第二十九話 電話の前
何の株を買うか決めたあとも、何日かはそのままだった。
学校では、三学期の係が決まり、漢字ドリルも新しいページに入った。
休み明けのざわざわした感じは少しずつ薄くなって、給食の時間には、遼太がまだ冬休みの宿題の話をしていた。
「作文、何書いた?」
「旅行のこと」
「ずる」
「ずるくないだろ」
「俺なんか、ばあちゃんちでみかん食った話だぞ」
「その話でもいいだろ」
「三枚も書けないって」
遼太はパンを半分に割りながら、少し本気で嫌そうにした。
「藤宮、何枚書いた?」
「二枚ちょっと」
「ちょっとって何」
「最後まで書けなかった」
「それ、ずるい」
「またずるいって言う」
笑いながら返したけど、頭の隅には別のことがあった。
父さんが封筒に戻した細かい字の紙。端には、手数料、為替、電話、と書いてあった。
給食を食べている間も、それが何度か頭に浮かんだ。
でも、誰にも言えない。
旅行の話はできる。ゲームの話もできる。作文が面倒だという話もできる。
株の話だけは、口に出せなかった。
短縮授業だった水曜日、家に帰ると、父さんが新聞を畳んだところだった。
俺は居間のテーブルで漢字ドリルを開いていた。姉ちゃんはストーブの前で寝転がって、テレビ欄を見ている。
「今日、電話する」
父さんが言った。
鉛筆の先が、同じところで止まった。
「証券会社?」
「そうだ」
「今から?」
「先に宿題を終わらせろ」
「分かった」
姉ちゃんがテレビ欄から顔を上げた。
「電話、長くなる?」
「少しな」
「じゃあ友達から電話来たらどうするの」
「来る予定あるのか」
「ないけど」
「じゃあ大丈夫だ」
姉ちゃんは納得していないまま、またテレビ欄に目を落とした。
俺は漢字を一行だけ書いた。
同じ字を何回も書くのに、途中から形が分からなくなってくる。右に払うところを左に曲げそうになって、消しゴムでこすった。
「そこ、消しすぎると破れるぞ」
父さんに言われて、手を止めた。
「分かってる」
「焦るな」
「焦ってない」
そう言いながら、たぶん焦っていた。
電話をするだけ。
それだけなのに、机の上の漢字ドリルより、電話機の方ばかり見てしまう。
台所から母さんの声がした。
「お昼、焼きそばでいい?」
「いいよ」
姉ちゃんが一番に返事をした。
「こういちは?」
「いいよ」
「お父さんは?」
「いいぞ」
父さんは封筒を持って、電話の横に座った。新聞の切り抜きと、赤い丸のついた俺のノートも一緒に置く。
「横で聞いてていい?」
「騒がないならな」
「騒がない」
「質問もあとだ」
「分かった」
父さんは受話器を取った。
番号を押す音が、いつもより大きく聞こえる。
姉ちゃんも、テレビ欄を見るふりをしながら少しこっちを見ていた。
「お世話になります。藤宮です」
父さんの声が変わった。
会社にいる時の声なんだろうと思った。家で聞く声より少し低かった。
俺は膝の上で手を握った。
「はい。先日伺った件です。少額で、二銘柄だけ」
二銘柄。
その言い方を聞いて、本当に株を買うところまで来たんだと思った。
父さんは俺のノートを見た。
「マイクロ〇フトと、アッ〇ルです」
姉ちゃんが小さくこっちを見た。
リンゴ、と言いそうになって、姉ちゃんは口を閉じた。
「はい。金額は先にお伝えした範囲で。無理のないところでお願いします」
父さんは何度か返事をした。
知らない言葉も混ざった。
でも、父さんは一つずつ聞き返していた。分かったふりをしないで、紙の端にメモを取る。
俺はそれを見て、少しだけ息を吐いた。
全部を分かっている大人なんて、たぶんいない。
でも、分からないところで止まれるのは、大人の方だった。
「はい。では、それでお願いします」
父さんがそう言った時、ストーブの上のやかんが小さく鳴った。
たぶん、今買ったんだと思う。
