第四話 字が追いつかない
朝、ランドセルを開けたら、雑巾が入っていた。
白い雑巾が一枚、国語の教科書の上にのっている。端に青い糸で、ふじみや、と書いてあった。
母さんの字だ。
俺はそれを少しだけ見てから、ランドセルのふたを閉めた。
「こういち、ハンカチ持った?」
台所から声がする。
「ハンカチは持った」
「ティッシュも入れた?」
「入れた……と思う」
「その言い方、あやしいなあ」
ポケットを触ると、ハンカチはあった。ティッシュはなかった。
俺は何も言わずに引き出しを開けて、ポケットティッシュを一つ入れた。
「入れた」
「今?」
「今」
「じゃあ、よし」
母さんは笑って、味噌汁の鍋を見に戻った。
朝ごはんは、昨日とほとんど同じだった。ご飯、味噌汁、焼いた魚、卵焼き。テレビでは天気予報をやっていて、父さんは新聞をたたみながら味噌汁を飲んでいる。
「今日から授業か」
父さんが新聞を横に置いた。
「たぶん」
「たぶんじゃないだろ」
「国語と算数ある」
「なら授業だな」
父さんはそれだけ言って、卵焼きを一つ取った。
授業。
その言葉を聞いたら、少しだけ背中が固くなった。
小学校の授業なんて、今なら分かる。
そう思いそうになって、やめた。
昨日、コントローラーのボタン一つであんなに引っかかった。鉛筆で名前を書くだけでも、字が太くなった。
頭で分かっていても、思った通りにいかないことはある。
「熱いから冷まして食べなさい」
「分かってる」
俺は味噌汁を飲んだ。豆腐が熱くて、少しだけ口の中で転がした。
「ほら、熱かったんでしょ」
母さんが笑う。
俺は茶碗を持ち直した。手の中の茶碗が、少し大きい。
家を出ると、朝の道にはランドセルの子が何人もいた。
昨日より少しだけ、歩くのが楽だった。ランドセルは重いけれど、二日目だからか、変にそわそわしない。
角を曲がると、悠斗が電柱の横で立っていた。
「おそ。待ったし」
「遅くないだろ」
「俺の方が早い」
「昨日も言ってた」
「じゃあ今日も俺の勝ち」
「何にだよ」
悠斗は笑って、俺のランドセルを横から軽く叩いた。
「重そう」
「教科書入ってるし」
「俺も入ってる」
「じゃあ一緒だろ」
「いや、俺の方が軽い気がする」
「気のせいだろ」
並んで歩く。昨日は家から学校まで、何を見ても変だったけれど、今日は悠斗が横でどうでもいいことを言っている。
犬がいた。
白っぽい犬が、家の前でしゃがんでいる。
「あいつ、いつもいるよな」
悠斗が言った。
「いたっけ」
「いるし。たぶん昨日もいた」
「たぶんかよ」
「見てないけど」
「それ、いないだろ」
犬はこっちを少し見て、すぐ横を向いた。
ああ、こんな道だったなと思った。
犬のいる家、少し割れたブロック塀、曲がり角のミラー。歩くたびに、ああ、ここも通った、と思う。
学校に着くと、昇降口が昨日よりうるさかった。
靴箱の前で誰かが押されて、「押すなって」と言っている。上履きを落とした子がしゃがんで、その横を別の子がまたいでいく。
俺は自分の靴箱の前で、少しだけ止まった。
上履き。
昨日、かかとが脱げたやつを思い出した。
今日はちゃんと履く。
かかとまで指で押し込んでから、廊下に出た。
「藤宮、なにしてんの」
後ろから七海の声がした。
「靴履いてる」
「見れば分かる」
「なら聞くなよ」
「なんかていねいだったから」
七海は俺の足元を見て、少し笑った。
「昨日のあれ、気にしてる?」
「別に。ちょっと履き直しただけ」
「うそだ」
「うそじゃない」
「じゃあなんでそんなちゃんと履いてんの」
「脱げたらめんどい」
「それはそう」
七海は納得したみたいにうなずいて、先に階段へ向かった。うなずくほどの話ではない。
教室に入ると、机の上にランドセルを置く音があちこちでしていた。
黒板には、朝の用意、と書いてある。
国語。
算数。
連絡帳。
雑巾。
俺はランドセルを開けて、母さんの字が書かれた雑巾を取り出した。
教卓の横に箱が置いてある。もう何枚か入っていて、白いのや、少し黄色いのや、キャラクターのタオルを縫ったやつが重なっていた。
俺の雑巾をその上にのせる。
「藤宮、ちゃんと持ってきたんだ」
七海が横からのぞき込んだ。
「持ってくるだろ。昨日ちゃんと書いたし」
「男子、忘れるじゃん」
「全員じゃないだろ」
「だいたい」
七海はそう言って、自分の雑巾も箱に入れた。端に、みやした、と丸い字で書いてある。
「田辺、忘れてそう」
「聞こえてる」
悠斗が後ろから言った。
