第四十四話 小学生最後の市民プール
「水曜、プール行こうぜ」
電器店へ行った次の日、遼太は公園へ来るなり、四つ折りの紙を広げた。
県営総合公園の夏季プール。
駅からバスで二十分ほどかかる場所で、紙の真ん中には、青い流れるプールと長い滑り台の写真が載っていた。
「これ、どこでもらったの?」
七海が紙の端を押さえた。
「駅。昨日、母さんと通った時にあった」
「市民プールじゃないんだ」
「流れるやつがあるんだぞ。こっちの方が絶対いいって」
遼太は写真の上を指で何周もなぞった。
去年行った市民プールは、自転車でも行ける距離にある。二十五メートルのプールと、小さい子用の浅い場所だけだった。
この紙に載っている場所は、それよりずっと広そうだった。
「水曜は無理」
七海が言った。
「何で?」
「家族で出かけるから」
「じゃあ木曜」
「俺、木曜は歯医者」
悠斗が自分の頬を押さえた。
「午後だけだろ?」
「三時から。帰ってきてからじゃ遅いよ」
「じゃあ金曜」
「金曜は俺が無理」
遼太は紙を見たまま言った。
「自分も予定あるんじゃん」
「いとこが来るんだよ。俺が決めたんじゃない」
七海が、持っていた夏休みの予定表を膝の上で開いた。
「来週なら?」
「来週まで待つの?」
「四人で行くんでしょ」
悠斗も予定表をのぞき込む。
登校日と家の用事を避けると、四人とも何も書いていないのは次の水曜日だった。
「一週間も先じゃん」
遼太が言う。
「プールは逃げないよ」
「混むかもしれないだろ」
「じゃあ三人で先に行く?」
七海が紙から顔を上げた。
遼太は少し黙り、写真の流れるプールをもう一周指でなぞった。
「来週でいい。朝から行けば混む前に入れるし」
「最初からそう言えばいいのに」
「今決めたんだって」
集合は駅前に九時になった。
バス代と入場料、昼ご飯代を持ってくること。家の人に聞いてから返事をすること。遼太が紙の裏に書こうとしたが、ペンを持っていなかった。
「藤宮、覚えといて」
「自分で覚えろよ」
七海が筆箱から鉛筆を一本出した。
「返してね」
「今度な」
「今書き終わったらでしょ」
遼太は、紙の隅に大きく九時と書いた。
* * *
次の水曜日、俺が駅前に着いた時には、七海だけが先に待っていた。
「早いね」
「母さんに、バスに遅れるくらいなら先に行けって言われた」
肩から掛けた鞄には、水着とタオルが入っている。財布の中には、母さんと一緒に数えた分だけ入れてきた。
「遼太、本当に来るかな」
「言い出した本人だろ」
「言い出した本人だから心配なんだけど」
発車時刻の十分前になって、悠斗が走ってきた。少し遅れて遼太も駅前へ駆け込んできて、悠斗より息を切らしていた。
「何で遅いの?」
「紙が見つからなかった」
「時間、紙に書いたの遼太じゃん」
「だから探したんだよ」
七海から借りた鉛筆は返したらしい。そこだけは忘れていなかった。
バスは住宅地を抜けて、見たことのない広い道へ出た。
窓の外に大きな駐車場と青い滑り台が見えると、遼太が降車ボタンを押した。
「降りるのは、もう一つ先だよ」
「見えたから、ここだと思った」
「押したものは仕方ないな」
バスは目的地の一つ前の停留所で止まった。運転手に「降りないの?」と聞かれ、俺たちはそこで降りた。
駐車場の外側に沿って歩くと、青い滑り台は見えているのに、入口はなかなか近づかなかった。
「次だって言ったのに」
「歩けば着くんだから同じだろ」
「バスで着くのと歩くのは違うよ」
七海に言われ、遼太は聞こえないふりをして先を歩いた。
入口でそれぞれ入場券を買った。
