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小学四年生に戻った俺の、あの頃から始める人生やり直し  作者: HATENA 
第一章 平成十年、四年生の春
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第三話 たぶんいるし

 始業式は、長かった。


 体育館の床に座ると、足がすぐ痛くなる。前の子の背中を見ながら、校長先生の声を聞く。マイクが少し割れて、語尾だけが体育館の上の方でぼやけた。


 春休みが終わりました。


 新しい学年です。


 目標を持って過ごしましょう。


 たぶん、そんな話だった。


 昔の俺は、こういう話をほとんど聞いていなかったと思う。今も全部は入ってこない。足は痛いし、体育館は少し寒いし、横の列では誰かが膝を抱え直している。


 昨日までなら、会社で座っている時間の方がずっと長かった。会議だってあったし、誰かの長い説明を聞くこともあった。それなのに、体育館の床に座っているだけで、こんなに落ち着かない。


 隣の列で、悠斗が小さくあくびをした。


 先生に見つかって、軽く頭を下げている。


 俺は少しだけ笑いそうになって、下を向いた。


 始業式が終わると、体育館のざわめきが一気に大きくなった。先生たちが「静かに」「まだ動かない」と言っているのに、みんな半分立ちかけている。上履きの音が、体育館の床でばたばた鳴った。


 四年二組の列で教室へ戻る。


 階段を上がる途中、前の男子が急に止まって、俺の足も止まった。後ろから悠斗が背中にぶつかる。


「止まんなって」

「俺じゃない」

「じゃあ誰だよ」

「前」


 前の男子が振り返って、少し笑った。


「ごめん。靴ぬげた」


 見ると、上履きのかかとが半分脱げている。


 なんだそれ。


 そう思ったのに、少しだけ懐かしかった。上履きって、こんなに簡単に脱げるものだった。


 教室に戻ると、机の上に教科書が配られていた。


 国語、算数、理科、社会。


 新しい教科書の匂いがする。つるっとした表紙を指でなぞると、まだ開かれていない本の硬さがあった。


「名前書いとけよー。あとで分かんなくなるぞ」


 佐伯先生が黒板の前で言った。


 周りの子たちが鉛筆を出し始める。机の中をがさがさ探す音があちこちで鳴った。


 俺も筆箱を開けた。


 鉛筆が短い。


 消しゴムも、角が丸い。


 教科書の表紙に、藤宮恒一、と書く。


 久しぶりに鉛筆で自分の名前を書いた。まっすぐ書こうとすると少し力が入る。藤の字の線が、思ったより太くなった。


「藤宮、字ちっちゃ」


 斜め前から七海が振り返った。


「見るなって」

「見えるもん」

「見なくていいだろ」

「名前書いてるだけじゃん」


 七海はそう言って、自分の教科書に大きく名前を書いた。宮下七海。七の横線が少し長い。


「ほら、私の方が見やすい」

「でかいだけ」

「ひど」


 七海は口ではそう言ったけれど、少し楽しそうだった。


 後ろから白石が言う。


「藤宮、筆圧つよ」

「見てたのかよ」

「見えた」

「みんな見すぎだろ」


 そう言って、国語の教科書を少しだけ机の内側へ寄せた。藤の字の横に、消しゴムのかすがついていた。


 それをランドセルに入れると、肩紐が少し沈んだ。


「重っ」


 誰かが言う。


「今日これ持って帰んの?」

「全部持って帰れー」


 佐伯先生が答える。


「えー」

「えーじゃない。名前書いたら持って帰る。明日持ってくるやつは連絡帳に書くからな」


 連絡帳。


 そうだった。明日の持ち物は、自分で写して帰るんだった。書き忘れたら、そのまま忘れるかもしれない。


 先生が黒板に、明日の持ち物を書き始めた。


 国語。


 算数。


 筆箱。


 連絡袋。


