
「合図が聞こえにくかった」
「みんな同じ合図で走ってたじゃん」
「俺のところだけ小さかったんだよ」
遼太は悠斗とは別の回で走り、一番で戻ってきた。
二組の前を通る時にわざと速度を落とし、胸を張って歩いたせいで、自分の応援席から早く戻れと呼ばれていた。
昼になると、俺たちも家族のいる場所へ移った。
父さんたちは、校庭の端にある木の近くに敷物を広げていた。
「二番だったな」
父さんが言うと、母さんがすぐに首を振った。
「二番だったのは悠斗くんよ」
「白いはちまきが多すぎるんだ。近くに来るまで分からなかった」
父さんが言い訳する間に、母さんは弁当箱のふたを開けた。
おにぎりを一つ取ったところで、姉ちゃんが校門の方から来た。
ラケットバッグを持ったまま、敷物の端に座る。
「間に合った?」
「リレーは午後」
「よかった。お腹すいた」
姉ちゃんは弁当箱から唐揚げを一つ取った。
「それ、俺の分じゃない?」
「三つあるじゃん」
「四人で三つだよ」
「お母さんの分はこっちに入ってるから、足りるよ」
母さんが別の箱を出した。
姉ちゃんは朝の練習で一度も勝てなかったと話しながら、冷めたおにぎりを二つ食べた。
「運動会終わったら、また練習?」
「今日は終わり。帰ったら寝る」
「応援は?」
「今からするって」
姉ちゃんは水筒の麦茶を飲み、ラケットバッグを敷物の後ろに寝かせた。
午後最後の競技は、六年生の全員リレーだった。
二組の待機場所へ入った。半周向こうの受け渡し線には七海がいた。走る順番は、七海、俺、悠斗と続いていた。
スタート地点の近くでは、一組のアンカーになった遼太が出番を待っていた。
最初の二人が位置についた。
笛が鳴る。
一組と二組の走者が、バトンをつなぎながら校庭を回り始めた。
最初は一組が前だった。
二組が一度前へ出たが、次の走者でまた横一線になった。応援席の声が重なり、誰の名前を呼んでいるのか分からなくなった。
七海にバトンを渡す女子が、曲線へ入った。
「宮下、行け!」
七海が走り出す。
練習より少し早いように見えた。
後ろへ出した手に、バトンが一度で入る。七海は振り返らず、そのまま前の一組を追った。
俺も線の手前で走り始める。
「藤宮!」
七海の声が聞こえた。
右手を後ろへ出す。
手のひらに、硬いバトンがしっかり収まった。
握ってから腕を前へ振る。
隣を走る一組の走者とは、ほとんど同じ位置だった。
直線では少し前へ出たが、曲線へ入ると足が外へ流れる。内側の走者に、また並ばれかけた。
悠斗の背中が見えた。
「行け!」
悠斗が走り出す。
練習の時と同じところで追いついた。
「悠斗!」
伸ばされた手にバトンを押し込む。
バトンを離すのが少し遅れ、俺の指先が悠斗の手に一瞬触れた。
それでも落ちなかった。
悠斗は前を向いたまま速度を上げた。
「つながった!」
七海が横から言った。
「落とさなかったな」
「うん!」
七海と顔を見合わせたのも一瞬で、すぐに悠斗の背中へ向き直った。
「悠斗、行け!」
二組の列へ戻ってからも、バトンが渡るたびに声が出た。
そのあと、二組が何度か一組より前へ出た。
アンカーにバトンが渡る直前、二組が半歩ほど先だった。
一組のアンカーは遼太だった。
遼太はバトンを受けると、最初の数歩で二組の走者に並んだ。
直線へ入る。
遼太は口を開けたまま、腕を大きく振っている。
二人がほとんど同時に白い線を越えた。
どちらが先か、応援席からは分からなかった。
先生たちが短く話し、赤組の旗が上がった。
一組の応援席から声が上がる。
遼太は止まりきれず、線を越えた先で何歩も走ってから振り返った。
大きく両手を上げている。
「負けた」
悠斗が言った。
「惜しかったね」
七海は白いはちまきをつけたまま、悔しそうにゴールを見ていた。
俺のいたところからは、家族の敷物が見えた。
父さんは立って拍手をしていた。母さんも手を振っていた。
姉ちゃんは座ったまま、口の横に手を当てて何か叫んでいた。周りの声に消されて、何を言ったのかは聞こえなかった。
閉会式のあと、六年生は片づけに残った。
旗を畳み、椅子を体育館に戻し、校庭に打ち込まれていた杭を抜く。
「一組、速かっただろ」
遼太が、まだ赤いはちまきを首に掛けたまま来た。
「最後だけでしょ」
七海が言う。
「最後で勝ったんだからいいだろ」
「二組だって、途中は勝ってたよ」
「ゴールした時に前だった方が勝ちだろ」
七海が言い返そうとしたところで、遼太が一組の先生に呼ばれた。
遼太は白線の外側を歩きながら戻っていった。
俺はライン引きを倉庫まで運んだ。
車輪の脇から白い粉が少しこぼれ、薄くなった白線のそばに新しい跡を残した。
教室へ戻ると、机の上に薄い冊子が置かれていた。
表紙には、修学旅行のしおり、と書いてある。
「今日は持って帰るだけです。名前を書いて、次の登校日に持ってきてください」
先生が言った。
七海はしおりより先に、自分のはちまきがまだ頭にあることに気づいた。
「これも返すんだっけ」
「洗ってからだって」
悠斗が、しおりの一頁目をもう開いていた。
俺も鞄に入れようとしたが、水筒と体操服で中がいっぱいだった。
端を少し曲げて押し込むと、七海に、名前を書く前になくさないでよ、と言われた。




