第一話 平成十年の朝
やばい、寝過ごした。
急いで会社に行かないと。今何時だ。
枕元に手を伸ばす。
スマホがない。
……どこだ、ここ。
白い蛍光灯と、豆電球の小さな丸。薄い木目の天井板。知らない天井、ではない気がした。寝起きのだるさも、肩の重さもない。かわりに、体が変だった。布団が変に大きい。腕を伸ばしたつもりなのに、端まで手が届かない。
腕を持ち上げると、手の甲が小さくて、指も短い。
「……は?」
口から出た声まで高くて、それで一気に目が覚めた。起き上がろうとして、布団の端に足を引っかける。思ったより足が短く、ばたついた拍子に敷布団が少しめくれた。畳の匂いが、少し遅れて鼻に入ってくる。
部屋を見ると、机の上に青い半透明の筆箱があった。鉛筆削りと、削れた消しゴム。棚に斜めに刺さった漫画。壁の時間割表は端が少しめくれている。
机の横には、黄色っぽい茶色のランドセルがある。
机も、ランドセルも、思っていたより大きい。
立ち上がろうとして、膝が布団に引っかかった。
今見ると、なんでこの色を選んだんだと思う。けれど、革についた細かい傷や、横にぶら下がった給食袋を見た瞬間、息が少し止まった。
「こういちー、起きてる?」
ふすまの向こうから、母さんの声がした。
母さん。
なんで。
それも、声が若い?
「こういち?」
「……起きてる」
自分で返事をして、自分の声にまた引っかかる。高くて、細くて、どこか頼りない。
「ご飯冷めるよ。今日、始業式でしょ」
始業式、と聞いて、ランドセルも時間割表も、この小さい手も、一気に冗談じゃなくなった。
畳に足を下ろすと、足の裏がひやっとした。こんなに床って冷たかったかと思ってから、春先の朝の畳はこんな感じだった気もした。ああ、こんなんだったな、と遅れて思う。
部屋の隅のカレンダーには、平成十年、四月と書いてあった。
その数字を見たとき、頭より先に手が止まった。
平成十年、四月。小学四年生。
いや、なんで。
小四?
俺、三十六だったよな。
昨日まで会社に行って、家賃を払って、スマホの充電を気にしていたはずだった。
なんで小四なんだよ。
声に出したつもりだったのに、喉の奥で止まった。もう一回カレンダーを見る。平成十年。四月。さっき見た数字と同じだった。
小四。
嬉しいとか、そういうのはまだ来なかった。息が浅くなる。心臓の音が大きい。大丈夫だと思おうとしても、うまくいかない。落ち着け、と何度も思うのに、体のほうが先に震えていた。
布団の上に座っているだけで、息が上がっていた。声は高いし、手は小さいし、さっきから自分の体なのにうまく落ち着かない。これからどうするとか、そんなことまで考えられなかった。
「こういち、ほんとに起きてるの?」
「起きてるって」
まず着替えないといけない。
服が小さい。靴下も小さい。首を通すときの布の擦れ方まで懐かしくて、でも自分の体なのに借り物みたいで、ボタンを留める手つきが少しもたついた。
洗面所に行くと、姉ちゃんが先にいた。
「遅い」
藤宮真鈴。俺より二つ上の姉は、髪を結びながら鏡越しにこっちを見ている。雰囲気も顔も、まだ中学生になる前だった。大人になってからの姉を知っているせいで、目の前の姉はやけに幼く見える。
「なに、ぼーっとしてんの」
「いや……」
「寝ぼけすぎ。今日から四年でしょ」
四年、と言われて、また少し息が詰まった。
「……そうだな」
「なにその言い方。変なの」
歯ブラシを取ろうとした手が止まる。
「うるさいな」
姉ちゃんは「変なの」とだけ言って、洗面所を出ていく。
鏡の中には、小学生の俺がいた。丸い頬に、寝ぐせ。まだ子供の目。何度見ても知らない子みたいなのに、それでも俺だった。
食卓には味噌汁の匂いがしていた。
母さんが台所で茶碗を並べていて、父さんは新聞を広げている。テレビでは朝の番組が流れていた。ニュースの音、箸の音、台所の水音。
椅子を引こうとして、少しだけ手が止まった。