 雑巾一枚。


 ぞうきん。


 その文字を見た瞬間、ああ、と思った。母さんに言わないといけないやつだ。昔の俺なら、たぶん夜になってから思い出していた。


 連絡帳に書く。


 字はまだ少し変だったけれど、読める。


「藤宮、真面目」


 七海がまた振り返る。


「書かないの?」

「書くけど」

「じゃあ書けよ」

「今書こうと思ってた」


 七海はむっとした顔で前を向いた。


 勝った、みたいな気がした。


 俺は連絡帳に鉛筆を置いた。少しだけ、字が大きくなった。


 みんなランドセルに教科書を詰めて、連絡袋を入れて、椅子をがたがた鳴らしている。


 佐伯先生が前で手を叩いた。


「はーい、聞けー。今日はここまで。寄り道すんなよ。遊びに行くやつも、家にランドセル置いてからな」


「はーい」


 声がそろわない返事が教室に広がった。


 誰かの机にランドセルが当たって、また椅子が鳴った。


 昇降口を出ると、悠斗がもう横にいた。


「藤宮、三時な」

「三時?」

「遼太んち。ランドセル置いたら三時集合な」

「遼太いるの?」

「たぶんいる」


 昨日と同じくらい適当だった。


「いなかったら?」

「公園」

「適当だな」

「だって探すのめんどいし」


 いなかったら家まで行って、公園ものぞく。それでも会えなかったら帰る。誰かがいれば、そのまま遊ぶ。


「分かった。三時な」

「遅れんなよ」

「お前もな」

「俺は遅れない」


 悠斗はそう言って走っていった。


 たぶん遅れる。


 俺はランドセルの肩紐を握り直して、家に向かった。


 帰り道は、朝より少し暖かかった。教科書のぶんランドセルが重い。給食袋が揺れて、太ももに何度も当たる。


 家に着くと、母さんが台所から顔を出した。


「おかえり。早かったね」

「ただいま」

「何組だった?」

「二組だった。遼太と同じ」

「田辺くんと一緒ならよかったね」

「うん。七海もいた」

「七海ちゃんも? よかったじゃない」

「三時に遼太んち行っていい?」

「宿題は?」

「今日はないと思う」

「じゃあ、連絡帳見せて」


 危ない。


 俺はランドセルを下ろして、連絡帳とプリントを出した。連絡袋の中には、保護者向けの紙が何枚か入っている。


「これ、出すやつ」


 母さんは少し目を丸くした。


「珍しい。自分から出した」

「別に。見せろって言われると思ったし」

「明日、雑巾いるのね」

「うん。たぶん一枚」

「あとで一枚出しとく。おやつ食べる?」

「時間ないからいい」

「三時に行くことになってる」

「じゃあ、これ持ってく?」


 母さんが戸棚から小さい袋のせんべいを出した。


「向こうで食べるなら、みんなで分けてね」

「分かった」

「あと、五時までね」

「五時?」

「そう。暗くなる前に帰っておいで」


 五時。


 早い、と思った。でも春の夕方は、すぐ暗くなる。


「分かった」

「ほんとに分かってる?」

「分かってるって」


 母さんはまだ少し疑っている顔をした。


 靴を履く前に、俺は自分の部屋へ寄った。


 机の上に、貯金箱があった。青い缶のやつだ。持ち上げると、中で小銭が軽く鳴る。


 開けようとして、やめた。


 今日はいらない。


 せんべいの袋をランドセルから出した手提げに入れて、玄関に戻る。


「行ってきます」

「車に気をつけてね」

「うん」


 外に出ると、午後の空気になっていた。


 三時まで少しだけ時間がある。俺は早足で歩いた。走ると息が切れそうで、でも遅れたくもなかった。


 三浦遼太の家は、学校から少し離れた住宅街にあった。


 表札を見る前に、門の横に置かれた青い自転車で思い出した。三浦の家だ。昔、ここに何回か来た。


 玄関の前に、悠斗がいた。


「遅い」

「三時前だろ」

「俺の方が早い」