俺が四枚分を先に買うこともできた。でも、悠斗も七海も自分の財布を出している。遼太は百円玉を一枚落とし、券売機の下へ転がる前に靴で止めた。
着替えを済ませて外へ出ると、時計の下で七海が待っていた。
「遅い」
「遼太が鍵の番号を忘れた」
「忘れてない。四と九を反対にしただけ」
「それを忘れたって言うんじゃない?」
プールの水は、外から見た時より青くなかった。人が歩くたび底の模様が揺れて、日が当たるところだけ白く光っている。
遼太は準備運動も終わらないうちから、流れるプールの入口を見ていた。
「最初、あれな」
「走ったら怒られるよ」
「走らないって」
注意されたのは、遼太ではなく悠斗だった。
足の裏が熱かったらしく、日陰まで小走りになったところを、近くの係員に歩くよう言われた。
「遼太ばっかり見てた」
悠斗が言うと、七海が笑った。
流れるプールへ入ると、水は思っていたより強く足に当たった。
七海が先に底から足を離す。肩まで水に入り、そのまま少し先へ運ばれていった。
「早く来なよ」
遼太が続き、悠斗も水を蹴った。
俺も足を離したが、身体が横を向き、後ろから来た大きな浮き輪に押された。
「藤宮、そっちじゃない」
「流れてるんだから同じだろ」
「後ろ向いてるじゃん」
向きを直している間に、三人は少し先へ行った。
追いつこうとして泳ぐと、今度は流れの外側へ寄りすぎた。悠斗が壁を蹴って戻ってきて、俺の腕を引いた。
「何してるの?」
「真っすぐ進まない」
「何もしなくても進むよ」
言われて力を抜くと、本当に水が身体を運んだ。
一周したところで上がるつもりだったのに、遼太が出口を通り過ぎた。二周目は七海が先頭になり、途中で悠斗が追い越そうとして水をかけられた。
次に行く場所を決めたのは七海だった。
「滑り台、行きたい」
遠くから見るより高かった。階段を上がる列は、途中で何度も折れ曲がっている。
「これ、遼太が行きたいって言ってたやつだろ」
「もちろん行く。全然怖くないし」
遼太は一番前へ行った。
曲がりへ入って姿が見えなくなってからも、遼太の声だけはしばらく続いた。滑り終えて立ち上がった時には、鼻を押さえていた。
「水入った」
「怖くなかった?」
「速かっただけ」
七海は笑いながら滑り、悠斗は最後までほとんど声を出さなかった。
俺は曲がるたびに身体が壁へ寄り、下に着く直前に口を閉じるのが遅れた。
「藤宮も鼻押さえてる」
「水入ったんだよ」
「遼太と同じじゃん」
「俺の方が先だからな」
何が先なのかは分からなかった。
昼は売店の焼きそばと、四人で一つの大きなフライドポテトを買った。ポテト代は同じだけ出そうとしたけど、十円玉が一枚足りない遼太だけ十円少なくなった。
「あとで返す」
「それくらいいいよ」
「じゃあ、次に何か買う時、俺が十円多く出す」
「遼太、次まで覚えてる?」
「覚えてるって」
午後は二十五メートルのプールでも泳いだ。
端まで競争すると、悠斗が最初に着き、次が七海だった。俺は途中で息継ぎを失敗して立ち、遼太は隣のコースへ斜めに入って係員に戻された。
「もう一回なら勝てる」
「遼太、まず真っすぐ泳いで」
もう一回やっても、悠斗が最初だった。
帰りのバスでは、四人とも行きより静かだった。
濡れたタオルの入った鞄が足に当たり、車内の冷房で肩が冷えてくる。
「今日にずらしてよかった」
七海が窓の外を見ながら言った。
「水曜って最初から言ってただろ」
「それ、先週の水曜」
「同じ水曜じゃん」
「一週間違うよ」
遼太は返事をしなくなった。寝たのかと思ったが、次の停留所が近づくと急に顔を上げた。
「ここ、押すんだっけ」
「まだ次」
今度は、悠斗が先に降車ボタンを押した。




