第三話 たぶんいるし
始業式は、長かった。
体育館の床に座ると、足がすぐ痛くなる。前の子の背中を見ながら、校長先生の声を聞く。マイクが少し割れて、語尾だけが体育館の上の方でぼやけた。
春休みが終わりました。
新しい学年です。
目標を持って過ごしましょう。
たぶん、そんな話だった。
昔の俺は、こういう話をほとんど聞いていなかったと思う。今も全部は入ってこない。足は痛いし、体育館は少し寒いし、横の列では誰かが膝を抱え直している。
昨日までなら、会社で座っている時間の方がずっと長かった。会議だってあったし、誰かの長い説明を聞くこともあった。それなのに、体育館の床に座っているだけで、こんなに落ち着かない。
隣の列で、悠斗が小さくあくびをした。
先生に見つかって、軽く頭を下げている。
俺は少しだけ笑いそうになって、下を向いた。
始業式が終わると、体育館のざわめきが一気に大きくなった。先生たちが「静かに」「まだ動かない」と言っているのに、みんな半分立ちかけている。上履きの音が、体育館の床でばたばた鳴った。
四年二組の列で教室へ戻る。
階段を上がる途中、前の男子が急に止まって、俺の足も止まった。後ろから悠斗が背中にぶつかる。
「止まんなって」
「俺じゃない」
「じゃあ誰だよ」
「前」
前の男子が振り返って、少し笑った。
「ごめん。靴ぬげた」
見ると、上履きのかかとが半分脱げている。
なんだそれ。
そう思ったのに、少しだけ懐かしかった。上履きって、こんなに簡単に脱げるものだった。
教室に戻ると、机の上に教科書が配られていた。
国語、算数、理科、社会。
新しい教科書の匂いがする。つるっとした表紙を指でなぞると、まだ開かれていない本の硬さがあった。
「名前書いとけよー。あとで分かんなくなるぞ」
佐伯先生が黒板の前で言った。
周りの子たちが鉛筆を出し始める。机の中をがさがさ探す音があちこちで鳴った。
俺も筆箱を開けた。
鉛筆が短い。
消しゴムも、角が丸い。
教科書の表紙に、藤宮恒一、と書く。
久しぶりに鉛筆で自分の名前を書いた。まっすぐ書こうとすると少し力が入る。藤の字の線が、思ったより太くなった。
「藤宮、字ちっちゃ」
斜め前から七海が振り返った。
「見るなって」
「見えるもん」
「見なくていいだろ」
「名前書いてるだけじゃん」
七海はそう言って、自分の教科書に大きく名前を書いた。宮下七海。七の横線が少し長い。
「ほら、私の方が見やすい」
「でかいだけ」
「ひど」
七海は口ではそう言ったけれど、少し楽しそうだった。
後ろから白石が言う。
「藤宮、筆圧つよ」
「見てたのかよ」
「見えた」
「みんな見すぎだろ」
そう言って、国語の教科書を少しだけ机の内側へ寄せた。藤の字の横に、消しゴムのかすがついていた。
それをランドセルに入れると、肩紐が少し沈んだ。
「重っ」
誰かが言う。
「今日これ持って帰んの?」
「全部持って帰れー」
佐伯先生が答える。
「えー」
「えーじゃない。名前書いたら持って帰る。明日持ってくるやつは連絡帳に書くからな」
連絡帳。
そうだった。明日の持ち物は、自分で写して帰るんだった。書き忘れたら、そのまま忘れるかもしれない。
先生が黒板に、明日の持ち物を書き始めた。
国語。
算数。
筆箱。
連絡袋。
雑巾一枚。
ぞうきん。
その文字を見た瞬間、ああ、と思った。母さんに言わないといけないやつだ。昔の俺なら、たぶん夜になってから思い出していた。
連絡帳に書く。
字はまだ少し変だったけれど、読める。
「藤宮、真面目」
七海がまた振り返る。
「書かないの?」
「書くけど」
「じゃあ書けよ」
「今書こうと思ってた」
七海はむっとした顔で前を向いた。
勝った、みたいな気がした。
俺は連絡帳に鉛筆を置いた。少しだけ、字が大きくなった。
みんなランドセルに教科書を詰めて、連絡袋を入れて、椅子をがたがた鳴らしている。
佐伯先生が前で手を叩いた。
「はーい、聞けー。今日はここまで。寄り道すんなよ。遊びに行くやつも、家にランドセル置いてからな」
「はーい」
声がそろわない返事が教室に広がった。
誰かの机にランドセルが当たって、また椅子が鳴った。
昇降口を出ると、悠斗がもう横にいた。
「藤宮、三時な」
「三時?」
「遼太んち。ランドセル置いたら三時集合な」
「遼太いるの?」
「たぶんいる」
昨日と同じくらい適当だった。
「いなかったら?」
「公園」
「適当だな」
「だって探すのめんどいし」
いなかったら家まで行って、公園ものぞく。それでも会えなかったら帰る。誰かがいれば、そのまま遊ぶ。
「分かった。三時な」
