第二話 四年二組
体育館の床は、思っていたより固かった。
校長先生の話は長かった。途中から、何を言っているのかほとんど頭に入らなくなった。会社の朝礼や会議なら、長くてももう少し聞いていられたはずなのに、今は体育座りで痛くなった足ばかりが気になった。
三十六歳までの記憶や、その間に身についた考え方の癖は残っている。それでも、集中力や感情の動き方まで三十六歳のままではないらしい。今の頭と体に引っ張られている。
「藤宮、動きすぎ」
隣から小声がした。
田辺悠斗だった。朝、校門まで一緒に来た時と同じ調子で、でも体育館の中だから声だけ少し小さい。
「足痛い」
「分かる」
「分かるなら言うなよ」
「まあ、俺も動いてるけど」
前の列で三浦遼太が振り返った。
「あとで何組か見るやつ、先に行こうぜ」
「先に行けるのか?」
「行けるだろ。走れば」
「廊下走るなって言われるだろ」
「じゃあ早歩き。すごい早歩き」
遼太は笑って、また前を向いた。
遼太につられて笑うまで、少しだけ間が空いた。
懐かしいのに、まだうまく混ざれない。
始業式が終わると、廊下は子供の声と上履きの音でいっぱいになった。前の子のランドセルが揺れて、誰かの手提げ袋が足に当たる。床のワックスの匂いがして、ああ、こんな感じだったなと思った。
先生が「走らない」と言っている横を、走ってないふりをして早歩きで何人も抜けていった。
クラス表の前には、もう人だかりができていた。
「俺、二組!」
遼太が先に言った。
「俺も二組」
悠斗が横で少し背伸びをする。
俺は紙の中から自分の名前を探した。
四年二組。
藤宮恒一。
「藤宮も二組じゃん」
「……だな」
「じゃあ放課後、ほんとに遊べるな」
遼太は当たり前みたいに言った。
一周目の俺は、こういう誘いをよく断っていた。
宿題があるとか、今日はいいとか、一人でゲームしたいとか。
大きな理由なんてなかった。
断った日のことは覚えていないのに、いつの間にか誘われなくなったことだけは覚えている。
教室に入ると、机の高さが妙に中途半端だった。低いはずなのに、今の俺にはちょうどいい。机の中には前の人の消しゴムのカスが残っていて、黒板の横には給食当番の表が貼られている。
椅子を引く音や、筆箱を落とした音などがあちこちからしていた。
席は、真ん中より少し前だった。
「微妙」
思わず言うと、後ろから声がした。
「何が?」
宮下七海だった。
家が近く、小学校へ入る前から知っている幼馴染だ。一周目でも、女子の中では一番気楽に話していた。
同じ学年で一番かわいいと言う男子は多かったけど、本人はそんなことを気にせず、昔から同じ調子で話しかけてくる。
「席。先生から見えやすい」
「いいじゃん。黒板も見えるし」
「見えすぎるんだよ」
「それは藤宮が悪いことしようとしてるからでしょ」
「してない」
「じゃあいいじゃん」
七海はそう言って、自分の席へ行った。
先生が入ってきた。
「はーい、座って。始業式終わったばかりだけど、先に出席取るぞ」
名前を呼ばれるたびに、誰かが返事をする。
「藤宮恒一」
「はい」
声が少し裏返った。
後ろで七海が笑った気がしたけれど、振り返らなかった。
授業らしい授業はほとんどなかった。配られたプリント、連絡帳、教科書。机の上に置かれるたび、家に持って帰るものが増えていく。
「連絡帳はちゃんと家で見せること。明日の持ち物も忘れるなよ」
先生が黒板に書く。
国語。
算数。
雑巾一枚。
鉛筆を持つと、思ったより手が遅かった。字が小さくなる。消しゴムで直そうとして、黒板が消されそうになって、慌てて続きを書いた。
放課後、靴箱で靴を履いていると、遼太が言った。
「三時な」
「三時にどこ?」
「俺んち。ランドセル置いたら来いよ。だめだったら公園」
「だめだったらって、遼太んちなのに」
「母さんが掃除してたら無理かも」
「先に聞いとけよ」
「帰ったら聞く」
適当だった。
「藤宮、来る?」
悠斗が聞いた。
俺は少しだけ迷った。
「行く」
遼太が笑う。
「じゃあ遅れんなよ」
「掃除してたら、先に公園行ってるからな」
「分かった。俺もすぐ行く」
学校の門を出ると、ランドセルが背中で揺れた。
まだ何も大きく変えていない。
でも、三時になったら行く場所がある。




