第四十話 新しい靴
「残り、四千八百四十円」
夏休み最後の日曜日、父さんが千円札と小銭を数え終えた。
テーブルには花柄のノートが開いてある。
ゲームソフト、三千九百八十円。ジュース、百円。雑誌、四百八十円。市民プール、二百円。アイス、百円。電池、三百円。
ノートに書いた分と、最初の一万円から減っている分は同じだった。
「途中で面倒にならなかったか」
「なった。アイスは次の日に書いた」
「忘れたままにしなかったならいい」
父さんは小銭を俺の前に戻した。
姉ちゃんが向かいからノートをのぞき込む。
「アイス一回しか食べてないの?」
「家でも食べただろ」
「それはお母さんが買ったやつじゃん」
「一緒だろ。食べたんだから」
「自分のお金で買うのがいいんでしょ」
「じゃあ自分で買えばいいだろ」
姉ちゃんは少し考えてから、母さんの方を見た。
「私にも一万円ないの?」
「夏休みに服買ったでしょ」
「あれは必要な服」
「三枚とも?」
「必要になるかもしれない服」
母さんは洗濯物を畳んだまま、顔も上げなかった。
父さんがノートを閉じる。
「残りはそのまま持っていていい」
「返さなくていいの?」
「最初から返せとは言ってない。ただ、明日になったらまた一万円もらえるわけじゃないぞ」
「それは分かってる」
「学校で必要なものは今までどおりこっちで出すからね」
母さんが俺の靴下を二枚重ねて、横に置いた。
「遊びに使うものは、その残りから。高いものは先に相談」
「うん」
「ノートも続けるんだぞ」
「分かった」
花柄のノートと残った金を、自分の部屋へ持っていった。
二学期が始まってからは、一度も使わなかった。
欲しいものがなくなったわけではない。ゲーム屋へ行けば中古のソフトを見たし、遼太が雑誌を持ってくれば俺も欲しくなった。
でも、一度買ったゲームはまだ終わっていなかった。姉ちゃんも勝手に進めるから、抜かされる前にやらないといけない。
花柄のノートは机の引き出しに入ったまま、九月が終わった。
十月に入った土曜日、出かけようとしたところで母さんに止められた。
「こういち、ちょっとそこ座って」
「今履いたばっかりだけど」
「いいから」
玄関に腰を下ろすと、母さんが靴のつま先を指で押した。
「これ、もう小さいんじゃない?」
「まだ履けるよ」
「親指当たってるでしょ」
足の指を動かすと、親指の先が靴に当たった。かかとの外側も少し潰れている。
「いつから?」
「分かんない。そんなに痛くないし」
「痛くなってから言われても困るの」
靴を脱ぐと、母さんはそれを持ったまま居間へ戻った。
「お父さん、今日、靴見に行ける?」
「午後ならな」
ソファに寝転んでいた姉ちゃんが起き上がった。
「私も行く」
「あんたは靴あるでしょ」
「見るだけ」
「見るだけで終わったことないじゃない」
午後、四人で駅前の靴屋へ行った。
子供用の棚には、白や青や赤の運動靴が並んでいた。母さんに言われて何足か履いてみたけど、最初の二足は足が中で動いたり、かかとが浮いたりした。
三足目は紺色で、横に銀色の線が入っていた。
立ってみると、靴底に少し厚みがあった。店の中を何歩か歩いても、かかとは浮かなかった。
「それ、いいじゃん」
姉ちゃんが言った。
「さっきのより、こっちの方がいい」
「どこが?」
「横の銀色」
「そこかよ」
もう一度棚の前へ戻り、値札を見た。
六千九百八十円。
さっきまで履いていた二足は、どちらも四千円台だった。
「高い?」
父さんが横から値札を見た。
「少しな」
「別のにする」
脱ごうとすると、母さんがしゃがんだまま俺の顔を見た。
「気に入ったんでしょ」
「まあ。でも、他のでも履けるし」
「五千円までは出すよ。残りを自分で出したいなら、それでもいいけど」
千九百八十円。
引き出しにある四千八百四十円のうち、半分より少し少ない。
ゲームソフトなら中古で一本買える。雑誌なら何冊も買える。
それでも、鏡の前に立つと銀色の線がもう一度目に入った。
「これにする」
「本当に?」
「うん。残りは自分で出す」
姉ちゃんが少し笑った。
「銀色がよかったんじゃん」
「履きやすかったんだよ」
「はいはい」
姉ちゃんも見るだけでは終わらず、白い靴を一足持ってきた。母さんに値札を見られて、一度棚に戻し、少し安い方をまた持ってきた。
「それでいいの?」
「こっちの方が汚れにくそうだから」
「どっちも白だけど」
「こういちは黙ってて」
家に帰ってから、母さんに千九百八十円を渡した。
花柄のノートに、靴の差額、千九百八十円と書いた。残りは二千八百六十円になった。
連休明けの火曜日、新しい靴で学校へ行くと、昇降口で遼太がすぐに気づいた。
「靴変わってる」
「踏むなよ」
「踏んでない。見てるだけ」
「近いって」
遼太がしゃがんで銀色の線を指でなぞろうとする。俺が足を引くと、今度は反対側へ回った。
「それ、速く走れるやつ?」
「靴だけで速くなったら苦労しないだろ」
「じゃあ何で買ったの?」
悠斗が上履きに履き替えながら聞いた。
「前のが小さくなったから」
「じゃあ、買い替えただけ?」
「そうだよ」
後ろから来た七海が、俺たちをよけて下駄箱を開けた。
「朝から何してるの」
「藤宮の靴見てる」
「遼太、そういうの気づくんだ」
「光ってたから」
「銀色なだけだろ」
その日の体育は、運動会の練習だった。
校庭を一周したあと、短い距離を何本か走らされた。新しい靴は前のものより足に合っていて、走ってもかかとは浮かなかった。
二本目では遼太に少し離され、三本目は途中で靴ひもが気になって一度下を見た。
「新しいのに負けてんじゃん」
「だから靴は関係ないって言っただろ」
「買った意味ないじゃん」
「履きやすいんだよ」
練習が終わるころには、紺色のつま先に白っぽい砂がついていた。
七海がそれを見て笑う。
「もう汚れてる」
「校庭走ったら汚れるだろ」
「朝はあんなにきれいだったのにね」
「言うなって」
家へ帰ると、玄関で靴を脱ぎ、濡らした布を持ってきた。
「初日から拭くの?」
姉ちゃんが階段の途中で止まった。
「砂ついたから」
「どうせ明日もつくじゃん」
「今日のは今日のだろ」
「二千円分、大事にしてるね」
「うるさい。ほっとけ」
つま先を拭くと紺色は戻ったけど、縫い目に入った砂までは取れなかった。
「こういち、靴はあとでいいから、先に手洗って」
台所から母さんの声がした。
「今行く」
布を靴の上に置いて立ち上がると、姉ちゃんがまだ階段から見ていた。
「そこ、まだ砂入ってるよ」
「分かってる。あとで取る」
「手洗ったら忘れるくせに」
姉ちゃんはそれだけ言って、先に二階へ上がっていった。