「遅れんなよ」
「お前もな」
「俺は遅れない」
悠斗はそう言って走っていった。
たぶん遅れる。
俺はランドセルの肩紐を握り直して、家に向かった。
帰り道は、朝より少し暖かかった。教科書のぶんランドセルが重い。給食袋が揺れて、太ももに何度も当たる。
家に着くと、母さんが台所から顔を出した。
「おかえり。早かったね」
「ただいま」
「何組だった?」
「二組だった。遼太と同じ」
「田辺くんと一緒ならよかったね」
「うん。七海もいた」
「七海ちゃんも? よかったじゃない」
「三時に遼太んち行っていい?」
「宿題は?」
「今日はないと思う」
「じゃあ、連絡帳見せて」
危ない。
俺はランドセルを下ろして、連絡帳とプリントを出した。連絡袋の中には、保護者向けの紙が何枚か入っている。
「これ、出すやつ」
母さんは少し目を丸くした。
「珍しい。自分から出した」
「別に。見せろって言われると思ったし」
「明日、雑巾いるのね」
「うん。たぶん一枚」
「あとで一枚出しとく。おやつ食べる?」
「時間ないからいい」
「三時に行くことになってる」
「じゃあ、これ持ってく?」
母さんが戸棚から小さい袋のせんべいを出した。
「向こうで食べるなら、みんなで分けてね」
「分かった」
「あと、五時までね」
「五時?」
「そう。暗くなる前に帰っておいで」
五時。
早い、と思った。でも春の夕方は、すぐ暗くなる。
「分かった」
「ほんとに分かってる?」
「分かってるって」
母さんはまだ少し疑っている顔をした。
靴を履く前に、俺は自分の部屋へ寄った。
机の上に、貯金箱があった。青い缶のやつだ。持ち上げると、中で小銭が軽く鳴る。
開けようとして、やめた。
今日はいらない。
せんべいの袋をランドセルから出した手提げに入れて、玄関に戻る。
「行ってきます」
「車に気をつけてね」
「うん」
外に出ると、午後の空気になっていた。
三時まで少しだけ時間がある。俺は早足で歩いた。走ると息が切れそうで、でも遅れたくもなかった。
三浦遼太の家は、学校から少し離れた住宅街にあった。
表札を見る前に、門の横に置かれた青い自転車で思い出した。三浦の家だ。昔、ここに何回か来た。
玄関の前に、悠斗がいた。
「遅い」
「三時前だろ」
「俺の方が早い」
「お前、遅れないんじゃなかったのか」
「遅れてないし」
悠斗はインターホンを押した。
中から、チャイムの音がする。
しばらくして、ドアの向こうでばたばた音がした。
「はーい」
遼太の声だった。
ドアが開く。
三浦遼太は、半袖の上にジャージを羽織っていた。髪が少し寝ぐせみたいに跳ねている。
「お、来た」
「いた」
「いるし。言ったじゃん」
言ったのは悠斗だ。
「入っていい?」
「いいよ。ゲームする?」
「する」
悠斗の返事が早い。
遼太の家の玄関は、靴が何足か出ていて、少し狭かった。奥からテレビの音が聞こえる。誰かの家の匂いがした。洗剤と、畳と、昼に何か焼いたような匂い。
「おじゃまします」
自分の声が、少しだけ丁寧になった。
悠斗がこっちを見る。
「お前、ちゃんとしてんな」
「普通だろ」
「俺言ってない」
「言えよ」
遼太が笑った。
「母さん、友達来たー」
奥から「はーい」と返事がした。
通された部屋には、テレビの前にゲーム機があった。
コントローラーが二つ。
コードが床に伸びている。
そのコードを見ただけで、少し笑いそうになった。
そうだ。
コントローラーはつながっていた。
「新しいのってこれ?」
悠斗がテレビの前に座る。
「そう。昨日買ってもらった」
「ずる。いいな」
「誕生日近いから」
「近いっていつ」
「来月。もう近いだろ」
「近くねえ」
遼太は気にせずゲームの電源を入れた。
画面が明るくなる。少し待って、ロゴが出る。
「対戦な。俺先にやる」
「俺もやりたい」
「俺んちだから俺先」
「ずるいだろ、それ」
「俺んちだし」
遼太がコントローラーを一つ持って、もう一つを悠斗に渡した。
俺は横に座る。
「藤宮は次な」
「うん」
「お前、こういうの得意だっけ?」
「普通」
「普通ってなんだよ」
普通。
本当は、少しは知っている。昔遊んだこともあるし、大人になってから似たようなゲームもいくらでもやった。
でも、手が小さい。
コントローラーが少し大きくて、親指がボタンの端に引っかかった。
画面の中でキャラクターが動き始める。悠斗がすぐ騒ぐ。
「ちょ、待てって」
「待たない」
「今のなし」
「なしじゃない」
遼太が笑いながらボタンを押す。悠斗は体まで横に傾けている。コントローラーを傾けても意味はないのに、そうなる。
昔も、そうだった。