俺の席に茶碗が置いてある。箸は右側。味噌汁から、まだ湯気が出ていた。
「どうしたの?」
母さんがこっちを見る。
「……いただきます」
いつもよりちゃんと言えた。
母さんは、ほんの一瞬だけ目を丸くした。
「はい、どうぞ」
でも、味噌汁を飲んだら喉の奥が詰まった。豆腐とわかめの、特別でもなんでもない味。こんな味だった。俺はこれを、何年も忘れていた。
「今日、始業式だよな。何組になるんだ」
父さんが新聞を見ながら言った。
若い父さんの声だった。俺が覚えている声より、少し張りがある。けれど、短い話し方は同じだった。
「まだ分かんない。今日聞く」
「そうか」
「……四年って、勉強ちょっと難しくなる?」
言ってから、ちょっと変な聞き方だったかもしれないと思った。
父さんが新聞を少し下げる。
「そりゃ、三年よりはな」
「そっか」
「分からないところがあったら、早めに聞け。あとで一気に聞かれると大変だからな」
「うん」
父さんはまた新聞を見直して、母さんは味噌汁をよそいながら少し笑っている。姉ちゃんは横から「急に真面目」と言った。
「別に。聞いただけだって」
「絶対なんかあった」
「ない」
「朝からまじめじゃん」
ランドセルは少し重かった。玄関の靴は小さくて、履くと踵がすぐ浮く。外に出ると、春の朝の匂いがした。湿った土と、まだ冷たい風と、どこかの家の朝ごはんの匂い。
通学路は、思っていたより狭かった。
でも今の身長だと、ちゃんと広い。電柱も、ブロック塀も、横断歩道の白線も、背が低いぶん少し大きい。ランドセルの横で給食袋が揺れて、そのたびに紐が手に当たった。
遠くで誰かが「おはよー」と叫んでいる。体操服袋を振り回す子、ランドセルを背負った子、黄色い帽子をかぶった下級生。みんな少し広がって、だらだら歩いていた。
「藤宮!」
後ろから声がして振り返ると、田辺悠斗が走ってきた。頬が丸くて、ランドセルが上下に跳ねている。こんな顔だったのか、と変なところで感心した。
「お前、今日早くね?」
「そう?」
「いつももっとぎりぎりじゃん」
そうだったかもしれない。
昔の俺は、朝が苦手だった。宿題も忘れがちで、時間割も雑で、いろんなことをなんとなくやっていた。
「なんか、早く起きた」
「えら。熱でもあんの?」
悠斗が笑う。
俺は少し遅れて笑った。
「ない」
「何組になるんだろ。遼太と一緒がいいわ」
「三浦?」
「そう。あいつ、昨日新しいゲーム買ったって言ってた」
ゲームと聞いて、テレビの前に何人かで座って、順番にコントローラーを回していた部屋の感じがふっと戻ってきた。負けたら騒いで、横から口を出して、順番を守ったり守らなかったりする。
「放課後、行く?」
悠斗が何気なく言った。
たぶん、昔の俺なら「分かんない」とか「宿題次第」とか、適当に返した。行っても行かなくても、どっちでもいいと思っていた。
でも今は、その適当な誘いで少し返事に迷った。
友達の家に行けば、たぶんいる。いなかったら別の遊びをする。約束はそれくらい曖昧だった。
俺は少しだけ息を吸った。
「行く。行けるなら」
「即答じゃん。いつもそんな早く返事しないのに」
「たまにはいいだろ」
「じゃあ遼太んち行こうぜ。たぶんいるし」
「いなかったら?」
「公園行けばいいし、誰かいるだろ」
「適当だな、それ」
「だいたいそれで会えるし」
校門が見えてきた。白い校舎と、昇降口のざわめき。クラス替えの紙を見るために、子供たちがもう集まり始めている。
ランドセルが肩に食い込む。さっきした放課後の約束も、頭の隅に残っていた。
昇降口に入る前、俺は一度だけ振り返った。
通学路の向こうは、さっき歩いてきた春の朝のままだった。もう戻れないはずだったあの頃が、普通にそこにあった。
悠斗が先に走っていく。
「藤宮、早く!」
「分かってる」
俺はランドセルの肩紐を握り直して、校門の中へ入った。