「持ってきたの?」
「あるし」
悠斗はランドセルをごそごそ探した。
少しして、くしゃっとなった雑巾を出した。
「ほら」
「なんでそんなぐちゃぐちゃなの」
「入ってたからいいだろ」
「よくない」
「いいし」
七海が笑う。悠斗は雑巾を箱に放り込もうとして、ちょうど入らずに床に落とした。
「あ」
「ほら」
「落ちただけだし」
悠斗が拾って、今度はちゃんと箱に入れた。
それを見ていたら、俺の中のどこかが少しだけゆるんだ。
忘れ物をしなかった。
「はーい、座れー」
佐伯先生が教室に入ってきた。
「朝の会やるぞ。日直」
「はい」
前の席の女子が立つ。
「きりーつ」
椅子が一斉に鳴った。
「おはようございます」
「おはようございます」
声は少しばらばらだった。後ろの方で、誰かが小さく笑っている。
俺も口を動かした。
おはようございます。
会社の朝とは、全然違う。
一時間目は国語だった。
教科書を開くと、新しい紙の匂いがした。ページの端がまだ固くて、押さえていないと閉じそうになる。
「じゃあ、まず音読な。丸のところまで読むぞ」
佐伯先生が言うと、教室のあちこちで「えー」と声が上がった。
「えーじゃない。読むだけだ」
「読むのがいやなんじゃん」
誰かが小さく言って、近くの子が笑った。
俺は教科書の文章を見た。
分かる。
当たり前だけど、読める。
声に出すとなると、急に口が重くなった。どのくらいの声で読めばいいのか、どこで区切ればいいのか、少し迷う。
「藤宮、次」
急に名前を呼ばれた。
「あ、はい」
立つ。
椅子の足が床をこすった。教科書を持つ手に、少し力が入る。
読む場所を目で探した。
どこだ。
七海が斜め前から、教科書の端を少しだけ指で叩いた。
ここ。
声は出さない。ただ、指だけ。
俺は小さくうなずいて、そこから読んだ。
最初の一文は、少し早くなった。二文目でゆっくりにする。今度は、ゆっくりすぎた。
自分の声が教室に出ている。
それが、思ったより恥ずかしい。
「はい、そこまで」
先生が言った。
座ると、悠斗が後ろから小さくつついてきた。
「声ちっさ」
「うるさい」
国語の時間は、そのあと漢字になった。
新しい漢字をノートに書く。
俺は黒板を見た。
順番に線が増えていく。先生が大きく書いた字は分かりやすい。分かりやすいのに、ノートに写すと少し変になる。
とめる。
はねる。
はらう。
昔、そういう言葉を聞いた気がする。
鉛筆を持つ指に力が入る。強く書きすぎると、紙に跡が残った。弱くすると、線がふにゃっとする。
大人の俺なら、字なんていくらでも書いてきた。
でも、鉛筆でマスの中に書くのは別だった。
黒板の二つ目の漢字に移ったころ、俺はまだ一つ目を書いていた。
「藤宮、遅」
七海が小さく言う。
「うるさい」
「字、またちっちゃい」
「見んな」
「見えちゃう」
「前向けよ」
七海は少し笑って、前を向いた。
俺は消しゴムで一画だけ消した。消しゴムのかすが、マスの横に残る。
早く書こうとすると汚くなる。
きれいに書こうとすると遅くなる。
答えは分かっているのに、こういうところで止まる。
「はい、三回ずつ書いたら先生に見せに来い」
佐伯先生の声がした。
みんながざわっと動く。
え、もう。
俺は残りを少し急いで書いた。最後の一回は、明らかに雑になった。
ノートを持って並ぶ。
前の子の背中が近い。ノートを抱えて、少しずつ進む。先生の赤鉛筆が、丸をつけたり、線を直したりしている。
「藤宮」
「はい」
先生は俺のノートを見た。
「読めるけど、急いだな」
「最後だけちょっと雑だな」
「次は最後まで同じくらいで書け」
「はい」
赤鉛筆で一つだけ丸がついた。
戻る途中、悠斗が俺のノートを見ようとした。
「丸ついた?」
「一個だけ」
「少な。俺二個」
「うるさい。見んなって」
「自慢かよ」
「自慢」
悠斗はにやっと笑った。
二時間目は算数だった。
算数なら、いける。
そう思った。
先生が黒板に問題を書く。
大きな数の計算。
見た瞬間、答えは分かる。やり方も分かる。間違えようがないくらい簡単に見える。
けれど、ノートに式を書くと、また遅い。
数字を書く。
位をそろえる。
線を引く。
その線が少し斜めになる。
消す。
書き直す。
答えが分かっているのに、ノートが追いつかない。
「できた人」
先生が言う。
何人かが手を挙げた。
俺は手を挙げなかった。
答えは分かっている。
でも、ノートの途中だった。
「じゃあ、宮下」
「はい」
七海が立つ。
