第五話 八百円の使い道
その日の帰り、ランドセルがまた少し重かった。
国語と算数の教科書は昨日と同じはずなのに、ノートが一冊増えただけで肩にくる。給食袋も揺れるし、手提げもある。小学生は、思っていたより荷物が多い。
「藤宮、今日どうすんの」
悠斗が横から聞いてきた。
「遊びに行くかってこと?」
「そう。今日もどっか行く?」
「今日もって、昨日そんな遊んでないだろ」
「遊んだじゃん。遼太んちでゲームしたし」
「一時間くらいだろ。あれ、遊んだうちに入る?」
「入るだろ。俺、順番待ってる時間の方が長かったけど」
「それはお前が負けるの早いからだろ」
「うるさいな。短いもんは短い」
悠斗は当たり前みたいに言った。
たしかに、小学生の放課後は短い。学校が終わって、家に帰って、ランドセルを置いて、友達の家まで行って、気づいたらもう夕方になる。
会社帰りの夜とは違う。
明るい時間が、変に早く減っていく。
「今日は無理かも」
「なんで。用事あるの?」
「母さんに聞かないと分かんない」
「聞いてから来れば?」
「どこ行くんだよ」
「駄菓子屋。遼太も来るかもしれないし」
駄菓子屋。
その言葉で、頭の中に小さい店が浮かんだ。学校から少し離れた角にあって、入り口の横にガチャガチャが置いてある。奥の方にアイスの冷凍庫があって、レジの横に十円のガムが並んでいる。
まだあるのか。
「まだやってんの、あそこ」
「やってるし。知らなかったのかよ。行く?」
「母さんに聞いてからな」
「じゃあ三時半くらい」
「勝手に決めんな」
「来れたら来いよ」
「行けたらな」
悠斗はそう言って、途中の角で手を振った。
家に着くと、母さんが洗濯物をたたんでいた。
「おかえり」
「ただいま」
「今日は早いね。今日も遊びに行くの?」
「駄菓子屋行くかも」
「誰と行くの?」
「悠斗。たぶん遼太もいる」
「田辺くんね。何時まで?」
「五時までには帰る」
「最近ちゃんとしてるね」
「昨日言われたからだって」
母さんは少し笑って、たたんでいたタオルを重ねた。
「そうだ。今月のお小遣い、まだだったね」
俺は靴下を脱ぎかけたまま止まった。
「お小遣い?」
「うん。四月分」
母さんが食器棚の引き出しを開ける。そこから小さい封筒を出した。
茶色い封筒。
表に、こういち、と書いてある。
中には、百円玉が何枚かと、五十円玉と十円玉が入っていた。
「はい。八百円」
八百円。
封筒を受け取ると、思っていたよりずっしりした。硬貨だからだ。大人になってからなら、財布の中で邪魔になるくらいの小銭なのに、今は妙に重い。
「一気に使わないのよ」
「分かってる」
「ほんとかな」
「ほんと」
「駄菓子屋行くなら、なおさらね」
母さんが言う。
駄菓子屋。
八百円。
この二つが並ぶと、急に頭の中が忙しくなった。
十円のガムなら八十個。
三十円のチョコなら、二十個以上。
百円のガチャなら八回。
そこまで考えて、ばかみたいだと思った。八十個もガムはいらない。
「何その顔」
「別に」
「もう何買うか考えてたでしょ」
「ちょっと」
「やっぱり」
母さんは笑って、また洗濯物に戻った。
俺は自分の部屋に行って、机の上に封筒を置いた。
八百円。
今の俺にとっては、大金だ。
でも、これを全部使ったら、終わり。
来月まで、また待つ。
昔の俺は、そんなに考えていなかった。あれば使う。足りなければ我慢する。欲しいものがあれば、誕生日かクリスマスまで待つ。
それで普通だった。
俺は封筒から百円玉を三枚出した。
三百円。
駄菓子屋なら、これだけでもけっこう買える。
残りは机の引き出しに入れようとして、少し迷った。
貯金箱。
青い缶のやつ。
机の端に、置いてある。
俺は封筒の残りをそのまま貯金箱の横に置いた。入れるのは、帰ってからでいい。
全部持っていくと、たぶん使う。
いや、使ってしまう。
「行ってきます」
玄関で言うと、母さんが台所から顔を出した。
「お金、持ちすぎないようにね」
「三百円だけ」
「あら、えらい」
「別に」
「落とさないでね」
「うん」
靴を履いて外に出る。
ポケットの中で百円玉が三枚鳴った。
