第三十一話 新しい上履き
春休みに入ると、居間の鴨居に姉ちゃんの中学の制服が掛かった。
紺色の上着とスカートには透明なカバーがかかっている。母さんに言われて袖を通した姉ちゃんは、鏡の前で腕を伸ばした。
「袖、ちょっと長くない?」
「三年間着るんだから、それくらいでいいの」
「入学式までに伸びるわけじゃないのに」
「入学式だけ着るんじゃないでしょ」
母さんが袖口を折って確かめると、姉ちゃんは窮屈そうに肩を動かした。
「部活が始まったら、帰りも今より遅くなるんだからね」
「まだ入ってないよ」
「ソフトテニス部、見るって言ってたでしょ」
「見るのと入るのは別」
そう言いながら、姉ちゃんは鏡に映った襟をもう一度直した。
次の日、俺の上履きとノートを買いに出た。
上履きの箱を開けると、白いゴムの匂いがした。
「今の、もうきついでしょ」
母さんが棚の前で言った。
「まだ履ける」
「履けるのと、ちょうどいいのは違うよ」
「ちょっとだけだし」
「ちょっとだけ痛いなら、もう小さいの」
たしかに、終業式の日も少し当たっていた。つま先の方だけ、ぎゅっと押される感じがあった。
母さんが一つ大きい箱を取って、俺に渡す。
「履いてみて」
店のすみの小さい椅子に座って、片方だけ履いた。
かかとが少し余る。
「大きい」
「歩いてみなさい」
言われた通り、通路を二、三歩だけ歩いた。
靴底が床にこすれて、きゅっと鳴った。
「どう?」
「ちょっと大きい」
「でも痛くないでしょ」
「痛くはない」
「じゃあ、それにしよう」
母さんは値札を一回見て、そのまま箱をかごに入れた。
「俺、すぐ大きくなるかな」
「なるんじゃない?」
「適当」
「適当じゃないよ。去年より大きくなってるんだから」
母さんは笑って、今までの上履きを入れてきた袋を俺に持たせた。
古い方は、つま先が少し黒くなっていた。
洗っても、もう真っ白にはならない。
「中学で使うシャーペンも見るって言ったじゃん」
後ろから姉ちゃんの声がした。
いつの間にか、文房具売り場の方から戻ってきていた。
「言ったよ」
母さんが答えると、姉ちゃんは少し得意そうな顔をした。
「シャーペン見に行く」
「一本だけね」
「分かってる」
「本当に?」
「二本もいらないし」
姉ちゃんは返事を待たずに、文房具売り場へ戻った。
母さんと俺もその後についていく。
文房具の棚には、シャーペンや消しゴムやノートがぎっしり並んでいた。
姉ちゃんは太いグリップのついたシャーペンを一本持って、試し書きの紙に線を引いた。
「これが、いい」
「もう決めたの?」
「持ったら分かる」
「そんなに違う?」
「違うよ。こういうのは大事」
姉ちゃんはもう一度、紙の端に丸を書いた。
「こういちも書いてみる?」
「いい」
「なんで」
「買うの姉ちゃんだろ」
「書くだけ」
「あとで欲しくなったら困る」
「欲しくなるんだ」
「だから書かない」
姉ちゃんが笑って、シャーペンを母さんの買い物かごに入れた。
その中には上履きの箱と、国語のノートと、算数のノートが入っている。
「連絡帳は?」
母さんに聞かれて、俺は少し迷った。
「まだある」
「何ページくらい?」
「たぶん、半分より少し少ないくらい」
「じゃあ買っておこうか」
「いいの?」
「どうせ使うでしょ」
母さんは連絡帳も一冊入れた。
俺はかごの中を見た。
上履きの箱の横に、ノートと連絡帳と、姉ちゃんのシャーペンが入っている。
母さんは少しだけかごを持ち直して、そのまま消しゴムの棚を見た。
「こういち、消しゴムは?」
「まだある」
「小さくなってない?」
「なってるけど、まだ使える」
母さんは少し考えて、二個入りの消しゴムを取った。
「これは買っておく」
「二個も?」
「なくすでしょ」
「なくさない」
「この前、学校でなくしかけたって言ってたでしょ」
「次の日に見つけたって言ったじゃん」
「見つかったからいい、じゃないの」
姉ちゃんがすぐ横から言った。
「消しゴムってすぐどっか行くよね」
「姉ちゃんもなくしてるだろ」
「たまにね」
母さんが笑って、消しゴムもかごに入れた。
レジの近くに、ゲームの棚が少しだけ見えた。
ゲームボーイカラーのソフトの箱が、何本か並んでいる。
一瞬だけ目が行った。
「今日は学校で使うものだけね」
母さんに言われて、俺はすぐ前を向いた。
「分かってる」
「見るのはいいけど」
「今日は見ない」
姉ちゃんがにやっとした。
「こういちも欲しいものあるんじゃん」
「あるけど、今日は違う」
「なんかえらそう」
「えらそうにしてないだろ」
「えらそうだった」
レジで母さんが財布を出した。
レジの音が何回か鳴って、最後に姉ちゃんのシャーペンが袋に入った。
姉ちゃんは、自分のシャーペンだけを目で追っていた。
袋を持つと、上履きの箱の角が腕に当たった。
店の外は、思ったより明るかった。
風はまだ冷たいけど、冬の冷たさとは少し違う。
「帰ったら名前書かないとね」
母さんが言った。
「上履きに?」
「そう。あとノートも」
「今日書く?」
「今日書かないと忘れるよ」
それは少し想像できた。
家に帰ると、玄関で母さんが上履きの箱を開けた。
「先に名前を書こうか」
俺はランドセルから油性ペンを出した。
新しい上履きのかかとの内側に、藤宮、と書く。
線が少し太くなった。
「名前、大きくない?」
姉ちゃんが横からのぞく。
「見える方がいいだろ」
「大きすぎ」
「姉ちゃんのシャーペンにも書く?」
「書かない」
「なくすぞ」
「なくさないって」
姉ちゃんは買ったばかりのシャーペンを出して、ノートの端に何か書いた。
カチカチ、と芯を出す音がする。
「見て。線きれいじゃない?」
「そうか?」
「そうだよ」
俺には、前の鉛筆とそこまで違うようには見えなかった。
でも姉ちゃんは満足そうだった。
夕方、父さんが帰ってきて、玄関の上履きに気づいた。
「新しいのか」
「うん」
「足、大きくなったな」
「たぶん」
「たぶんじゃないだろ」
父さんは少し笑って、靴を脱いだ。
食卓では、姉ちゃんがまたシャーペンを出していた。
「ご飯の時はしまいなさい」
母さんに言われて、姉ちゃんは名残惜しそうにシャーペンを筆箱に戻した。
「明日も使う」
「宿題ないだろ」
「何か書けばいいじゃん」
「何かって何」
「名前とか」
父さんが新聞を広げながら、少しだけ笑った。
夜、玄関には、新しい上履きの箱がまだ出たままだった。
古い方は、洗面所の新聞紙の上に置かれている。
つま先の黒い線は、たぶんもう落ちない。
居間の方から、姉ちゃんのシャーペンの音がまた聞こえた。
カチカチ。
それから、母さんの声。
「芯、出しすぎ」
姉ちゃんが何か言い返している。
俺は玄関の上履きをもう一回見てから、部屋に戻った。