「お前、遅れないんじゃなかったのか」

「遅れてないし」


 悠斗はインターホンを押した。


 中から、チャイムの音がする。


 しばらくして、ドアの向こうでばたばた音がした。


「はーい」


 遼太の声だった。


 ドアが開く。


 三浦遼太は、半袖の上にジャージを羽織っていた。髪が少し寝ぐせみたいに跳ねている。


「お、来た」

「いた」

「いるし。言ったじゃん」


 言ったのは悠斗だ。


「入っていい?」

「いいよ。ゲームする?」

「する」


 悠斗の返事が早い。


 遼太の家の玄関は、靴が何足か出ていて、少し狭かった。奥からテレビの音が聞こえる。誰かの家の匂いがした。洗剤と、畳と、昼に何か焼いたような匂い。


「おじゃまします」


 自分の声が、少しだけ丁寧になった。


 悠斗がこっちを見る。


「お前、ちゃんとしてんな」

「普通だろ」

「俺言ってない」

「言えよ」


 遼太が笑った。


「母さん、友達来たー」


 奥から「はーい」と返事がした。


 通された部屋には、テレビの前にゲーム機があった。


 コントローラーが二つ。


 コードが床に伸びている。


 そのコードを見ただけで、少し笑いそうになった。


 そうだ。


 コントローラーはつながっていた。


「新しいのってこれ?」


 悠斗がテレビの前に座る。


「そう。昨日買ってもらった」

「ずる。いいな」

「誕生日近いから」

「近いっていつ」

「来月。もう近いだろ」

「近くねえ」


 遼太は気にせずゲームの電源を入れた。


 画面が明るくなる。少し待って、ロゴが出る。


「対戦な。俺先にやる」

「俺もやりたい」

「俺んちだから俺先」

「ずるいだろ、それ」

「俺んちだし」


 遼太がコントローラーを一つ持って、もう一つを悠斗に渡した。


 俺は横に座る。


「藤宮は次な」

「うん」

「お前、こういうの得意だっけ?」

「普通」

「普通ってなんだよ」


 普通。


 本当は、少しは知っている。昔遊んだこともあるし、大人になってから似たようなゲームもいくらでもやった。


 でも、手が小さい。


 コントローラーが少し大きくて、親指がボタンの端に引っかかった。


 画面の中でキャラクターが動き始める。悠斗がすぐ騒ぐ。


「ちょ、待てって」

「待たない」

「今のなし」

「なしじゃない」


 遼太が笑いながらボタンを押す。悠斗は体まで横に傾けている。コントローラーを傾けても意味はないのに、そうなる。


 昔も、そうだった。


 横から口を出したくなる。


「そこ、右じゃない?」


 言った瞬間、悠斗がこっちを見た。


「言うの遅いわ!」

「今言っただろ」

「もう落ちたし!」


 画面の中で悠斗のキャラが落ちた。


 遼太が笑いすぎて、コントローラーを持つ手がぶれている。


「藤宮のせい」

「俺のせいかよ」

「横から言うから」

「言わなくても落ちてた」

「落ちてないし」


 たぶん落ちていた。


 でも言わなかった。


 次は俺の番になった。


 コントローラーを受け取ると、やっぱり大きい。親指が思った位置にすぐ届かない。握り直すと、コードが手首に当たった。


「藤宮、持ち方まじめ」


 遼太が言う。


「うるさい」

「勝つ気じゃん」

「負けたくはない」

「言い方」


 ゲームが始まる。


 頭では、動かし方が分かる。


 でも指が遅い。


 ジャンプが少し遅れて、着地も変になる。押したつもりのボタンを押せていない。大人の手なら簡単だった、とは思わない。今の手では、これが普通だった。


「あ、藤宮へた」


 悠斗がすぐ言う。


「まだ始まったばっかだろ」

「今落ちた」

「落ちたな」


 遼太が笑う。


「意外。藤宮、こういうのできそうなのに」

「なんで」

「なんか今日、落ち着いてるから」

