閑話 入学式まで待てない【別視点・藤宮真鈴】
「遊びに来たのに、筆箱持ってきたの?」
絵里の部屋で鞄を開けたら、すぐに見つかった。
「これ、買ったんだ」
新しいシャーペンを出すと、絵里は読んでいた漫画を伏せた。小学校で同じクラスだった時も、新しい文房具を持っていくと、必ず手に取って見ていた。
「いいな。持っていい?」
「落とさないでよ」
「そんなことしないって」
絵里は机の引き出しから自由帳を出した。開いたページには、六年生の時に二人で描いた漫画の続きがあった。
主人公の女の子は、まだ目が片方しか描かれていない。
「あ、これ。続き描いてないの?」
「顔がうまく描けなかった」
「片目で止まってるの怖いんだけど」
「真鈴が描いてよ」
「そっちが描き始めたんじゃん」
絵里は新しいページを開き、私のシャーペンで目を二つ描いた。
「こっちだとうまく描ける」
「さっきの顔にも描けばいいじゃん」
「漫画の方は失敗したくないの」
丸い顔と肩まで伸びた髪がついて、私に似た女の子になった。
「それ、私?」
「似てるでしょ」
眉毛が、ずいぶん斜めだった。
「怒ってるじゃん」
「落とさないでよって言った時の顔」
「そんな顔してない」
自由帳を引っ張ろうとすると、絵里は笑って、描いた顔の上に手を置いた。
「まだ描いてるから」
「じゃあ、もうちょっとかわいくしてよ」
女の子の頭に、顔より大きなリボンがついた。
「そういうことじゃないんだけど」
絵里がとうとう声を出して笑った。私まで笑ってしまって、自由帳から手を離した。
春休みになってから、筆箱を鞄へ入れたのは初めてだった。
家ではもう、自分の名前を何度も書いた。今日は絵里にも見せたかった。
「絵里はシャーペン、買わないの?」
「まだ今のを使うよ」
「買ってもらえば?」
「筆箱を新しくしたいから、そっちが先」
絵里の筆箱は、布の角が擦れて白っぽくなっていた。
「これ、三年から使ってるもん」
「そのキーホルダーも?」
「これは去年からだよ」
絵里はファスナーについていた小さな人形を持ち上げた。服の端がほどけていて、糸が一本出ている。
「新しくしても、これはつける」
「また大きいの買うの?」
「今度は小さいのがいいな」
「でも、色ペンとか全部入る?」
「使わないのは置いてく」
「絵里、全部使うって言いそう」
絵里は筆箱を開けて中を見た。何本か出しかけて、また戻す。
「……もうちょっと大きいやつでもいいかも」
絵里は私のシャーペンを、人差し指の上で回そうとした。
「落とさないでよー」
「落としてないよ」
言いながら、自分の膝の上に落とした。
私が見ると、絵里は拾ってすぐ返してきた。
「床じゃないから」
シャーペンの先を見てから、自由帳に線を引く。ちゃんと書けた。
絵里は私の顔をのぞき込み、何も言わずに笑っていた。
「何」
「やっぱり今の顔だ」
自由帳の、つり上がった眉毛を指さす。
私はシャーペンを持ち直し、その隣に丸い顔を描いた。
「じゃあ、これ絵里」
「髪、そんなに短くない」
「描いてる途中だから」
片側の髪を伸ばすと、もう片側と長さが違ってしまった。そろえているうちに、ずいぶん長い髪になった。
「そこまで伸びるのに、どれくらいかかるのよ」
「中学卒業するまでかかるんじゃない?」
「それじゃあ卒業まで切れないじゃん」
絵里は笑いながら、床へごろんと横になった。
私は顔の下に制服を描き足した。居間に掛かっている自分の制服を思い出しながら、襟の線を引く。
「制服、もう着た?」
寝転がった絵里が聞いた。
「着たけど、袖が長くてさ」
「私も、手が半分隠れちゃう」
「お母さん、ちょうどいいって言うんだけど」
「三年間着るからでしょ。うちも言われた」
絵里が起き上がり、自由帳へ顔を寄せた。
絵里が「シャーペン貸して」と手を出したので、今度はそのまま渡した。絵里は、大きなリボンの女の子にも制服の襟を描き足した。
「入学式、緊張する?」
絵里は襟の線を描きながら聞いた。
「まあ、少し」
「真鈴でも?」
「私だってするよ」
「絶対、隣の子に話しかけるでしょ」
「知ってる子だったらね」
知らない子だったら、何を話せばいいのか分からない。
絵里は線を引くのをやめた。
「同じクラスがいいね」
「うん」
言ってから、さっきより小さな声になったのが気になった。
絵里は自由帳の上に、私と自分の名前を書いた。その上に「一年」と書き、シャーペンを止める。
「何組にしよう」
「まだ分かんないじゃん」
「絵なんだから、何組でもいいでしょ」
「じゃあ、一組で」
絵里は一組と書き足した。名前の周りに花を描き始めたので、私は絵里の筆箱から鉛筆を借り、二人の前に机を描いた。
「机、いらなくない?」
「教室なんだからあるでしょ」
「制服、隠れちゃう」
「あ、ほんとだ」
絵里が手で口を押さえた。私も、描き足した四角を見て笑った。
机を消そうとすると、制服の線まで一緒に薄くなった。
「ちょっと、制服まで消えてる」
「描き直せばいいじゃん。さっき、こっちだとうまく描けるって言ってたし」
「そこだけ覚えてる」
絵里はシャーペンの芯を少し出して、消えた線を描き直した。
片方の女の子は大きなリボン、もう片方は腰まである髪。制服を着せても、全然ちゃんとした絵にならない。
私は机の脚が一本だけ残っていることに気づいたけど、黙っていた。
「ねえ、まだ机の脚が残ってる」
すぐに見つかった。
「もういいかなって」
「最後まで消してよ」
絵里に肩を押され、笑いながら消しゴムを持ち直した。




