第四十一話 買った時より少ない
「買った時より減ってる」
父さんがそう言ったのは、新しい靴を買う一週間前、九月最後の土曜日だった。証券会社から届いた紙を指で押さえていた。
テレビは消えていて、食卓にはその紙と、それが入っていた封筒が並んでいた。
マイクロ〇フトとアッ〇ル。
一月に百万円ずつ買った二つの株は、合わせて二百万円だった。その下に印刷されている今の金額は、それより少ない。
どちらも少しずつ下がっていた。
「驚いたか」
「少し」
「減ることもあるとは言ったぞ」
「分かってた」
「分かってるのと、実際に見るのは違うからな」
父さんは紙を俺の方へ向けた。
数字を見たまま、指先で紙の角を押さえる。
この二つが、ずっとこのままではないことは知っている。けれど、いつから上がり始めて、途中でどれくらい下がるのかまでは覚えていなかった。
未来で有名だった名前を知っているだけだ。
「売りたいか?」
「売らない」
「返事が早いな」
「だって、長く持つって決めたし」
「それで見ないふりをするのも違うぞ」
父さんが、二つの会社名を順番に指した。
「パソコンは、これからもっと使うと思う。だからマイクロ〇フトはまだ持ってたい」
父さんの指が、アッ〇ルのところで止まった。
家のパソコンはウィンドウズだった。学校で触ったものもそうだ。アッ〇ルのパソコンは、電器店で見たことがあるくらいだった。
「こっちは、まだうまく言えない」
「なら、次までにもう少し見とけ」
「うん」
「下がったから見ない、はだめだぞ。届いたら、必ず一緒に見るぞ」
「分かった」
父さんは紙を半分に折った。
「次に見た時、もっと減ってるかもしれないぞ」
「それでも、その時また考える」
口に出してから、もう一度金額を見た。
減った数字は、やっぱり小さくは見えなかった。
居間の戸が開いて、姉ちゃんが顔を出した。
「何見てるの?」
「前に買った会社の紙」
「会社、届いたの?」
「会社が届くわけないだろ。紙だけだよ」
姉ちゃんは父さんの横からのぞき込んだ。
「増えた?」
「今は少し減ってる」
父さんが答えると、姉ちゃんは俺を見た。
「じゃあ買わなきゃよかったじゃん」
「まだ分かんないだろ」
「減ってるんでしょ?」
「今はな」
「ふうん」
姉ちゃんは二つの会社名と減った数字をもう一度見たが、台所から母さんに呼ばれるとすぐにいなくなった。
「真鈴、みかん運んで」
「今行く」
返事だけは早かった。
しばらくして、みかんを一つ持ったまま戻ってくる。
「これ、こういちの分」
「運ぶんじゃなかったの?」
「運んだよ。ここまで」
「一個だけじゃん」
「残りはお父さん」
父さんは黙って立ち上がった。
姉ちゃんは俺の前にみかんを置くと、先に自分の分をむき始めた。
証券会社の紙は、みかんの皮が飛ばないように父さんが封筒へ戻した。
それから二か月ほどの間にも、紙が届くたび、父さんと金額を見た。
十二月に入ると、朝の空気が急に冷たくなった。
新しかった靴にはもう何本か細い傷がつき、銀色の線も最初ほど光らなくなった。毎日は拭かなくなったけど、泥がついた時だけは玄関に布を持っていった。
教室では、冬休みに何をするかという話が増えた。
「俺、サンタに新しいゲーム頼んだ」
遼太が休み時間に言った。
「もうもらえるって決まったの?」
七海が聞くと、遼太は机の中から折り畳んだ紙を出した。
「ちゃんと書いたから」
「書いたら絶対もらえるの?」
「たぶん」
「たぶんじゃん」
悠斗が紙を横から見た。
「第二希望まで書いてある」
「第一が無理だった時に困るだろ」
「第三は?」
「そこまでは決めてない」
遼太は紙を取り返して、もう一度折った。
「もらったら、うちでやろうぜ」
「まだもらってないのに?」
「もらうからいいんだよ」
「藤宮は何か頼んだ?」
悠斗に聞かれて、少し考えた。
「まだ、この前買ったゲームやってる」
「まだ終わってないの?」
「姉ちゃんが勝手に続きをやるから、話が飛ぶんだよ」
「一緒にやってるんじゃないの?」
「俺がいない時もやる」
七海が笑った。
「それ、藤宮のゲームじゃなくなってるじゃん」
「だから困ってる」
「じゃあ新しいの買えば?」
「それとこれは別だろ」
遼太が机に手をついた。
「じゃあ冬休みは俺んちな。第二希望でも面白いやつだから」
「何を頼んだの?」
「それは来てから」
「来なかったら?」
「その時考える」
冬休みに入って、遼太の第一希望はちゃんと届いた。
一度みんなで遊びに行ったけど、遼太は説明書を読む前に始めて、最初のところで何度も失敗した。悠斗が説明書を読み、七海が横から違うと言い、俺が代わった頃には、外が暗くなり始めていた。
年が明けて、三学期が始まった。
証券会社から次の紙が届いたのは、一月の終わりだった。
父さんは九月に見た紙と新しい紙を並べた。
「最初に見た時より、かなり戻ったな」
「買った時より増えてる」
「そうだな」
今度は、最初に見た時ほど指は止まらなかった。
「今度はどうする?」
「まだ持っておく。学校でも使い始めたし、これからパソコンを使う人は増えると思う」
父さんはすぐには何も言わなかった。
紙を見て、それから俺の顔を見る。
「だからって、この二つが上がるとは限らないぞ」
「うん。でも、今は売らない」
「そうか」
父さんは赤いペンを俺へ渡した。
「日付を書いておけ」
「俺が?」
「自分の紙だろ」
ノートを開いて、二つの会社名の横に二〇〇二年一月の日付を書いた。
前は父さんが書いていた場所だった。