「ゲーム関係ないだろ」

「あるだろ」


 俺はもう一度コントローラーを握り直した。


 次は、落ちなかった。


 ぎりぎりのところで踏みとどまって、遼太のキャラを一回だけ倒した。


「あ」

「おお」

「今の俺うまくね?」

「一回だけな」

「一回できれば十分だろ」


 口元が少しゆるんだ。


 そのあと、何回か交代した。


 勝ったり、負けたり、横から口を出したり、順番を飛ばした飛ばしてないで少し揉めたりした。


 俺が持ってきたせんべいを出すと、遼太がすぐ袋を開けた。


「これ食っていいの?」

「みんなでって」

「藤宮んち、ちゃんとしてる」

「せんべいで?」

「うち、こういうのすぐなくなる」


 悠斗が一枚取る。


「うま」

「普通のせんべいだろ」

「普通にうまい」


 遼太の部屋の窓から、西日が入っていた。


 テレビの画面に少し光が反射して、見づらいと言いながら誰もカーテンを閉めない。閉めたらいいのに、と思う。でも立つのが面倒で、そのまま遊んだ。


「藤宮、次」


 遼太がコントローラーを渡してくる。


「何時?」


 俺が聞くと、悠斗が壁の時計を見た。


「四時半」

「早」

「まだいける」


 五時には帰る。


 母さんにそう言われていた。


「五時に帰る」

「早くね?」

「言われた」

「じゃあ五時までな」


 悠斗はあっさり言った。


 昔の俺なら、もう少し粘ったかもしれない。帰り道で暗くなって、玄関の前で少しだけ足が重くなる。


 五時に帰る。


 ゲームをもう一回だけやった。


 勝てなかった。


「最後負けてるじゃん」


 悠斗が言う。


「うるさい」

「明日も来る?」

「明日?」

「教科書持ってくやつあるし、早く帰れるんじゃね?」

「分かんない」

「じゃあ明日聞くわ」


 明日聞く。


「じゃあ帰る」


 俺が立つと、遼太がゲームを止めた。


「また来いよ」

「うん」

「次はもうちょいうまくなってこい」

「今日初めてだし」

「初めてじゃないだろ」


 遼太は笑いながら言った。


 俺は返事に詰まった。


「……まあ」

「なんだそれ」


 玄関で靴を履く。


「おじゃましました」


 奥に向かって言うと、遼太の母さんが「また来てね」と返してくれた。


 外に出ると、夕方の匂いがした。


 まだ明るいけれど、昼とは少し違う。どこかの家から晩ごはんの匂いがして、遠くで犬が吠えている。


 悠斗は途中まで同じ道だった。


「藤宮、今日ほんと早いな」

「帰るのが。いつもより早い」

「五時って言われたし」

「えら。ちゃんと守るんだ」

「お前は?」

「俺も帰る。たぶん」

「たぶんかよ」


 悠斗は笑って、角を曲がっていった。


 家の前まで戻ると、時計は五時の少し前だった。


 玄関を開ける。


「ただいま」


 台所から母さんの声がした。


「おかえり。間に合ったね」


 靴を脱いで、手提げを置く。


 部屋の隅に置いたランドセルを見て、明日のことを思い出した。


 連絡帳。


 雑巾。


 教科書。


 俺は玄関から戻りかけて、もう一度部屋に入った。


 机の上に連絡帳を置く。


 開いて、明日の持ち物を見る。


 雑巾一枚。


 国語。


 算数。


 筆箱。


 今入れておけば、明日の朝に探さなくていい。


 そのままランドセルへ入れる。


 国語と算数の教科書を机から出して、ランドセルに入れた。筆箱も入れる。雑巾は母さんに聞く。


 部屋の外から、母さんの声がした。


「こういち、手洗った?」


 忘れてた。


「今洗うー」


 先に手を洗うんだった。


 俺はランドセルのふたを閉めて、洗面所へ向かった。

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