「えっと、三千二百四十六」
「はい、正解」
七海が座る時、こっちを見た。
ちょっとだけ得意そうな顔だった。
俺はノートに答えを書いた。
三千二百四十六。
分かってた。
そう言いたくなって、やめた。
言ったところで、何にもならない。
休み時間になると、悠斗がすぐこっちに来た。
「藤宮、算数できてなかった?」
「できてた。書くのが遅かっただけ」
「手ぇ挙げてなかったじゃん」
「だから書いてたんだって」
「遅」
「遅いって言うな」
「遅いもん」
悠斗は悪気なく言う。
そこへ七海が来た。
「藤宮、さっきの答え分かってたでしょ」
「分かってたけど、手を挙げるところまでいかなかった」
「じゃあ手挙げればよかったのに」
「ノートまだ途中だったんだよ」
「まじめじゃん」
「違うって。写すのが遅れただけ」
「それ、遅いだけじゃん」
「それは言うな」
七海が笑う。悠斗も笑う。
俺も少しだけ笑った。
笑ったけれど、ちょっと悔しかった。
分かっているのに、遅い。
それは思ったより嫌だった。
「次、外行く?」
悠斗が言った。
「外?」
「ドッジ」
「今から?」
「休み時間だし」
教室の後ろでは、もう何人かがボールを取りに行く話をしていた。
外。
俺はノートを閉じた。
もう少し書き直したい気もした。でも、休み時間にノートを直していたら、それこそ何か変だ。
「行く」
「よし」
悠斗が先に走っていく。
「走るなー」
廊下の向こうから先生の声がした。
悠斗は一瞬だけ早歩きになって、すぐまた小走りになった。
「田辺、怒られるよ」
七海が言う。
「まだ怒られてない」
「それ言う人、だいたい怒られる」
俺は上履きのかかとを踏まないように、少しだけ気をつけて歩いた。
校庭に出ると、風があった。
砂が少し乾いていて、靴の裏でざりっと鳴る。ボールを持った男子が、もう線を引こうとしていた。線といっても、足で地面をこするだけだ。
「藤宮、こっち」
悠斗が手を振る。
俺はそっちへ行った。
ドッジボールなんて、久しぶりどころじゃない。
ボールを投げる。
避ける。
当たったら外へ出る。
ルールは分かる。
ボールを避けられるかは、やってみないと分からない。
「始めるぞー」
誰かが言って、ボールが投げられた。
思ったより速い。
というか、近い。
俺は一歩横に動いた。つもりだった。
足が砂に少し取られて、体が遅れる。
ボールは横を抜けていった。
「藤宮、びびった?」
悠斗が笑う。
「びびってない」
「今、顔やばかった」
「見てんなよ」
「見えるし」
次のボールが来た。
今度は、腕に当たった。
ばすっと音がして、少し痛い。
「あ、藤宮アウト」
「今の強くね?」
「普通に当たってた」
「普通じゃないだろ。けっこう痛いぞ」
「でもアウトはアウト」
外野に出る。
腕をさすると、じんじんした。
痛い。
小学生のボール、普通に痛い。
外野からボールが回ってきた。
「藤宮、投げろ!」
悠斗が中から叫ぶ。
俺はボールを持った。
軽い。
軽いのに、投げようとすると肩が変に力む。
狙う。
七海が内野の端にいた。
こっちを見ている。
「え、私?」
「いや」
「いやって何」
俺は七海じゃなくて、横の男子に投げた。
ボールは思ったより上にいって、そのまま誰にも当たらず転がった。
「へた!」
悠斗が笑う。
「うるさい」
「藤宮、今日ずっとへた」
「ずっとじゃない。今のはちょっと変なとこ飛んだだけ」
「ゲームもそんなこと言ってた」
「昨日の話するな」
七海も少し笑っていた。
悔しい。
でも、嫌ではなかった。
休み時間が終わるチャイムが鳴るころには、額に少し汗をかいていた。
教室に戻ると、国語のノートが机の上に開いたままだった。
俺は自分の席に座って、さっきの漢字を見た。
最後の一回だけ、やっぱり汚い。
消しゴムを持つ。
でも、すぐには消さなかった。
窓の外では、まだ誰かが校庭から戻ってきている。廊下では先生が「早く手洗って戻れー」と言っている。
俺は最後の一文字だけ、もう一度書いた。
さっきより、少しましだった。
昼前の授業が始まる直前、悠斗が後ろから小さく言った。
「藤宮、まだ書いてんの」
「一個だけ。さっきのが汚かった」
「まじめじゃん」
「うるさい」
「でもさっきよりマシじゃん」
「まあ、ちょっとだけ」
言ってから、少しだけノートを閉じるのが遅れた。
俺はノートを閉じた。
鉛筆を持つ手は、まだ少しだけぎこちなかった。
チャイムが鳴った。
先生が教室に入ってくる。
俺は鉛筆を持ち直した。