ちゃり、ちゃり、と歩くたびに音がする。落とさないように、何度もポケットの上から押さえた。
駄菓子屋の前には、もう悠斗がいた。
遼太もいる。
「遅い」
「三時半前だろ」
「俺らもう来てる」
「早すぎ」
遼太が店の前のガチャガチャをのぞき込んでいた。
「藤宮、金持ってきた?」
「三百円」
「多」
「多いか?」
「俺百五十円」
悠斗がポケットから小銭を出した。十円玉が何枚か混ざっている。
「遼太はいくら持ってきた?」
「二百円。今日はけっこうある」
「藤宮、多すぎ」
「三百円だぞ」
「三百円も、だろ」
「今日の藤宮、金持ちじゃん」
遼太が真顔で言った。
店の中に入ると、匂いがした。
甘い匂いと、古い木の棚の匂い。小さい袋に入った菓子が、棚にぎっしり並んでいる。値札は手書きで、十円、二十円、三十円。奥には冷凍庫があって、ガラスのふたが少し曇っていた。
レジのところに、おばちゃんが座っている。
「いらっしゃい」
悠斗は返事もそこそこに、すぐ棚の前へ行った。
「俺これ」
細長いゼリーみたいなやつを一本取る。
「早」
「悩んでも一緒だし」
遼太はガムを二つ取って、ガチャガチャの前に戻った。
「一回やる」
「それ百円だろ」
「一回だけ」
「一回って言うやつ、だいたい一回でやめない」
「やらないし」
遼太は百円玉を入れて、ハンドルを回した。
カプセルが落ちてくる音がした。
「あ、これじゃない」
「ほら」
「もう一回」
「やっぱり」
悠斗が笑う。
俺は棚の前で止まっていた。
十円のガム。
三十円のチョコ。
五十円のスナック。
百円のアイス。
どれでも買える。
それなのに、なかなか手が伸びない。
三百円あれば、十円や二十円の菓子をいくつも買える。
「藤宮、悩みすぎ」
悠斗が横からのぞいてきた。
「うるさい。見るな」
「それ、すっぱいやつ」
「どれのこと?」
「それ。赤いやつ」
「これか?」
「たぶんそれ」
「たぶんかよ」
悠斗はもうゼリーを食べていた。
「早いって」
「うまい」
「まだ店の中だろ」
「おばちゃん、いい?」
「いいよ。棒だけ捨ててね」
おばちゃんが新聞を読みながら言った。
この緩さ。
こういうの、あった。
俺は三十円のチョコを一つ取った。それから、十円のガムを二つ。迷って、五十円のスナックも取る。
合計、百円。
まだ二百円残る。
「藤宮、少な」
遼太が言った。
「まだ見る。買わないけど」
「買えよ。金持ちだろ」
「三百円で金持ちって言うな」
「今日の藤宮は金持ち」
「じゃあ、使わない」
「なんでだよ」
悠斗が笑う。
たしかに、自分でも少しけちくさい。
俺も少し笑った。
「やっぱ今のなし」
「なしじゃない。金持ち藤宮」
「やめろ」
レジにお菓子を持っていくと、おばちゃんがゆっくり数えた。
「三十円、十円、十円、五十円で、百円ね」
百円玉を一枚出す。
おばちゃんが小さい袋に入れてくれた。
袋を受け取るだけなのに、少し嬉しい。
店の外に出ると、遼太が二回目のガチャを回していた。
「やってるじゃん」
「これは違う。一回目が外れたから」
「それを二回目って言うんだろ」
「うるさい」
カプセルが落ちた。
遼太が開ける。
「あ、出た」
「まじ?」
悠斗が寄る。
二人で小さい人形みたいなのを見ている。
「いいな」
「当たりだろこれ」
「貸して」
「やだ」
俺も横から見た。
知らないキャラだった。けれど、二人が本気でうらやましがっているのは分かった。
百円で、こんなに盛り上がれる。
それはそれで、すごい。
「藤宮もやれば?」
遼太が言った。
「やらない。今日は見るだけでいい」
「なんで。出るかもしれないじゃん」
「さっき外れたの見たし」
「次は当たりかもしれないだろ」
「藤宮、面白くないな」
悠斗が言った。
面白くない。
百円のガチャを回さないだけで、そこまで言われる。
俺は少し迷って、ポケットの中の百円玉を触った。
残り二百円。
一回ならできる。
でも、ここで使ったら残り百円。
来月まで、長い。
「一回だけやる」
「お」
「金持ち」
「言うな」
百円玉を入れる。
ハンドルを回すと、思っていたより重かった。途中で少し引っかかって、力を入れる。
がこん、と音がして、カプセルが落ちた。
