第二十八話 最初に買う名前
冬休みの残り数日で、食卓の上に見慣れない紙が少し増えた。
証券会社の案内。
父さんが赤いペンで印をつけた新聞。
電話番号を書いたメモ。
どれも俺のお金に関係しているのに、俺より父さんの方が先に動いてくれていた。
「これ、捨てていい紙?」
姉ちゃんが一度、スーパーのチラシと一緒に持ち上げた。
「それは捨てるな」
父さんがすぐに言って、姉ちゃんは手を止めた。
「何の紙?」
「父さんの用事」
「ふうん」
姉ちゃんはあまり興味なさそうに戻した。
そんなふうに、家の中に少しずつ紙が増えていった。
三学期が始まった日の教室は、少しうるさかった。
冬休みの話をする声が、あちこちから聞こえる。
「ばあちゃんち行った」
「お年玉いくらだった?」
「それ聞く?」
「聞くだろ」
黒板の端には、冬休み前に消し損ねたチョークの線が残っていた。教室はまだ、休み時間みたいにざわついていた。
遼太はランドセルを机の横に引っかけながら、俺の方を見た。
「藤宮、冬休みどうだった?」
「海を見に行った」
「海?」
「家族で一泊二日の旅行に行った」
「いいな」
「寒かったけどな」
「でも海だろ」
「まあ、海はよかった」
悠斗が横から入ってきた。
「写真ある?」
「家にある」
「見たい」
「今はないって」
「そりゃそうか」
七海が上履きのかかとを直しながら言った。
「温泉も入った?」
「入った」
「いいなあ」
「お土産は?」
遼太がすぐ聞いた。
「もう食べた」
「早」
「姉ちゃんがすぐ食べた」
「残しとけよ」
俺は少し笑った。
学校では、旅行の話も、お土産の話もできる。
でも、家に増えた封筒のことは言わなかった。
「藤宮」
遼太が机に手を置いた。
「今日公園行く?」
「帰ってから聞く」
「そのまま公園行こうよ」
「宿題もあるし」
「宿題はみんなあるだろ」
「じゃあ遼太もやれよ」
「あとでやる」
「同じだろ」
遼太は何か言い返そうとして、やめた。
「じゃあ、来れたら来いよ」
「うん」
来れたら。
前なら、それだけでよかった。
今は、家に帰ったあとに、もう一つ気になるものがある。
帰り道、公園のことより、食卓に置かれた封筒の方が先に浮かんだ。
家に着くと、父さんの靴があった。
この時間にあるのは、珍しい。
「ただいま」
居間から父さんの声がした。
「おかえり。手を洗ってこい」
母さんより先に父さんに言われると、少し変な感じがした。
洗面所で手を洗って戻ると、食卓に新聞と封筒が置いてあった。
姉ちゃんはまだ帰っていない。
「今日、早いね」
「少しだけな」
父さんは新聞を畳んだ。
「証券会社に電話した」
その言葉で、ランドセルを下ろす手が止まった。
「どうだった?」
「すぐに何でも買えるわけじゃない」
「うん」
「でも、ちゃんと手続きをすれば買える」
買える。
父さんはすぐに言った。
「落ち着け。今日いきなり買うわけじゃない」
「分かってる」
「分かってるなら座れ」
俺はランドセルを部屋に置いて、花柄のノートを持ってきた。
前に書いたページを開く。
アマ〇ン。
本を売るネットの店。
アッ〇ル。
パソコンの会社。
マイクロ〇フト。
ウィンドウズを作っている会社。
その下には、まだ空白が残っている。
父さんはノートを見て、新聞の端を指で押さえた。
「全部いっぺんにはやらない」
「うん」
「最初は一つか二つだ」
「一つでもいい」
「その方がいい」
父さんは封筒から一枚紙を出した。
細かい字が並んでいて、端には父さんの字で、手数料、為替、電話、と小さくメモがある。
「ここは父さんが見る」
「うん」
「お前は、どの会社にするかをちゃんと考えろ」
「考えた」
「早いな」
俺にとっては、ずっと前から知っている名前だった。
それを言えないだけだ。
「アッ〇ル」
俺が言うと、父さんはすぐには返事をしなかった。
新聞の細かい字を見てから、もう一度ノートを見る。
「理由は」
「パソコンの会社だから」
「それだけか」
「名前を覚えてる」
父さんは少し眉を寄せた。
「それは理由として弱いな」
「弱い?」
「知らない名前よりはいい。でも、名前を知っているだけで買うのは危ない」
「うん」
父さんの言うことは正しい。
でも、俺はその名前の先を知っている。
知っているのに、うまく説明できない。
ノートの端に置いた鉛筆が、少し転がった。
「じゃあ、マイクロ〇フト?」
父さんが聞いた。
「それも考えた」
「そっちは父さんにも分かりやすい」
「会社で使ってるから?」
「そうだな」
少しだけ迷った。
未来のことを知っているなら、いくつも買えばいい。
でも、今は一つか二つ。
小学生の俺が、父さんに説明できる範囲から始めるしかない。
「じゃあ、最初はマイクロ〇フト」
言ってから、アッ〇ルの文字を見た。
消すわけではない。
ただ、最初の一つを決めただけだ。
父さんが赤いペンを持った。
「本当にそれでいいか」
「うん」
「アッ〇ルじゃなくていいのか」
「アッ〇ルも気になる」
「なら、二つにするか?」
思わず父さんを見た。
「いいの?」
「少しだけならな。ただし、そこで終わりだ。次から次へは買わない」
「分かってる」
「あとで、あれもこれもと言うなよ」
「言わない」
父さんはまだ信じていないみたいだった。
「言いそうだな」
「言わないって」
そこへ玄関の戸が開いた。
「ただいまー」
姉ちゃんの声がした。
すぐに居間をのぞく。
「何してるの」
「会社の名前を見てる」
「また株?」
「また、ってほどやってない」
姉ちゃんは俺のノートを見た。
「リンゴのやつ、まだある」
「会社の名前」
「リンゴ買うの?」
「リンゴは買わない」
「じゃあ何を買うの」
「株」
「リンゴの株?」
父さんが少し笑った。
「そう言うと、畑の話みたいだな」
「畑じゃない」
姉ちゃんはよく分かっていないまま、台所の方へ行った。
「お母さーん、今日のおやつ何?」
「先に手を洗いなさい」
「はーい」
父さんは赤いペンで、ノートの横に小さく丸をつけた。
マイクロ〇フト。
それから、少し離してもう一つ丸をつける。
アッ〇ル。
赤い丸は、鉛筆で書いた字よりずっとはっきりしていた。
「この二つから始める」
「うん」
「買うのは父さんが確認してからだ。金額も少しだけ」
「うん」
「今日決めたからって、明日から何か変わるわけじゃないぞ」
「分かってる」
でも、変わった気がした。
ノートの中の名前が、ただの名前じゃなくなった。
父さんは紙を封筒に戻した。
「宿題は?」
「ある」
「先にやれ」
「今から?」
「今」
俺はノートを閉じた。
赤い丸が、閉じる前に少しだけ見えた。