母さんが台所から顔を出した。
「終わった?」
父さんは受話器を置いてから、少しだけ息を吐いた。
「終わった」
「買えたの?」
俺が聞くと、父さんはすぐには答えなかった。
紙を見て、メモをもう一度なぞる。
「注文はした」
「注文」
「店で物を買うのとは違う。細かいところは向こうで確認してからになる」
「じゃあ、まだ?」
「ほとんど買ったと思っていい。ただ、父さんがあとで確認する」
そこで姉ちゃんが起き上がった。
「何買ったの」
「会社の一部」
「それ、買えるの?」
「少しだけな」
父さんが少し笑った。
姉ちゃんは首をかしげたまま、台所の方を向いた。
「お母さーん、会社買ったって」
「買ってません」
母さんの返事が早かった。
父さんも俺も、同時に少し笑った。
姉ちゃんはそれ以上言わず、焼きそばの匂いに負けた。
父さんは俺のノートを開いて、赤い丸の横に小さく一月の日付を書いた。
「これで終わりじゃないぞ」
「これからも買うってこと?」
「違う。しばらくは様子を見る」
「売らないってこと?」
「そうだ。少し上がったくらいで喜んで売らない。下がってもすぐ慌てない」
「長く持つ?」
「そのつもりで買った」
父さんは赤いペンのキャップを閉めた。
「お前が欲しがったものだ。でも、これからは父さんも一緒に見る」
「うん」
「勝手には動かさない。お金が欲しくなっても、すぐ売るものじゃない」
「分かってる」
分かっているつもりだった。
でも、赤い丸の横に日付が入ると、すぐには目を離せなかった。
書かれたのは日付だけなのに、ノートを閉じるまで少し時間がかかった。
「ごはんできたよ」
母さんが皿を運んできた。
焼きそばの上で、青のりが少し揺れている。
姉ちゃんはもう箸を持っていた。
「いただきます」
「まだ全員そろってない」
「そろった」
「お父さん、まだ座ってないでしょ」
父さんは封筒を閉じて、食卓の端に寄せた。
「あとでしまう」
「なくさないでよ」
「なくさない」
母さんの声は軽いのに、父さんはちゃんと返事をした。
俺は焼きそばを食べながら、封筒を見ないようにした。
見ないようにすると、余計に気になる。
「こういち、青のりついてる」
姉ちゃんが自分の口を指で示した。
「どこ?」
「そこ」
「取れた?」
「逆」
母さんが笑って、ティッシュを渡してくれた。
口の横を拭くと、食卓の空気が少しだけゆるんだ。
焼きそばを食べて、宿題をして、母さんに公園へ行っていいか聞く。
それでも、封筒だけは食卓の端に残っていた。
しばらくして、遼太が迎えに来た。
インターホンが鳴って、姉ちゃんが先に玄関へ行く。
「こういちー、遼太くん」
俺は上着を取りに部屋へ戻った。
机の上には、閉じたノートがある。
一回だけ開きそうになって、やめた。
「藤宮、早く」
玄関から遼太の声がした。
「今行く」
俺はノートを閉じたまま、部屋を出た。
外に出ると、まだ空気が冷たかった。
遼太は手をポケットに入れて、先に歩き出す。
「今日、ボール持ってきた」
「寒いのに?」
「走ればあったかいだろ」
「遼太、寒いの嫌いじゃなかった?」
「今日は大丈夫」
「適当だな」
「寒い時と寒くない時がある」
いつもの道だった。
電柱も、空き地のフェンスも、角の自販機も変わらない。
遼太の話も、だいたいいつもと同じだった。
公園の入口で、遼太が振り返った。
「藤宮、今日なんか静かじゃない?」
「そう?」
「ゲームしたい?」
「違う」
「じゃあ寒い?」
「少し」
「やっぱ寒いじゃん」
遼太が笑って、ボールを投げてきた。
受け取ると、手のひらが少し痛かった。
手のひらがじんとして、考えていたことが少し薄れた。
俺はボールを持ち直して、遼太に投げ返した。
まだ何も増えていない。
明日になっても、たぶん何も変わらない。
それでも、未来が少しだけ動いた気がした。




