第二話 四年二組
体育館の床は、思っていたより固かった。
始業式の話は長い。校長先生が何を言っているのか、途中からほとんど入ってこなくなる。会社の朝礼や会議なら、もう少し我慢できた気がするのに、体育座りの足はすぐ痛くなった。
「藤宮、動きすぎ」
隣から小声がした。
田辺悠斗だった。朝、校門まで一緒に来た時と同じ顔で、でも体育館の中だから声だけ少し小さい。
「足痛い」
「分かる」
「分かるなら言うなよ」
「まあ、俺も動いてるけど」
前の列で三浦遼太が振り返った。
「あとで何組か見るやつ、先に行こうぜ」
「先に行けるのか?」
「行けるだろ。走れば」
「廊下走るなって言われるだろ」
「じゃあ早歩き。すごい早歩き」
遼太は笑って、また前を向いた。
そういうやり取りに、返事をするのが少し遅れた。
懐かしいのに、まだうまく混ざれない。
始業式が終わると、廊下は子供の声と上履きの音でいっぱいになった。前の子のランドセルが揺れて、誰かの手提げ袋が足に当たる。床のワックスの匂いがして、ああ、こんな感じだったなと思った。
先生が「走らない」と言っている横を、走ってないふりをして早歩きで何人も抜けていった。
クラス表の前には、もう人だかりができていた。
「俺、二組!」
遼太が先に言った。
「俺も二組」
悠斗が横で少し背伸びをする。
俺は紙の中から自分の名前を探した。
四年二組。
藤宮恒一。
「藤宮も二組じゃん」
「……だな」
「じゃあ放課後、ほんとに遊べるな」
遼太は当たり前みたいに言った。
一周目の俺は、こういう誘いをよく断っていた。宿題があるとか、今日はいいとか、一人でゲームしたいとか。大きな理由なんてなかった。ただ、何となく面倒で、そういうのが何回も続いていた。
教室に入ると、机の高さが妙に中途半端だった。低いはずなのに、今の俺にはちょうどいい。机の中には前の人の消しゴムのカスが残っていて、黒板の横には給食当番の表が貼られている。
椅子を引く音や、筆箱を落とした音などがあちこちからしていた。
席は、真ん中より少し前だった。
「微妙」
思わず言うと、後ろから声がした。
「何が?」
宮下七海だった。
よく笑って、よくしゃべる子だった。名前を思い出すより先に、そういう感じの方が出てきた。
「席。先生から見えやすい」
「いいじゃん。黒板も見えるし」
「見えすぎるんだよ」
「それは藤宮が悪いことしようとしてるからでしょ」
「してない」
「じゃあいいじゃん」
七海はそう言って、自分の席へ行った。
先生が入ってきた。
「はーい、座って。始業式終わったばかりだけど、先に出席取るぞ」
名前を呼ばれるたびに、誰かが返事をする。
「藤宮恒一」
「はい」
声が少し裏返った。
後ろで七海が笑った気がしたけれど、振り返らなかった。
授業らしい授業はほとんどなかった。配られたプリント、連絡帳、教科書。机の上に置かれるたび、家に持って帰るものが増えていく。
「連絡帳はちゃんと家で見せること。明日の持ち物も忘れるなよ」
先生が黒板に書く。
国語。
算数。
雑巾一枚。
鉛筆を持つと、思ったより手が遅かった。字が小さくなる。消しゴムで直そうとして、黒板が消されそうになって、慌てて続きを書いた。
スマホに連絡が来るわけじゃない。黒板を写して、家で見せて、自分で準備する。忘れたら普通に困る。
放課後、靴箱で靴を履いていると、遼太が言った。
「三時な」
「三時にどこ?」
「俺んち。ランドセル置いたら来いよ。だめだったら公園」
「だめだったらって、遼太んちなのに」
「母さんが掃除してたら無理かも」
「先に聞いとけよ」
「帰ったら聞く」
適当だった。
でも、こういう約束は昔なら普通だった。家に電話するより、行った方が早い。いなかったら公園へ行く。それでも会えなかったら、その日は遊べなくて終わる。
「藤宮、来る?」
悠斗が聞いた。
俺は少しだけ迷ってから言った。
「行く」
遼太が笑う。
「じゃあ遅れんなよ」
「お前もな」
「俺んちだから俺はいるだろ」
「親が掃除してたらいないんだろ」
悠斗が横で笑った。
学校の門を出ると、ランドセルが背中で揺れた。
まだ何も大きく変えていない。
でも、三時になったら行く場所がある。