開ける。
知らないやつだった。
「誰これ」
俺が言うと、遼太がのぞいた。
「外れ」
「見ただけで分かるのかよ」
「分かる。外れ」
「まじか」
悠斗が笑う。
「藤宮、運ない」
「うるさい」
カプセルの中の小さい人形は、変なポーズをしていた。外れと言われると、外れにしか見えない。
百円が消えた。
たった百円。
でも、惜しい。
「もう一回やれば?」
遼太が言う。
「やらない。もう百円使った」
「次出るかも」
「それ、さっきも聞いた」
「今度こそってやつ」
「だからやめとく」
俺は人形をポケットに入れた。
残り百円。
三百円は多いと思っていたのに、使うと早かった。
さっきまで三枚あった百円玉が、もう一枚しかない。
駄菓子屋を出たあと、三人で近くの本屋へ行った。
本屋は、駄菓子屋より少し明るい。雑誌が入り口の近くに積まれていて、漫画の新刊が棚に並んでいる。ゲームの雑誌もあった。
分厚いやつ。
表紙に、見覚えのあるキャラが載っている。
値段を見る。
四百八十円。
買えない。
さっきのガチャをやらなくても、今日の三百円では買えなかった。家に残した五百円を足せば買える。でも、それをやったら今月のほとんどが消える。
俺は雑誌を手に取った。
ページを開くと、新作ゲームの記事が載っている。ゲームの画面は小さくて、説明も少ししかない。それでも、読んでいるだけで楽しい。
この先どうなるか、少しだけ知っている。
でも、今のページの小さなゲーム画面を見ていると、そんなことはどうでもよくなる。
発売前の記事を友達と読む。
攻略本を回し読みする。
こういうことを、ちゃんとやりたかった。
「買うの?」
悠斗が横から聞いた。
「買えない。今日持ってきたお金じゃ足りない」
「いくらすんの?」
「四百八十円」
「高」
「高いよな」
「立ち読みでいいじゃん」
悠斗は普通に言った。
そうだった。
本屋で、少しだけ読む。
店員に見られたら戻す。
買えない雑誌を、欲しいと思いながら読む。
それも、あの頃の普通だった。
遼太が隣で漫画の棚を見ている。
「これ、来月買う」
「今月じゃないのか」
「今月はガチャでなくなった」
「さっきだろ」
「さっきなくなった」
遼太は全然悪びれていない。
俺は雑誌を棚に戻した。
買わない。
でも、覚えておく。
四百八十円。
八百円の中の四百八十円。
かなり大きい。
「藤宮、何も買わないの?」
悠斗が聞く。
「今日はいい。駄菓子は買ったから」
「雑誌は?」
「雑誌はいい。高いし、買ったらほとんどなくなる」
「買えばいいのに」
「だから金なくなるだろ」
「またもらえば?」
「来月な」
本屋を出ると、夕方にはまだ早かった。
駄菓子屋の袋を開けて、三人でスナックを分けた。五十円のやつなのに、袋の中身は思ったより少ない。
「少な」
悠斗が言う。
「五十円だし」
「五十円もするのに」
「どっちだよ」
遼太が笑う。
俺は十円のガムを一つ悠斗に渡した。
「いいの?」
「二つあるし、一個ならいい」
「金持ち」
「それやめろ。十円のガムだぞ」
「金持ち藤宮」
「やめろって」
悠斗はガムを口に入れて、すぐ顔をしかめた。
「すっぱ」
「当たり?」
「外れ」
「ガムにも外れあるのかよ」
くだらないことで、三人で笑った。
家に帰ると、ポケットには十円玉が何枚かと、百円玉が一枚残っていた。
机の上には、朝置いていった封筒がある。
五百円。
ポケットの残りと合わせると、六百円。
八百円あったのに、もう六百円。
百円のガチャと、百円のお菓子。
それだけで二百円なくなった。
俺は机に小銭を並べた。
百円玉。
五十円玉。
十円玉。
貯金箱のふたを開ける。
中には、前から入っていた小銭が少しあった。いくらあるのかは分からない。
今日の残りを入れる前に、少し考えた。
全部入れたら、明日何も買えない。
全部持っていたら、使ってしまう。
俺は百円玉を一枚だけ机の引き出しに入れた。
残りを貯金箱に入れる。
ちゃりん、と音がした。
軽い音だった。
「こういち、ご飯できるよ」
母さんの声がした。
「今行くー」
俺は貯金箱のふたを閉めた。
引き出しの中には、明日の百円玉が一枚だけ残っている。