横から口を出したくなる。
「そこ、右じゃない?」
言った瞬間、悠斗がこっちを見た。
「言うの遅いわ!」
「今言っただろ」
「もう落ちたし!」
画面の中で悠斗のキャラが落ちた。
遼太が笑いすぎて、コントローラーを持つ手がぶれている。
「藤宮のせい」
「俺のせいかよ」
「横から言うから」
「言わなくても落ちてた」
「落ちてないし」
たぶん落ちていた。
でも言わなかった。
次は俺の番になった。
コントローラーを受け取ると、やっぱり大きい。親指が思った位置にすぐ届かない。握り直すと、コードが手首に当たった。
「藤宮、持ち方まじめ」
遼太が言う。
「うるさい」
「勝つ気じゃん」
「負けたくはない」
「言い方」
ゲームが始まる。
頭では、動かし方が分かる。
でも指が遅い。
ジャンプが少し遅れて、着地も変になる。押したつもりのボタンを押せていない。大人の手なら簡単だった、とは思わない。今の手では、これが普通だった。
「あ、藤宮へた」
悠斗がすぐ言う。
「まだ始まったばっかだろ」
「今落ちた」
「落ちたな」
遼太が笑う。
「意外。藤宮、こういうのできそうなのに」
「なんで」
「なんか今日、落ち着いてるから」
「ゲーム関係ないだろ」
「あるだろ」
俺はもう一度コントローラーを握り直した。
次は、落ちなかった。
ぎりぎりのところで踏みとどまって、遼太のキャラを一回だけ倒した。
「あ」
「おお」
「今の俺うまくね?」
「一回だけな」
「一回できれば十分だろ」
口元が少しゆるんだ。
そのあと、何回か交代した。
勝ったり、負けたり、横から口を出したり、順番を飛ばした飛ばしてないで少し揉めたりした。
俺が持ってきたせんべいを出すと、遼太がすぐ袋を開けた。
「これ食っていいの?」
「みんなでって」
「藤宮んち、ちゃんとしてる」
「せんべいで?」
「うち、こういうのすぐなくなる」
悠斗が一枚取る。
「うま」
「普通のせんべいだろ」
「普通にうまい」
遼太の部屋の窓から、西日が入っていた。
テレビの画面に少し光が反射して、見づらいと言いながら誰もカーテンを閉めない。閉めたらいいのに、と思う。でも立つのが面倒で、そのまま遊んだ。
「藤宮、次」
遼太がコントローラーを渡してくる。
「何時?」
俺が聞くと、悠斗が壁の時計を見た。
「四時半」
「早」
「まだいける」
五時には帰る。
母さんにそう言われていた。
「五時に帰る」
「早くね?」
「言われた」
「じゃあ五時までな」
悠斗はあっさり言った。
昔の俺なら、もう少し粘ったかもしれない。帰り道で暗くなって、玄関の前で少しだけ足が重くなる。
五時に帰る。
ゲームをもう一回だけやった。
勝てなかった。
「最後負けてるじゃん」
悠斗が言う。
「うるさい」
「明日も来る?」
「明日?」
「教科書持ってくやつあるし、早く帰れるんじゃね?」
「分かんない」
「じゃあ明日聞くわ」
明日聞く。
「じゃあ帰る」
俺が立つと、遼太がゲームを止めた。
「また来いよ」
「うん」
「次はもうちょいうまくなってこい」
「今日初めてだし」
「初めてじゃないだろ」
遼太は笑いながら言った。
俺は返事に詰まった。
「……まあ」
「なんだそれ」
玄関で靴を履く。
「おじゃましました」
奥に向かって言うと、遼太の母さんが「また来てね」と返してくれた。
外に出ると、夕方の匂いがした。
まだ明るいけれど、昼とは少し違う。どこかの家から晩ごはんの匂いがして、遠くで犬が吠えている。
悠斗は途中まで同じ道だった。
「藤宮、今日ほんと早いな」
「帰るのが。いつもより早い」
「五時って言われたし」
「えら。ちゃんと守るんだ」
「お前は?」
「俺も帰る。たぶん」
「たぶんかよ」
悠斗は笑って、角を曲がっていった。
家の前まで戻ると、時計は五時の少し前だった。
玄関を開ける。
「ただいま」
台所から母さんの声がした。
「おかえり。間に合ったね」
靴を脱いで、手提げを置く。
部屋の隅に置いたランドセルを見て、明日のことを思い出した。
連絡帳。
雑巾。
教科書。
俺は玄関から戻りかけて、もう一度部屋に入った。
机の上に連絡帳を置く。
開いて、明日の持ち物を見る。
雑巾一枚。
国語。
算数。
筆箱。
今入れておけば、明日の朝に探さなくていい。
そのままランドセルへ入れる。
国語と算数の教科書を机から出して、ランドセルに入れた。筆箱も入れる。雑巾は母さんに聞く。
部屋の外から、母さんの声がした。
「こういち、手洗った?」
忘れてた。
「今洗うー」
先に手を洗うんだった。
俺はランドセルのふたを閉めて、洗面所へ向かった。




